file10:病み上がりの教室
夏の水泳の特訓が終わり、海から帰ったふたり。電車内での会話は弾まない。それでも、これから訪れる秋が実りあるものだと貫太郎は期待せずにはいられなかった。
夏休みが終わり、最初の水泳の授業がやって来た。この日は検定だった。
かつて毛伸び十メートルの壁にぶつかっていた僕だったが、もはやカナヅチではなくなっていた。バタ足にクロール、平泳ぎと褐色の肌をしたイルカのようにプールの中を縦横無尽に泳いだ。
ある生徒は『なんだ石井、泳げるじゃん』と素直に驚き、級を追い抜かれたひとりは悔しさから閉口した。僕は飛び級に飛び級を重ね、黒星一つにまで上ってしまった。当然、僕を『カナヅチカンナ太郎』と呼んでからかう人間はいなくなった。
この日、鈴原の姿はプールになかった。風邪をこじらせて始業式から学校を欠席していたのだ。僕の練習に付き合っていたこともあり、彼女はまだ目標である一級をとってはいなかった。それでも水泳の授業が終わる九月の第四週まで検定はあと二回残っていた。別に焦る必要はなかった。
ノートに落書きされた猫もヒゲがないままだった。今度、会ったら付け足してもらおうと考えていた。さらに検定での活躍を自慢げに話すつもりだった。そして何よりもお礼の言葉を伝えようと思っていた。
もう少し早く素直になれていたら、そんな後悔をしなければならないとは考えもよらなかった。
鈴原と入れ替わりで風邪をひき、僕が学校を休んでいた月曜日。その事件は起こった。
翌日、喉の痛みを不快に感じながら登校した僕は早速いつもと様子がおかしいことに気付かされた。遅刻寸前で教室に滑り込んだこちらへクラスの全員が一斉に視線を向けてきたのだ。瞬間、教室の中がシンと静まり返っていた。
「お、おはよう」僕は緊張して言った
誰か他の人間を意識していたのだろうか。違うとわかると、すぐにまた男子の群れも女子の群れも各々会話を再開した。幾人かは面倒臭そうに挨拶を返してきた。
普段は騒いで教室内を走り回っている佐渡学と池沼健二のふたりがこの日に限っては何やら小声で話し合っていた。また喧嘩をして互いに無視を決めたはずの青木玲子と生田奈菜も雪解け兆しが訪れていた。それだけではない。みんな全体的にどこかソワソワとして落ち着きがなく、それでいて妙な連帯感があった。とても不自然だった。
怪訝に思いながら席についた僕はその日も隣を確認した。ランドセルは無かった。二学期が始まり、鈴原に会っていない状態が一週間も続いていた。風邪が長引いているのだろうか。このとき、何も知らない僕はそう心配した。
「鈴原の奴、また今日もサボりかよ」
僕はそれとなく学級委員の鮎川に話しかけた。容態を尋ねるとき、あえて悪く言ったのは茶化されない為の予防線だった。友人をけなされて怒るだろうか。それともこちらの意図を見透かしてからかってくるだろうか。
しかし、鮎川の口から発せられたのは少し意外な言葉だった。
「うん……えーと、昨日は来たんだけど」
反応が明らかに普段と違っていた。『鈴原』という名前を耳にした途端、驚いた様子でビクリと固まり、それからこちらをチラチラと確認してきた。僕の心に小さな不安が芽生えた。
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