file2:ピーマンと自転車
いつもと変わらないちょっとした言い合いがまさか深刻な喧嘩に発展してしまうとは、誰も予想していなかった。貫太郎がカナヅチなのには、愛犬の事故死という理由があったのだ。それを友人から聞き、知った鈴原千博は謝罪の電話をかけた。
明日の土曜日なんだけど、よかったら一緒にプール行かない?
十時半に駅前で待ち合わせという約束は鈴原が電話でした提案で、僕は『行く』とも『行かない』とも答えずに電話を切ってしまった。余裕がなかったのだ。とにかく時間が欲しかった。
結果からいうと、僕は誘いを受けなかった。今頃待っているのだろうと罪悪感を覚えながらも、時計の針を見つめたまま動けなかった。自分自身が利己的で弱い人間だと悟った。最低だと感じた。
月曜日、隣に座る鈴原は土曜日のことを何も口にしなかった。こちらがよそよそしくして先手をとらないせいか。会話もなく、喧嘩もなかった。今更ながら、とても自分達以外の周囲が賑やかなのだと気付かされた。
火曜日になり、言葉を交わさないまま土曜日になった。僕は相変わらず水泳をズル休みしたが、もはや鈴原は何も言ってこなかった。ノートの落書きもあの日のままだった。ヒゲのない猫は何枚もページを重ねられ、捲らなければ見えなくなっていた。
こうして時間だけが過ぎていくと思い始めた土曜日の朝、母親に叩き起こされた僕は自宅の玄関で鈴原の出迎えを受けた。
先週すっぽかしたプールへ誘いにきたのだ。何の前触れもない突然の出来事だったが、僕の心は面倒臭さや憤りよりも、むしろ嬉しさの方が強かったと思う。それでも泳げないと言う事実が僕を不安にさせてはいたが。
水着の入った袋を握らされて、市営プールへと向かった。市内に住む小学生は無料で入れるのだ。自転車でも行ける距離だったが、鈴原が徒歩だったので電車を使うことにした。
気まずい空気を押し流そうと、僕は思い切って口を開いた。
「休日使ってまで、そんなに俺が泳げない事を笑いたいのかよ」
よほど暇なんだなと悪態をついたが鈴原は何も言い返さなかった。
今までどうやって接していたのだろうか。僕は悩んでしまった。空の飛び方を忘れてしまったニワトリのように、また浜に打ち揚げられたクジラのように、もがくようなどうしようもないぎこちなさが常にあった。少なくとも一週間前まではこんな事を感じずに付き合えていた。それが欲しくてたまらなかった。
切符を買って電車に乗り込み、隣の駅で降りる。ただそれだけの事なのに、僕の心は興奮しているようだった。閑散とした車内からみえる鮮やかな青空は流れる見慣れた街の風景を一変させていたのだ。
まだ梅雨は明けていないが夏だと感じられた。普段家で怠惰に潰す土曜日とはまるで違っていた。時間を束縛されているはずなのに、こちらのほうが数倍も自由に感じられた。いつも鈴原はこんなに充実した週末を過ごしているのだろうか、と羨ましく思えたりもした。
これから起きることは素晴らしいものかもしれない。不思議なことに、一抹の期待が生まれていた。
良い天気のため、市営プールは人でごった返していた。僕らの他にもスクール水着の小学生が幾人か確認できた。他の学校の生徒もいた。
数年ぶりに足を入れたプールの水は太陽に温められたせいで思ったほど冷たくは感じなかった。怖くもなかった。
僕が胸まで水に浸かると、鈴原は後からドボンと勢いよく入った。
「流れるプールにいこうよ」鈴原は言った。
市営とはいえ設備は充実していた。長方形の五十メートルはもちろん、ウォータースライダーや小さな子供用の浅いプールまで揃っている。アイスクリームやジュースなどを買える売店もあった。
赤く焼けた肌が痛みを感じることも忘れて、僕は閉館まで遊んだ。こんなに夢中になったのは何年ぶりだろうかと思った。こんな毎日が続いてずっと欲しいと思うほど、とても楽しかった。
駅へと向かう夕暮れの帰り道、不意に会話をしていた鈴原の表情が沈んだ。
「この前はごめんね。酷いこと言って」
いつの間にか僕は鈴原と話しができていたことに気付かされた。そしてこの状態をまた壊したくないと思った。
僕は言った。
「そんなこと気にすんなよ。俺が泳げないのは事実なんだし」
口に出して、あらためて胸がジクジクと疼いた。それでも平静を装って、笑ってみせた。
「今日は久しぶりに楽しかったよ。泳げればもっと楽しいんだろうな」
「泳げるよ!」
流れるプールでは浮いていたのだから、緊張さえ抜ければ泳げるようになると鈴原は言った。彼女の目は真剣だった。その力説に僕は困惑した。
カンナ太郎というあだ名を広めたのはずっと鈴原だと思っていた。しかし、よく考えてみると、彼女からそう言われた記憶が僕にはあまりなかった。だから『カナヅチ』と呼ばれたとき、無性に腹が立ったのかもしれない。水泳の授業に出ないことを批難されても、泳げない事自体を罵られたのはあの日が初めてだったのだ。
「お前はいいよな」僕は溜め息混じりに呟いた。「好き嫌いも無いし、何でも出来るし」
すると意外だったのだろうか、鈴原は少し驚いたようにこちらをみて、それから首を横に振った。
「私にだって嫌いなものはあるよ」
ピーマンと正面を見たまま、鈴原は表情を変えずに言った。
「嘘だ。いつも食べてるじゃんか」
「食べてるよ。でも嫌いだもん」
それに、と言い出しかけて鈴原はいったん口を閉じた。それでも打ち明けたい気持ちが強かったのだろうか。しばらく考えた末、彼女は囁くように小さな声で言った。
「私、自転車に乗れないんだ」
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