05 各方面より消火
寒がって猫が布団に潜り込んできてやっときがついた。
…この猫、汚れている。洗わなくてはなるまい、と。
冴は酔っぱらっていたので、そのまま布団から出て、深く考えず、猫をひっさらうと、大股に風呂へ歩いて行って、猫を風呂場に放り込み、後ろ手にドアを閉めた。
猫は何がおこったのかわからずに、点灯と同時に温まり始めた床できょろきょろしている。
「…陽ちゃん、きたないでしょ。生ゴミみたく臭うから。きれいきれいしましゅよ。」
呂律のまわらない舌で、できうるかぎり優しくそう言うと、シャワーに驚いてはいけないと思い、洗面器にぬるいお湯をくんで、そのなかにそっと浸した。猫はギャ-と冴につめをたてた。ものすごく痛かったが、冴は離さず、手ですくってお湯をかけた。猫は冴の腕にかみついたが、寝巻の上に着ていたキルティングのガウンにささっただけだった。…やっぱり毛だから、石鹸よりシャンプーかな、と思い、薄めたシャンプーをざっとかけて、わしゃわしゃと洗った。猫はまるで断末魔のような声で鳴き叫び、さいごにきれいに泡を流し終えるたときには、鳴き声が擦れていた。
タオルでくるんでほにょほにょ拭いてやると「きらいだー、きらいだー」というような機嫌のわるい声で力なくしゃー、しゃーと文句を言った。冴はタオルを2回取り替えて、なるべくさっくり乾いたものでくるんでやった。部屋につれかえり、適当な箱にふかふかとタオルを入れて、ヒーターの前においてやった。猫はしばらく必死で「きたないーっ、きたないーっ、ぬれたーっ」とでも言うように毛皮を舐めていた(多分シャンプーのニオイが嫌なのだ)が、やがて乾いてふっくらしてくると、大人しくなった。冴は猫がすっかりふかふかになるまで、酔っぱらった目で箱のなかの猫をずっと見つめていた。
猫がおちついたところで、冴はふと、自分の手についた猫のつめのあとを気にした。見てしばらく考えたが、面倒だったので、自分でちょっと舐めた。それから布団に戻って、ごろりと横になった。
…修学旅行のあれは、事故だった。でも、今日のは…浮気、だよな、と思った。
…罪悪感とか後悔とか、まったく一切なかった。
ひどく空虚な心地がした。
こんなことを続けていたら、結局、藤原をひどく傷つけることになるのだ、と、ユウに言われたことを、自分に言ってみた。
…陽介も傷つけるのだ、と付け足してみた。
…誰であれ、傷つけばいいじゃないか、と思った。
それが正しいといいたい気分だった。だれかが傷付けば、せいせいすると思った。
支離滅裂だな、と自分で思い、きっと酔っているせいだと思った。
電気を消して目を閉じると、しばらくして、猫が懲りずに布団にやってきた。
今度は大丈夫だ。冴は猫を布団にいれてやった。
「…おこってるんだからね、でも許してやるんだからね、愛してるからなんだから。愛してなかったら、絶対許さなかったんだから。」
猫はそんな感じで、みゅ~とこもった声で不満げに鳴き、…冴の腋の下に潜り込むと、そこで傍若無人に丸くなって、やがて勝手に寝た。
…いい気なもんだ、と思った。それでも小さな猫の温もりに、少し、和んだ。
+++
…百合子の飯がまずいわけではけっしてない。自分で作らなくて良いのも、勿論、助かる。
だが、なんといえばいいのか…ずっと一週間、残り物をかたずけている気分なのだ。独りだと、なおさらだった。
そう思って、ゆううつに箸を口に運んでいたら、前触れもなしに突然久鹿の父がやってきた。さすがに冴は慌てた。
「せ…センセイ。もうしわけありません、休日なので、…今、食事を…。」
「寝ぎたない。」
一刀両断だった。陽介には甘い久鹿だが、冴にはまったく容赦なかった。
久鹿は勝手にあがり、居間につかっている部屋のコタツに勝手に入った。そこには、冴が食べかけていた食事がならんだままだった。慌てて片付けようとしたら、「まあいいから、食え」と言われた。…茶だけ出し、自分はおずおず食事に戻った。
