file25:チョコレート
子供の力では限界があると思い知らされた千博と、わかっていながらそれでも同行した貫太郎。今は好きでもいずれ成長すればそうでなくなる。自分の気持ちは変わらないという貫太郎の訴えは彼女の心には届かなかった。
家出に同行して、しこたま大人達に怒られてから再び何もない退屈で平凡な時間が過ぎた。もはや鈴原の姿は保健室にも構内のどこにもなかった。学校の代わりに通っているのは、隣町にあるフリースクールらしい。それと中学受験はやらないことにしたようだ。どれも情報通の早川から少しずつ聞きだした噂話である。家出の失敗以来、彼女とは一度も話していなかった。会うことが許されなかったのだ。
女は男よりもずっと変わり気な生き物だ。そんな脅しのような冗談を早川から聞かされたのは、卒業を間近に控えた二月のバレンタインデーだった。単に大人ぶってみせただけかもしれない。決して誰かを特定して言ったわけではないのだろう。けれど、そのときの僕には違って聞こえた。ある種の説得力をもって不安な心に迫ってきた。
今頃、アイツは何をしているのだろう。誰といるのだろう。生まれた疑問は不安を糧にすくすく大きくなった。
だから放課後、僕は鈴腹に会おうと決めた。
学校のように大きな施設ではない。日も暮れかかり、オレンジがかった路地の一角に、フリースクールはこじんまりと営まれていた。かつての幼稚園を利用しているらしい。背の低いブロック塀を隔てて、敷地の中からデタラメなピアノの音と子供の遊び声が聞こえた。
勇気がないためか、それとも他に理由があったからだろうか。僕はここまできて、なお足を踏み入れることができなかった。かといって、他にどうする術もありはしない。ただ、敷地の中を眺めて待つしかなかった。
鈴原を目にしたとき、僕の心臓は跳ね上がるように高鳴った。建物から出てきた彼女。姿を見るのは、およそ二ヶ月ぶり。少しだけ大人っぽくなった気がした。
「す、鈴――」呼びかけた僕は口を閉じた。
会話の相手は中学生くらいだった。年上の男友達だ。楽しそうなふたりの話し声が僕のところまで届いた。
少し照れくさそうな仕草をする年上の男と白い歯を見せて笑う鈴原。そしてチョコレートが入っているだろうオシャレな包みの贈呈が行われ、ふたりは別れた。
フリースクールから出てきた男子生徒に話しかけられないよう、僕は視線を逸らしてやり過ごした。
女の恋はネズミの寿命よりも短い。朝聞かされた早川の言葉が身に沁みてわかった気がした。そもそも相手に恋心などあったかすら疑わしいが。
顔から血の気がひき、深い思考できそうもなかった。それでいて何故だか妙に納得できていた。
トボトボと帰ろうとした僕の背中に声がかかった。
「石井!」鈴原だった。
丸くさせた大きな目が確実にこちらを捉えていた。それでも僕の間抜け面よりは数段マシだったろう。なにせパクパクと口を開け閉めして、言葉にならなかったのだから。
こちらへゆっくりと寄ってきた鈴原は少しバツが悪そうな様子で言った。
「お父さんが、お父さんから石井と話しちゃいけないって言われたから」
だから年上の彼氏をつくっちゃいました。僕の心は言葉の続きを勝手に補った。要するに僕の思いは無駄だったのだ。あの夏の朝も、心配して苦しんだ日々も、家出に同行した寒い夜も。むしろ、こちらの努力は全て鈴原にとって重荷に過ぎなかったのだ、と。
「あの、さっきの人は吉田君っていって――」
「お似合いじゃないか」
説明を遮るようにして、僕は声を絞り出した。発せられた言葉は想像以上に乱暴に出来上がってしまった。
「アイツもここの生徒なんだろ? 不登校同士お似合いじゃないか」
本当はもっと気の利いた台詞を口にするつもりだった。しかし前もって用意していたわけではないし、何よりも強がりが混ざっていたのだ。
すると、やはり鈴原の表情が歪んだ。
「そんな、そんな言い方ないよ」
予想に反して、鈴原の声にはこちらの悪態を跳ね返すだけの勢いがなかった。一拍おいて呼吸と一緒に口から出た言葉。それは心から溢れ出た吐息と似ていた。代わりに僕は強い後悔と動揺を覚えた。
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