01 腐る冷蔵庫
木曜の午後、根津と須藤と立川は須藤の家で、お母さんの手作りのマドレーヌを頂きながら、修学旅行の話に花を咲かせた。須藤のお母さんは、鳶色の髪に緑色の瞳をした美女だ。「わたし先祖還りしちゃって」とお母さんは陽気に言う。「フランス語なんか、ひとことも話せないのにねえ」と、おっしゃるその言葉づかいは、まったくのエリア人だ。
御子息の友人として、一応、友に恥をかかさぬよう、根津と立川は大人しいイイコチャンのふりをして、楽しく会話し、おいしく食べた。勿論、下ネタ厳禁だ。
「…今日は、噂の月島くんは来られなかったのね。残念よ。」
須藤の美人母がそう言うので、根津は立川に聞いた。
「…まだ寝てんの?」
「うん、今朝電話には出たけど、『眠らせてくれ』って一言で切られちゃった。もう疲労困憊ってかんじ。」
「…一人で寝られるのかね、あいつ。」
「俺もそれが心配。でも爆睡してるっぽいし、大丈夫じゃない?」
根津は須藤にたずねた。
「藤原はどうしたの。」
須藤は答えた。
「…忙しいらしい。」
…根津はその一ひねりしたわけあり口調に悟った。テスト勉強させられているのだ。おそらく親の強い命令で。…藤原は最近、成績がおちていると言っていた。
…不毛な恋のせいなんだろうなと、根津は思う。
須藤の母が言った。
「…それじゃ、もう、立川君は、前世はわからなくなっちゃったの?」
立川はうなづいた。
「もうぜんぜんわかんないです。」
須藤の母は残念そうに言った。
「わたしも見てほしかったわ。」
「あはは、じゃ、今度そういうヒトが憑いたら、来ますねーっ。」
「そうね。是非きてちょうだい。今度はケーキを焼くわ。」
立川は愛想のいい看板猫がニャーと鳴くような顔で笑った。
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「ニャ-」
「いてっ!! 」
冴はびっくりして飛び起きた。
…何かに顔を踏まれたのだ。
見回すと、鯖白の小ぶりな猫が「うふふーん」という感じで引き返して来て、冴の手にすりすりした。
「…お前か…」
冴はため息をついた。
…部屋の中は、寒かった。
「ニャ-」
猫が急かすように鳴いた。
冴は起き上がった。
「…飯な。わかったわかった。」
…自分の部屋のまんなかに、一昨日乱雑に敷いた布団をそのままほったらかして、冴はそのへんにちらかっていた服を適当に着ると、部屋よりさらに寒い廊下に出た。
アルミの雨戸が閉めっぱなしなので、時間がわからない。
猫は、旅行から帰って来たときに、くっついて入って来たので、そのまま家の中にいれっぱなしだった。一山カリカリを皿にあけてやり、自分は食事もせずに、そのまま死んだように眠った。
…そういえば、さっき、吹雪から電話があったような気がする。
だが、気のせいかもしれなかった。
キッチンへいくと、猫の餌の皿はからになっていた。
上の戸棚をあけて、かつお節を出してやると、猫は立ち上がって冴の足に抱き着いた。にゃーにゃーと元気よく鳴いている。この猫はかつお節が大好きなのだ。
「…おまえ、ずっと中にいたのか?トイレはどうしてたんだ…??」
冴はかつお節を猫にやりながら訊ねた。
猫は元気にニャ-、と答えた。
「…ニャ-ではわからん…」
冴は眉をひそめながら、キッチンのスイッチで、家の全部の雨戸を開けた。
…夕日が射し込んだ。さすがに、ショックだった。
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冴は気をとりなおして、一階の部屋の一部に暖房を入れた。自分の部屋、キッチン…あとはテレビとソファをおいてある、一応居間の体裁になっている部屋。
陽介のいないあの寝室に、ひとりで寝る気にはなれなかった。
電気ポットに水を入れて、スイッチをオンにする。
冷蔵庫をあけて、陽介の食べ残した一週間前の食材の大方を捨てた。猫が元気よく飛びかかったので、あわててごみ袋の口を閉めた。
そのまま、一応念のため、家を一回りしてみた。猫がどこか適当なところでトイレを済ませているのは間違いなかったからだ。
念には念をいれて2階も行ってみたが、それらしいところは見つからなかった。
おかしいな、と思ったが、多分このまま様子をうかがっていればそのうち分かるだろう、と思ったので、キッチンに戻った。
かろうじて残った食材を組み合わせて、残り物の料理を作った。
残り物料理は、冴の特技だ。母よりうまい。
母が、野菜のきれっぱしやら肉の残りやら、金もないのにばんばん捨ててしまうので、それが勿体無くて、身につけた特技だった。
猫が「たりなーい、たりなーい」と冴の足にすがった。…生憎カリカリも切れていた。冴は眠るまえに、ありったけのカリカリを皿にあけてから寝たのだ。
「…ごめんな、ないんだ。…あっ、そうだ、買い置きの魚肉ソーセージがあるぞ。」