「…百合子からいろいろきいた。机と椅子、あと床は、発注しておいた。敷物が必要らしいな。これで買いなさい。」
チャージ済みのカードを渡された。冴は恐縮した。
「有難うございます。」
「…おまえ、大学、いくんじゃろ。」
「…考えています。」
「どうして。」
「なるべく早く仕事についたほうがいいかと思って…。」
「どうして。」
「…」
…陽介に、子供扱いされたくないからだ。
「…早く、自立したくて。」
「…お前の親父もまったくそういう考えだったらしいが、あとで後悔しとったぞ。学校ぐらいあんなもの、ついでに出ておくんだったと。…まあいい、百合子や陽介がなんと言っておるのかわしゃしらんが、お前、とにかく、高等部のあと、そのままエスカレーターで大学部へ行くか、専門学校へ行くかしなさい。勉強きらいじゃないだろう。」
「…」
男の子としてどうなの?…百合子の目に脅された気がした。
「…陽介とうまく続けられるかが心配なのか?」
…それは、あるな、と思った。
「多少は。」
「喧嘩はおおいのか。」
「いいえ。」
「たくさん我慢させられていて、もうイヤになってるのか?」
「…いいえ。…ただ、陽さんは…俺が珍獣だから飼っているだけで、飽きたら多分捨てるでしょうから。」
久鹿はため息をついて言った。
「そういう考え方はやめなさい。」
「…」
「…お前、陽介において行かれたから、拗ねてるのか?」
「…」
多分、そうなのだ。…自分でもそうだろうと思う。ただ、それを認めるのはいやだった。
「…わしが陽介でもおいていくわい。少し冷静に考えんか。」
「…」
「大学部と違って高等部は出席やテストが厳しい。ましてお前は、向うの学校で、春頃の出席日数がまっくたりてないんじゃ。まずはきちんと学校にいくのが先決なんじゃ。いいか、陽介にしてみたら、お前は『月島さんからの大切な預かりもの』なんじゃ。休みでもないのに、つまらん宗教団体とのごたごたに、つれていくわけがなかろう。お前を大切にしているからおいていったんじゃろ。」
「…」
「冴、一時的なことや、年齢とプライドの軋轢に不必要にこだわって、焦ったり、すてばちになったり、…まして被害者になるのはやめなきゃいかん。お前は本当に若い頃の親父さんに似ておるぞ。」
「…」
「元気をだして、きちんといつもどおり、規則正しく暮しなさい。…まあ、陽介がおらんのだ、この隙に多少羽根をのばすのはかまわん。友達とも遊びたければ遊びなさい。なんならここに呼んでも、そんなことはかまわん。週末程度なら泊まりにいってもいい。陽介だってそのくらいのこと、とやかくいわないはずじゃ。…でもだらしないのはいかんぞ。眠りたいなら朝寝ではなく早寝しなさい。家にいるときは、髪や服装もきちんとして、いつ誰が陽介を訪ねて来ても、きちんと代理人として、またこの家の維持管理実務者として、恥ずかしくないよう、挨拶や応対ができるように努力しなさい。ずっと在宅しろという意味ではないが、いるときはそうしなさい。…お前の給料分の仕事だぞ。」
…冴はうなづいた。
「はい…。」
「…おまえ一人で困ることもあるだろうから、お前には百合子の番号を預けて行く。…陽介にはだまっとけ。あいつのマザコンはなおさにゃならん。」
俺もマザコンだけどな、と冴は思いながら、百合子の番号を受け取った。
「…進路のことは、またあとで百合子が聞くから、早めに決めなさい。」
「…はい。」
…久鹿は、用があるとかで、茶を飲み干すと早々に発った。
冴は見送りからもどると、茶碗をさげた。…流しの洗い桶にきれいな水をはって、久鹿の使った茶碗を、静かに沈めた。
+++
根津がドミの集会室で、杉田と一緒に選択科目の漢文のレポートをしあげていたら、藤原から電話がかかってきた。もうすぐ昼飯、という時刻だった。
「あー、藤原。どしたの。」
「根津、現代美術の潮流、みてえな、なんかそんな本もってねえ?! なんでかわかんないけど、図書館にないんだよ!!」
