file1:カナヅチカンナタロウ
魔王の降臨も伝説の剣も存在しない平凡な日常の中で起きる物語です。これまでに幾度も世界の危機が救われる場面を読まれてこられた皆様、まったりと気晴らしにどうぞ。
夜更かしと昼寝が何よりも大好きだった僕にとって、小学校で過ごす時間はもとから性に合わなかったのだと思う。四十五分の授業と五分の休憩を繰り返す規則正しい毎日は拷問に近かった。きっと今ならば耐えられないに違いない。特によく晴れた青空を見つけると、何でこんな天気の良い日に自分は授業を受けていなければいけないのだろう、という気分にさせられた。それはあの日も同じだった。
六月のよく晴れた午前中、僕は社会の教科書にひじを乗せ、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
「コラ、石井貫太郎」加藤佳子先生は僕の頭を出席簿で叩いた。「黒板は窓の外にないぞ」
どうせ教える気はないのだろう。自分のつまらない授業を棚に上げてあんまりだと僕は思ったが、体は反射的に従順な態度を示していた。これが六年間で教えられた一番の成果だった。
「ん?」
仕方なく板書を写そうとノートに目をやった僕は右端に描かれた落書きを発見した。自分が書いたものではない。
先生が通り過ぎた後で隣に座っていた鈴原千博が話しかけてきた。
「可愛いでしょ。それ昨日考えたんだ」
「犯人はお前か」
鈴原とは四年生の時からずっと同じクラスで、このとき以外にも何度か一緒の班になったことがある。僕が話すことがある数少ない女子の一人だった。
「ニャン太っていいます。よろしく」
「猫か、宇宙人かと思った」
言われて違和感の原因を突き止めた鈴原はさらに何かを描き足そうとした。
「ヒゲを描かせて」鈴原は言った。
昨日買ったばかりのノートだったので、当然僕は許さなかった。筆箱から取り出した消しゴムで描かれた絵をためらいもなくゴシゴシと擦った。しかしそれがなかなか無くならなかった。
「まったく。落書きなら自分のにしろよな。……げっ!」
火星からきた宇宙人、もといヒゲのない猫。よく見たら、それはボールペンで描かれていた。ご丁寧に『ニャン太』と名前まで記されていた。
僕が睨みつけると鈴原はシッシッシッとしてやったりの表情で笑った。
給食の時間も僕にとっては苦痛だった。好き嫌いせず食べるようにと命令される。僕は牛乳が苦手だった。
「まだ少し残ってる。ちゃんと全部飲んでよ」
食事の指導は先生だけで充分だ。それなのに好き嫌いなく何でも食べる鈴原は毎日僕の牛乳瓶を凝視して文句をつけてきた。
僕は口を尖らせて反発した。
「こうやって少し残しておけば、給食のオバサンが恵まれない野良猫達に飲ませてあげられるだろ。寄付だよ、寄付」
「嘘つき。そんなこと心にも思ってないくせに」
お前のニャン太も飢えから解放させるぞ、とヒゲのない猫の絵をからかってみると、予想通り鈴原の眉毛はさらに吊り上がった。
話題を逸らそうとしたのか、『それにしても』と同じ班で学級委員の鮎川典子は箸を止めて言った。
「天気予報が外れたわね。五時間目の体育はきっとプールよ」
あらかじめ先生から用意してくるようにと注意されていたので忘れた人はいないだろうけど。鮎川の言葉は僕から選択肢の一つを奪った。確かに教室後ろの棚には置いてあった。使わないようにと念じてはいたのだが。
「今日は入るよね?」
僕の様子から何かを察したのか、鈴原は覗き込むようにして尋ねてきた。
しばらく考えて、僕はポツリと答えた。
「俺、今日は風邪気味だから」
すると鈴原は大袈裟な仕草で『風邪と忘れ物は石井の常套手段だもんね』とお決まりの台詞を吐いてみせた。ジョウトウシュダンという難しい言葉を使うことが小学六年生の彼女にとって心地良かったのかもしれない。こちらは何度も聞いて耳にタコができそうだった。
さらに得意げな顔で鈴原は言った。