冴はソーセージを出して剥いてやり、水と並べて、猫に与えた。
…買い物にいかなくてはなるまい。
+++
「月島…。」
遠慮がちに呼ばれて、キャットフードを手にしたままふりかえった。
…藤原だった。
「ああ…。お前か。びっくりした。こんなところまで買い物にきたのか。」
「ああ、お袋が。今日はここ、冷凍食品が安いんだと。…俺は、荷物持ち。」
藤原は、すぐ近くにいたお母さんを指差した。お母さんは、赤ちゃんをおぶっていた。
「あらっ、月島さん…まあ、やだ、どうしましょう、こんばんは…うふふふふ。」
…藤原の母は、冴のファンだ。冴は藤原のために、せいぜい笑顔をとりつくろってやった。
「今晩は。」
「…御買い物?偉いんですねえ。」
「…いや、俺、ハウスキーパーとして雇われているので。家賃分の仕事ですから。」
「まあ、そうなの?…お若いのに、大変ですのね。」
「…一週間あけてたから、食い物がくさってて。」
冴は適当に言って、藤原の顔を見た。
…藤原はぼーっとした顔で冴を見つめている。
「…藤原、その後とくにおかしなことはないか。」
「…ん、俺は別に。」
「そうか。ならいいんだ。」
「…月島、今日は…みんなのとこには行かなかったのか?」
「みんなのとこ?…いや、とりあえず、かえってきてから、ついさっきまで、死んだように眠っていた。」
「…そうか。」
藤原はなんだかほっとしたような顔をして、言った。
「…今日、須藤んちに集まってるよ、立川も、根津も。須藤のかーさんがマドレーヌつくったとかで。」
「…そうか。なんか、いつなのかわからんが、吹雪から電話がかかってきたような気はしていた。多分その件だったんだろうな。…須藤の家にはそのうちお邪魔しようと思ってる。フランス料理を習うんだ。」
「…俺も食いたいな、月島のフランス料理。」
藤原は妙に含みのある口調で言った。
冴はさらりとかわした。
「…上手くなったらな。まだなんともいえん。料理は自分が納得できないと、美味いものがつくれないから。」
「…ハノイで食ったやつ、美味かったよ。…すぐ上手くなるんじゃね?」
「どうかな。…上手くなったら、またみんなに食ってもらうことにしよう。」
「…楽しみにしてるよ。」
藤原の母が言った。
「明日、もうテストでしょう?慌ただしいですよね。」
冴はめんどくさかったが、マメに微笑んで言った。
「そうですね。」
「準備はすっかりお済みなの?…月島さんて、成績いいんですってね。重紀にきいてますの。」
「準備、ですか…。テスト勉強とか、あまりしたこともないので…。」
「まあすごい、授業だけ?」
「いや、家庭学習課題はやりますよ。」
「…重紀、今度月島さんに、お勉強少し教わったら?」
藤原は少しうざったそうに母を見たが、取り消しはしなかった。冴は儀礼的に微笑んで言った。
「…掃除が終わってからでよければ。」
「そう?じゃあ、是非。」
…あの部屋数の多い家の掃除が終わることなど、永久にないのだが。
「…独りなんだろ、月島。週末、うちこいよ。一緒に月曜日の分のテスト勉強しようぜ。…お袋がお前の分も飯つくるから。」
藤原が言った。
冴は、曖昧に微笑んで、適当に挨拶すると、その場を去った。
…だから忘れろって言ったのに、馬鹿野郎、と思った。
+++
家にもどってびっくりだった。
「おかえり、冴。」
「百合子さん?!」
陽介の母親の百合子が来て、台所で何か料理をつくっていた。
冴は慌てた。陽介は、クリスマスまでの不在を、百合子に言わなかったにちがいない。どうしたものか、と思った。
「…さっき久鹿から電話がきたの。陽さんヨーロッパにいるんですって?…まったく、酷い子で御免なさいね。修学旅行からかえってきて、一人でどうしていたの?何か食べた?冷蔵庫からっぽだったわ。」
「ああ、それで今、買いに。食事はしました。」
冴はほっとして答えた。陽介は、父親には連絡を入れたらしい。そして、父親から、母親に連絡が行ったようだ。
「あら、そう。じゃあ、冷蔵庫にいれときなさい。…まあ、ちょうどいいわ。陽さん抜きで話したいこともあったから。…食べ物、少し作りおきしていくわ。陽介がいない間、少し楽しなさい。家事は毎日のことだから、疲れてしまうものね。それに明日テストでしょ。…あんたの部屋、布団あげて掃除機かけといたわよ。」
頼んでねーよ、と思いつつも冴は謝って、冷蔵庫に買ってきた物をつめた。
…冷蔵庫には、百合子の買ったものが、かなりたくさん入っていた。
…腐らせないように計算して買って来たのだが。まあ、仕方がない。
百合子は一段落つくと、冴に茶をいれてくれた。冴は落ち着かなかったが、座って、黙って飲んだ。百合子も向いに座って、一緒に茶を飲んだ。
「…冴、あんたのお母さんと電話して話したのだけど…お母さんは、あんたにこのままエリアで大学出てほしいんだって。S-23はせっかくのエスカレーターだし、そのくらいのお金はなんとかするって言ってるわ。…あんたはどうなの。」