「…ああ、文化史ね。なんかはあると思うよ、古本だし、よりごのみするほどはないけど…。なんだか、大学部の文3と、S-22の高等部が、同じようなレポート課題設定しちゃったらしい。図書館の美人シショさんに聞いたわ。全滅だったろ。」
「全滅なんだよ。珍しい本でもあるまいに…もう、どうしようかと…」
「…他はかけたの?」
「昨日月島に言われて、昨日の晩、寝る前にぼちぼちかいといた。」
「賢明だったね。…貸すのはいいよ。取りに来れる?」
「すまん、頼む。行くよ。」
「何時に来る?」
時間を打ち合わせた。食事はそとで食べるから、すぐに取りに来ると言う。根津の予定など聞く気もない様子だった。よほどあせっているのだろう。
「…まあ、あせらなくても大丈夫。月曜日の放課後もあるから。…一時頃来いよ。」
「え、ああ、うん、わかった。…すまん、根津。いそがしいよな。何してた?」
「漢文のレポート書いてた。」
「げっ…漢文?! そんなもんよくやる気になるよな…。」
「楽で良いよ。書き下して、適当に訳すだけだから。とりくんでさえあれば、出来は問われないし。返り点ついてるし。」
「…おまえ勉強できるよなーっ。たよりにしてるぜ、根津。じゃあ、あとでな。」
電話はきれた。
杉田がのほほんと言った。
「…友達?…本とりにくるの?」
「うん、美術のだって。」
「ああ…。レポートまだなんだ。…藤原って、2-Bの二枚目キャラでしょ。仲良いの?」
「…どうかな。悪くはないよ。藤原は基本イイヤツだし。…修学旅行では、一緒の班だった。」
杉田は疲れたように眼鏡を外し、近くにおいてあった布で拭った。
「…彼、恋してるんでしょ。女子が噂してた。…彼にコクった子、みんな断られたって。まあ、一人ゴリ押しでのこったやつがいたようだけど…。」
根津は苦笑した。
「…恋してるよ、彼は。すっごく不毛な恋。」
「…人妻かなんか?」
「…ある意味そうかも。」
「…やだなぁ。どうして、不毛な恋なんかするんだろう?…俺は、嫌いだよ、不倫とか、浮気とか。」
杉田は眼鏡をかけなおして、根津の返事を待たず、漢詩の訳にもどった。
根津は苦笑した。
…藤原だけが悪いわけじゃないのは、月島のまわりの人間なら、みなわかっている。
+++
「わりぃわりぃ、ごめんな、根津、忙しいのに…」
「や、別に。飯時だっただけだから。…じゃ、ここに名前書いて。」
ドミの入り口で、来客名簿に署名させてから、藤原を部屋へ連れていった。
杉田が居て、根津のベッドで根津の本を読みふけっていた。
「…あ、杉田だろ。演劇部の。根津の友達なんだ?」
「…ちわ。ゲキ部の杉田だよ。根津はボクの親友ですが、それがなにか。藤原クン。」
杉田は自分でそう言って、眼鏡をずり上げた。
根津は不思議に思ってたずねた。
「藤原はなんで知ってンの?」
「…ミホの親友がファンだった。」
「えーっ、そうなの。」
「うん。」
杉田は無視して、ページをめくった。
「…藤原クン、あちこちで噂になってるよ、…片思いしてるって。いろんな女子にいったでしょ。」
「言った言った、だって、ほかに好きなヤツがいるっていう理由が、女子は一番なっとくしてくれるから。」
「…あれ、ホントはしてないの?」
「…してるけど。」
「…」
杉田は根津の枕に片耳をくっつけて、藤原を見た。
「…愛してくれる人より、愛せる人がいいんだ?」
藤原は、詰まった。
「…それは…そういうふうに考えてるわけじゃなくて、好きな人が一人いると、他の人は目に入らないから。…だから、他の相手とは付き合えない。」
「…でもその相手は愛してくれないんでしょ、片思いだもん。」
「…」
ものすごく藤原が傷付いたのが、みていた根津にはわかった。…これはまずい、と思った。
「ユーリ、なんでそんなこと言うの。藤原に失礼でショ。」
「…別に他意はないよ。ただ恋をするのって、そんなにいいものかな、と思って。」