「知ってる? 四年生のときなんか、捻挫した足を理由に一ヶ月もサボったんだよ」
「うるさいな。本当に痛かったんだよ」
長い間近くにいたため、鈴原は数多く僕の弱点を把握していた。しかし、一方で向こうの弱みをこちらはあまり知らなかった。敢えてあげれば絵が下手なところだろうか。その自覚が本人にないので、あまり利用できないが。とにかく、僕に『カナヅチカンナ太郎』というあだ名がついたのは、この鈴原千博のせいなのだ。
退屈な授業や先生のお説教、さらにいえば給食の牛乳にも勝る学校生活で一番の拷問。それは水泳の授業だった。僕は六月が来る度に憂鬱にさせられた。それが休みを挟んで九月まで続くのだ。だから僕は夏が嫌いだった。
二十五メータープールの水面は午後の風で揺れ、キラキラと輝いていた。今日が六年生になって初めての水泳の授業と言うこともあり、冷たいシャワーを浴びて腰洗い層に浸かり終えた生徒達は皆、先生の合図を今か今かと待ちわびていた。何がそんなに楽しいのだろう。
水泳の授業は一クラスだけでなく愕然全体で行なわれた。男子と女子は右左と両サイドに分かれて並ばされていた。
最初は脚だけ浸かり、体を慣らしてから入水する。皆のはしゃぎ声を聞いてから、日除けの下で休む僕は碁石の入った笊を準備した。
「さすが見学のベテランね」呆れ顔で加藤先生は言った。
顔を水につける練習のために、また遊びのために石拾いのゲームをするのだ。僕はいそいそと他に見学していた生徒二人のもとへ行き、笊の中身を分け合った。
これから撒こうというとき、反対のプールサイドから声がかかった。
「石井、こっち!」鈴原だった。
よく見ると、他の生徒二人も同じ男子の側にいた。僕はあらためて女子の方へと向かった。
意識的か、それとも無意識にか。僕は女子の側に近づくことをためらっていた。それだけでなく視線も避けていた。何か悪い事をしているような気がしたのだ。気恥ずかしからかもしれない。
大人しく石を撒いていると、プールの中から鈴原が話しかけてきた。
「ほら、黒星が二個だよ。今年で絶対に一級をとって制覇するんだ」
検定の最高位を獲得するには規定の時間内に平泳ぎと自由形、それにバタフライか背泳ぎで五十メートルを泳がなければならない。そんなことが果たして可能なのか。蹴伸びの五メートルでつまづいている僕には、まさに未知の領域だった。
僕の心の中を見透かしたように、鈴原は意地悪く尋ねてきた。
「ところで石井君は何級だっけ?」
鈴原が僕を『君』付けで呼ぶのは、せいぜいこんなときぐらいだ。大抵は呼び捨てでだった。
僕は面倒臭い気持ちを抑えて答えた。
「こんなところで級なんかとっても、全く意味ないから」
「でも級は別にしても、やっぱり泳げた方がいいじゃん」
「俺は一生泳がないから」
「へぇ、じゃあ海でも川でも遊ばないんだ?」
指摘されて、僕は小学校一年生以来海水浴へ行っていない事に気付かされた。確かに今後将来にわたってどうなるかはわからない。しかし、それがいけないような鈴原の口ぶりはしゃくに障った。
僕はいつも皆に言う反論を口にした。
「水難事故なんて泳げない奴が被害に遭うんじゃない。泳げる奴が過信してなるんだぜ」
すると鈴原は仰向けになって水面から顔を出してみせた。手足を動かさなくても浮くことを証明したかったのだろうか。
「水死体の真似か」僕は皮肉った。
ビシャッ。周りが石拾いに夢中となっている中、姿勢を戻した鈴原は僕に水をひっかけた。
「カッコわる。いい加減カナヅチ卒業した方がいいんじゃない?」
それから先生に注意されるまで、喧嘩になる一歩手前の状態で水のかけ合いをしていた。怒っていたのは鈴原よりもむしろ僕のほうだった。隣のクラスの先生に『そんなに元気なら見学なんかしてんな!』と叱られて渋々ベンチに戻ったが、それでも腹の虫が収まらなかった。
カッコワル。イイカゲン、カナヅチソツギョウシタホウガイインジャナイ?