…冴は別に、なるようになると思っていただけだった。
「…母の希望であれば、そうしたいと思います。」
「…何をいい加減な返事しているの?疲れてて考えられないなら、そういいなさい。」
冴はどきっとした。…百合子は容赦なかった。
「…自分の人生のことなのよ、きちんと自分でも考えなさい。考えた結果がお母さんと一致したというならともかく、お母さんの言いなりなんて、男の子としてどうなの?」
冴はムカっとした。都合のいいときだけ「男の子」にしやがって、と思った。…だが、黙って我慢した。
「…あまり、考えないようにしていました。」
「どうして。」
「…俺の立場は陽さんの御機嫌次第ですので…下手な希望はもたないように努力していました。」
百合子はため息をついた。
「…あんたのいいたいことはわかるわ。わたしもそうやって生きて来た人間だからね。…だから少しわたしのことを信用なさい。」
冴は目をあげた。…たしかに、百合子は、久鹿の正妻ではない。おっしゃるとおりだった。
「…下手な希望でも、もちなさい。いい?…もし陽介の気が変って、我侭を言ったとしても、わたしも久鹿も、あんたをいたずらに放り出したりはしないわ。…あんたの親父のやったことは、わたしにとっても久鹿にとっても、とても衝撃的なことだったのよ。あんたの我侭親父はね、実の親でもできなかったことを断行して、陽介をすっかり変えたのよ。…わたしたちは少なからず、あんたの俺様親父に感謝しているの。わかった?」
「…」
「…自分の人生なんだから、自分でよく考えなさい。いいわね?…少し時間をあげるわ。冬休み開けまでにきめてちょうだい。」
冴は「はい」といってうなづいた。
「…それから、陽介は自分の世話だけで手一杯の子だから、あんたのことにまで神経が行き届かないでしょう?まして久鹿が気付くわけないわ。…なにか困っていることや、不足しているものがあるなら、言いなさい。…値段のことは気にしなくていいわ。」
冴は思い付いたものが2~3あったが、今までの人生では我慢するのが当り前になっていたので、口に出せなかった。必要な物と、欲しいものの区別も、判然としなかった。
すると、百合子が言った。
「…あんた冬なのに畳に座ってるんじゃないの?寒いでしょ。」
「…ええ、まあ。」
「…こたつがいいの、暖房つきのカーペットがいいの?それとも火鉢と座布団とかが好きなの?」
「…ええと…」
言い淀んだ。…じつは欲しいのは机と椅子で…それがあれば暖房付きのカーペットはいらない…現状ののヒーターで充分だ。ただ、畳の部屋に机を置くと、足の部分、畳がへこむ…
「…はっきりしなさい。そんなもの、考えるほどのことじゃないでしょ?」
「あの…」
「なに。」
「…机が…。」
冴がぼそぼそ言うと、百合子は言った。
「…ああ、そうなのね。机が必要だったのね。ごめんなさいね、気付かなくて。学生だもの、あったほうが便利よね。わかったわ。埋め込みでチップビューアーのついてるやつがいいのかしら。それとも、テレビとかモニターが別にあったほうがいい?」
「…ビューアーがついていれば…テレビはこっちで、陽さんと見るので…。」
「わかったわ。わたしから久鹿に言っておきます。」
「…あの、畳がいたむかと…。」
「そんなことはしんぱいしなくていいの。畳はどうせ使えばいつかはいたむのよ。」
「…でも…」
「…」
百合子は少し考えた。
「…わかったわ、じゃあ、机の下の畳を2畳剥がして、机の下だけボックス式の板床をいれましょう。いらなくなったらまた畳に戻せばいいわ。板床だと冷たいし、畳との切り替え部分がみっともないから、部分的に2畳か3畳のラグでも敷きましょう。あんたは何色が好きなの?」
「…落ち着く色であれば、なんでも…」
「何色が好きなの?」
「…モノトーン…」
「モノトーンの部屋はやめなさい、人格が荒廃してくるから。それに畳と合わないわ。何色が好きなの?」
冴は困った。
「…ええと…」
…陽介は水色が好きらしい。水色でいいかな、と思った。
「水色はやめなさいね。あれは陽さんがカッとなりやすいから、みんなで頭冷やせといって与え続けた色なのよ。」
…詰まった。なんだか、変な汗が出て来た。
「何色が好きなの?」
「色とか、あまり気にしたことがないんです。」
「気にしなさい。」
「…あの、もし、御迷惑でなければ、…百合子さんに選んで頂けたら、と思うのですが。」
「…」
百合子は少し考えた。
「…そうしてもいいけれど…予算を組んであげるから、誰か友達に手伝ってもらって買いにいってごらんなさい。…冴、自分の部屋を快適に整えるのは、とても大切なことなのよ。だから練習しなさい。…多少失敗して、変なセンスの部屋になってもいいわ。最初はだれでもそうよ。…水色とモノトーンは禁止。それと予算は使い切ること。安物買いはダメよ。」
「…分かりました。」
…手強い、と思った。