杉田は軽く言って、また本に目を戻した。
藤原は充分に呪いを込めて言った。
「…お前みたいなやつをうっかり好きになる女の子は可哀相だよ。」
「…すきになるのって、うっかり好きになるの?」
杉田はのんびり聞き返した。
根津は急いで本を探した。…あきらかに、杉田は藤原に絡んでいた。杉田はそういうタイプじゃない。よほど気にいらないことでもあったに違いなかった。
幸い、藤原はその時点で、杉田を無視することに決めたらしかった。根津がいそいで探した本を、藤原は受け取って、礼を言った。
「…明日か明後日返すよ。」
「…駅まで送る。」
根津は藤原を部屋から連れ出した。
廊下を歩きながらたずねた。
「…びっくりした。ユーリとけんかでもしてたのかよ、藤原。」
「杉田と?…さっき初めて口きいたよ。なんなんだ、あいつ。」
「…うーん…ユーリは、あんなタイプじゃないのになあ…。やさしくって、のどかなやつだよ。普段は。」
「…気色悪。」
藤原は吐き出すように言った。…無理もない。藤原の頭の中は、片思いの恋でいっぱいなのだし…。多分藤原は、その愛してくれない相手と、関係を持ってしまっている。赤の他人に問いただされるなんて、ショックだったことだろう。
根津は話をかえた。
「…藤原、そういえば、…昨日、月島に会ったのか?」
「…ああ。テストのヤマかけてもらった。」
「どっかバーガー屋とか?」
「…なんか家主さんのお母さんが飯を作り置きしてって、持て余してたから、うちにもってこさせて一緒に食ってやった。」
…衝撃の事実だった。こいつ、ホントにやりやがった、と思った。
「…藤原んちで。」
「ああ。うちお袋が以前から月島ファンで。…多分昨日からは親父も月島ファンだな。」
…しかも両親に会わせている。…藤原の行動力を知らなかったわけではないが、本当に恐ろしいやつだと思った。
「…藤原、どうする気?」
根津は訊ねた。
「…」
藤原は黙り込んだ。
ドミの玄関で、来訪者名簿に退出時間を書かせて、ついでに根津も外出届けを出して、2人で表へ出た。
根津は遠慮がちに言った。
「…月島は勿論、藤原のこと、好きだとは思うけど…。でも、だからって、その…藤原と幸せにはなれないと思うよ…?…月島は…久鹿さんと別れるわけにはいかないし…」
「…」
藤原は、黙りこんだままだった。
「…藤原…、」
「…わかってるよ。」
根津の言葉が耐えられない、とでも言うように、藤原は言った。
根津は、それ以上、かけてやる言葉がなかった。
…わかっていても、どうしようもなく…。
根津は、藤原が可哀相で、何を言えばいいのかわからなかった。
+++
根津と別れて電車に乗ると、藤原はため息をついた。
根津の言いたいことは、よくわかっているつもりだった。
…けれども、まるで、自分には何の関係もない、遠くの出来事のようで。
…ぼんやりと電車にゆられていると、途中の駅で、…まるで申し合わせたかのように、月島が乗り込んで来た。
…まるで、運命みたいに。
声をかけると、月島は目をみひらいた。
「…藤原じゃないか。おどろいた。」
「ああ、根津のところに、本を借りにきたんだ。これから帰ってレポート書くよ。」
「そうか、間に合いそうでよかった。」
「ああ。…これからどこに?」
「…猫にワクチン打っておこうと思って。」
月島はキャリーバックをさげていた。藤原が覗き窓からのぞくと、小ぶりの、鯖白猫がおとなしくうずくまっていた。
「…これか、月島に甘え放題のチビは。」
「あまりくさいから、昨日、あのあと、あらった。ずいぶんきれいになってびっくりした。」
藤原は、不意に涙が込み上げて、泣き出しそうになった。
自分は月島に会いたかったのだと、痛いほどわかった。
必死で堪えて、猫を見ていた。猫はやがて藤原の顔をみて、声をださずにニャ-と口だけあけた。
「…かわいいだろ。」
月島が言った。
藤原はうなづいた。