水泳の授業が終わり、帰りの仕度をする時間になっても、僕の気持ちは好転しなかった。いつもならこのくらいの言い合いは始終である。カナヅチをネタにされたときも去年まではこれほどまで重く受け止めなかった。しかし、今日に限ってはどこか勝手が違っていた。頭の中で鈴原の言葉が何度も再現され、その度に胸の奥がジグジクと痛んだ。
「大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど」
僕の様子を見かねたのか、学級委員の鮎川が声をかけてきた。
「風邪気味だから、帰って寝るよ」
答えてすぐ僕は鈴原を一瞥した。無関心なのか、黙々と机の中の教科書をランドセルへと移していた。
そんな彼女があらためて僕を批難したのは掃除の後だった。
「石井は逃げてると思う」
突然のことで驚いたが、僕はすぐに態勢を整えた。
「逃げてるって、何がだよ」
「何でも、何にでも」
「人間なんだから苦手なモノのひとつやふたつくらいあるだろう。お前はないのかよ?」
「私は逃げてないもん」
こんなときに弱み握っていれば言い返せるのに。鈴原の欠点を知らない僕は歯がゆい気持ちにさせられた。
そういえば、と言って近くにいた鮎川が火照った僕の顔を見た。
「石井がプールに入らなくなったのって、一年の二学期からだよね」
イシイガプールニハイラナクナッタノッテ、イチネンノニガッキカラダヨネ。
ビクリ。言葉を反芻した後、僕の体は途端に硬直した。
この鮎川は、学級委員は僕が泳げない原因を知っているのだ。もう五年も前のことなので、誰も憶えていないと思っていた。自分自身、忘れようと努力していた。しかし、それでも優等生の頭にはしっかりと記憶されていたのだ。
何の事かと鈴原は不思議そうにしていたが、苦悶に満ちた僕の表情を見て鮎川は閉口した。
「学級委員、掃除終わったんなら帰っていいよな」
ランドセルを背負い、僕は許可を待たずに教室を飛び出した。バランスを崩しそうになりながらも階段をかけ下りて、下駄箱から運動靴を引っ張り出した。家に帰りたい。学校の敷地から一刻も早く出たくて仕方がなかった。
小学一年生の夏、僕は葉山の海で飼い犬を死なせてしまった。ゴムボートに乗って沖へ出たいとせがんだのが間違いだった。
大波でボートが裏返しになったとき、その勢いで僕の浮き輪はいとも簡単に体から外れてしまった。もしそうでなければ、泳ぎの上手な父は犬のタロウを助けたに違いない。このときの事を思い出すたび、僕は後悔に打ちのめされる。そしてまたいっそう海が嫌いになってしまうのだ。
「貫太郎、電話だよ!」
一階から発した母の声で、二階の僕は久々にみた事故の夢から解放された。どうやらベットでうつ伏せになっているうちに眠ってしまったらしい。枕には涙の跡がついていた。
窓の外に目を向けると、まだ夜だった。照明をつけて時計を確認すると、針は八時半を過ぎていた。
「夕飯くらい、降りてきて一緒に食べなさい」
母の小言を聞き流して、ねむけ眼で受話器をとった僕は、意外な人間の声に驚かされた。
急に心臓の鼓動が激しくなり、息が苦しくなった。とりあえず何か発しようと僕は言葉を探した。
「どうして鈴原が? 連絡網は確か米山だったはずだけど」
連絡網は篠崎浩二だった。それでも鈴原にそんなことを指摘する様子はなく、何だか深刻そうな雰囲気が電話越しから伝わってきた。こちらと同じように緊張しているのだろうか。いつもとは違い、どこか物静かな印象を受けた。
しばらく沈黙が続いた後で、ポツリと小さな言葉が聞こえた。
「今日のことゴメン。アユから聞いた」
アユが鈴原の友人、学級委員の鮎川を指すことを僕は知っていた。あの後、彼女は喋ったのだ。
僕は言葉を失って、何も言えなくなってしまった。
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