16 クリスマス・イブ
直った時計を、帰り道の途中の店で受け取って、そのまま山に送った。
家に戻ってからは、根津に言った通り、ひたすら料理に没頭した。
ラジオをつけてみたが、藤原の家で、はいっていた電波は、残念なことにここまでは届いていなかった。その代わり、別の局が、クリスマスソングを流してくれていた。
猫は音楽が嬉しいらしく、たまに歌に合わせてタイミングよく鳴いた。
なるべく何も考えないようにして、ただ、料理を作った。ただ、愛だけを抱いて。料理はそうやってつくらないと、味が悪い。時々、母の作った料理に理由もなく腹を壊すことを言うと、ユウの祖母が教えてくれた。料理には、心が映ってしまうから、愛だけで作りなさい、と。そうすることが、食べる人のためだけでなく、自分の心の鍛練にもなるのだと。…冴はかならず、そうする。
そのまま日がくれて、冴は高価で香りの良い入浴剤をまぜた風呂に入り、念入りにからだの隅々まで時間をかけて洗い、あがってからは肌に乳液を染み込ませてきちんと手入れし、念入りに髪を乾かし、久しぶりに絹のパジャマを着て、充分に眠った。
翌朝起きると、陽介が頬刷りしてくれそうな、綺麗な体が出来上がっていた。
ふわふわしたはだざわりのよいセーターを選んで身につけた。
玄関を掃き清めて花を飾り、家中を全部あたためた。
…準備がすんだあとは、また料理をつくりはじめた。
どうして百合子がいつも作り過ぎるのか、なんとなく分かった気がした。
猫と一緒に食事をした。
頼んであった飲み物が届いた。
冷蔵庫にいれ、或いは室温に温め。
ミネラルウォーターで氷をつくり。
焚いた米でおにぎりをつくったところで、電話が鳴った。
吹雪、と画面に大きく名前が出ている。
「…もしもし。」
「あっ、冴。…げんきー?」
「ああ。」
「…藤原くん旅に出たんだって?根津にきいたよ。」
「いや、クリスマスおわってからだろ、多分。」
「…大丈夫?」
「…何が。死にはせん。」
冴はそのとき初めて時計を見た。
…4時をまわっている。気がつくと、外が暗い。
「…久鹿さん、帰って来た?」
「…いや、まだ。」
「…連絡は?」
「…とくにない。」
「冴、何してる?」
「…握り飯作ってた。」
「…」
吹雪が心配してくれているのがわかった。
「…吹雪、大丈夫だ。心配するな。」
「うん…別にしてないけどさ、冴、もしか暇だったらさー、少し遅くなってもいいから、ウチに来いよ。俺ケーキ食いたいし。せまいけど、とまってけば?」
冴は微笑んだ。
…吹雪がいてくれて、どれほど助かっただろう。
吹雪が、どれほど冴を慰めてくれたことか。
「…吹雪、いつも、ありがとう。」
「…」
「…俺は久鹿家の留守番なので、主人が帰る予定の日は、流石に空けるわけにはいかないんだ。たとえ、何かの都合で主人が帰れなかったとしても、だ。」
「…でも、…」
「…明日帰ってこなかったら、飯食いにきてくれ。俺一人じゃ片づかん。」
「…うん、わかった。そうするよ。…今、寂しくない?」
「大丈夫。…猫もいるから。」
「…冴、必要なら、いつでも呼んで。」
「…ああ、ありがとう。…そうだ、吹雪、絵、どうなった?」
「うん、写真みながら描いてるよ。」
「そうか。楽しみにしてるから、ちゃんと仕上げてくれよ。」
「勿論。…出来上がったら送っとくよ。百合子さんとやらに受け取ってもらっといて。」
え、と冴は思った。
「…手渡してくれればいい。」
「…なにいってんの。明日かえってこなかったら、冴は家主さんを探しにいくでしょ?冬休みだもん。」
…冴はそのとき、目がさめた。
そうだ、猫なんか飼ってる場合じゃなかったのだ。
「…猫、あずかってやりたいとこだけど、うちがせまくって…百合子さんとやらは?預かってくれそう?」
「…ああ、そうだな、多分預かってくれるだろう。」
「なら大丈夫だね。…明日、電話してよ。こっちからはしない。もしかお邪魔になったら悪いから。」
