file21:おとうさん
貫太郎の自転車を使い、千博の練習は始まった。もともと運動神経の悪くない彼女にとって、それほど難しいことではないように思えた。そして練習終わりの夕暮れ時、一人旅に出たいのだという話を聞かされた。
季節は十二月となり、長かった小学校生活もあと三学期と少しを残すのみとなった。
当初、すぐに終わると思っていた自転車の練習は未だに続いていた。バランスのとり方もペダルをこぐ速さも申し分無い。残るは助走が付いたところで支えるこちらの手を放し、鈴原が自力で走行するだけである。あと一歩。しかしそれがこの一ヶ月、なかなか上手くいかなかった。
ヨロヨロと走り、上手くいったと思ったそのとき、急に速度が落ちて横へと倒れるのだ。本人によると、バランスをとることに集中してしまい、うっかりペダルをこぐ動作を忘れてしまうという。
毎日転んで衝突し、自転車は直しようがないほどボロボロだった。それよりも僕は鈴原の体が心配だった。彼女のヒザや腕には擦り剥いた傷や打ち身によるアザがいくつもでき、目立つようになっていた。
何といっても女の子の体である。僕は再三再四中断しようと忠告した。とりあえず傷が癒えるまで待って欲しかった。
しかし、鈴原は首を縦には振らなかった。頑として練習を続けた。毎日傷だらけになり、それでも次の日の夕方にはちゃんと校門の前で僕に声をかけてきたのだ。
はじめの頃は単純に嬉しかった。けれど次第に不安が大きくなって、その意図を推測してからはむしろ辛さの方が増していった。
確信はもてない。それでも、疑いは強くなっていた。やめてほしいと願った。鈴原が転ぶたびに僕の心は痛くなった。
とうとう耐えられなくなった平日の夕方。練習を終えた帰り道で僕は意を決して荷台に乗る鈴原へ尋ねた。
「本当はもう乗れるんじゃないのか」
故意にペダルを踏む足を止めている気がした。さらに体もわざと傾けているように思えたのだ。
視線を合わさず、鈴原はひと言発した。
「乗れない」
僕が怪我が治るまで中止にしようと提案しても、鈴原は認めなかった。首を横に振った仕草が背中でわかった。また「やめたい」と言っても「約束なんだから」と抗議してきた。
僕は強い口調で言った。
「約束破りって言われてもいい。怪我を治すまで自転車は貸さないからな。その代わり――」
するとその直後、電柱の影からひとりの大人が現われ、僕達の行く先を塞いだ。
サラリーマンだろうか。スーツにネクタイ。片手には革カバンを握っていた。自転車を止めて見上げた男の形相はまるで鬼のようだった。
男は僕を睨みつけ、低い声で唸った。
「娘に怪我させてるのはお前か」
「お父さん!」
正面の鬼、それに加えて背後から聞こえた声に、僕の頭は真っ白になった。
真っ赤な顔のサラリーマンは鈴原のお父さんだった。どうやら見張っていたらしい。毎日汚れた服で帰る傷だらけの娘を心配したのだろう。当然、九月に起きた出来事も担任の口から伝えられていたと思う。状況証拠だけを見て考えれば、僕はいじめの容疑者だった。
「こっちはお前かと聞いているんだ!」
カチコチに固まった僕へオジサンは容赦なく怒鳴りつけた。子供を守る親の力を初めて見せつけられた。恐ろしくて意識を失いそうなほど、凄まじい威圧感と迫力だった。
「違うの!」
荷台から降りた鈴原が慌てて割って入った。
「石井には、石井君には自転車を教えてもらってるの!」
「嘘をつくんじゃない!」
それからのことは漠然としていて、よく憶えていない。確か鈴原は真っ赤な顔で反発しながらオジサンに引っ張られて帰った。一方の僕はたんまり山盛りの脅しを土産にもたされたようだ。『名前は憶えたからな』とか『担任や親に話してやる』、さらには『二度と娘に近づくな』や『今度見かけたらタダじゃ済まさない』などといった文句だったと思う。
こうして僕は放心状態のまま、夢遊病患者のように家路へとついた。
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