「ああ、電話する。」
「うん、じゃあね。」
電話を切った。
冴は長いまつげでしばしばとまばたきをし、電気をつけて、カーテンを閉めた。
テーブルが出来上がったので、エプロンをはずして、こたつに入った。
猫がむくむくと布団から顔を出した。
冴はヒモをもってきて、猫と遊んだ。
そうだ、明日かえってこなかったら、吹雪がいうとおり、陽介の消息を、自分が追おう、と思った。気持ちが明るくなった。
気を抜いていたら、猫にヒモを奪い取られた。
「あっ、こらっ」
猫はぱーっと走って、空いている隙間から廊下に出ていった。冴は追いかけた。
「陽ちゃん、こらっ!」
猫は一階のフロアをまんべんなく駆け回り、冴は楽しんでそれを追い回した。
キッチンでようやくヒモを掴んだとき、キッチンにあるセキュリティボードの、玄関ドアの静脈認証にランプがついた。
あっ、と思った。
…戸があく音がした。
冴は、玄関へ行った。猫がとことこついてきた。
…陽介が、靴を脱いでいた。
「…陽さん。」
こちらを向いた顔は、ちょっと日焼けしていた。前髪がぱさぱさになっている。コートも汚れていたが、陽介はしっかりとした目をしていた。冴を見た瞬間、ふわーっと薄いピンク色の光があふれた。
「おそくなってごめん。」
見つめあうと、懐かしさがこみあげた。
それは、いつか、どこか、知らないところで、愛しあって生きた遠い過去のささやかな証…。
「おかえりなさい、陽さん。」
「冴、ただいま!」
気がつくと、もう陽介は冴の腕の中にいた。
…触れあった瞬間に体の中に美しい波が広がる。
…何もかもが一瞬で浄化されるその清らかな響き。
懐かしい陽介の光に涙ぐみながら、冴はその体を強く抱き締めた。
あっというまに、陽介の金色の光が、冴を飲み込むように包んだ。
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とるものもとりあえず汚れた衣服を剥ぎ取って中身を風呂に突っ込んで洗うと、陽介は、つるんと綺麗になり、そのあと、冴の用意した食事を別人のように豪快に食べた。
「どうだったって…おめぇ、どーもこーもねーよ、いやもう、…まあ、その件は明日にでも全部まとめてゆっくり話すわ。もう、腹が減って…あっ、冴、これおいしい、これもっと食べる。」
「…大丈夫なんですか、教団のほうは。」
冴は冷蔵庫にしまってあった、皿にのらなかった分を出し、温めてやった。
「それは大丈夫。」
「ナルミはみつかったんですか。」
「みつかったよ。…世界の果てでな。教団はナルミにおしつけてきたから、今んとこは大丈夫。」
「…そうですか。とりあえず、よかったということで…」
「うん、いい、よかったということで、いい。今はそれで、いい。俺はあんな粗食は耐えられない。俺は冴の飯がなくちゃだめ。また栄養失調で倒れた。あっちで。もーいい。俺はもーいかん。冬休みはニホンから出て行かないぞ!!」
「また倒れたんですか?…あっち、ごはんなかったんですか?」
「くえねーよ、あんなまずいもん!!」
…陽介は、所詮御曹子だった。しかも、料理上手の百合子の飯をうんざりと食いながら育ったとんでもない贅沢者なのだった。
「あああ、天国だ-、我が家はー、うまい飯、あったかい部屋、コタツにはにゃんこがいて、部屋には美しい冴がいる。ううううれしい…」
…冴はにっこりして、シャンペンを注いでやった。
「冴は食わねーの?うまいよ?」
「…そうですね、食べましょう。」
自分の分もシャンペンをついで、とり肉を切り分け、つまみにした。あまり、空腹は感じていなかった。…スパイスがうまく利いて、美味に焼けていた。酒もちゃんと軽いやつだ。陽介でもそんなに酔っぱらわないだろう。
…なんとなく、ボーイスカウトの野外活動に泊まりがけで行ってた息子が帰って来て、報告もそこそこに空腹を満たしているといった感じで、クリスマスとかプレゼントとかいった風情は、まったくなかった。…ツリーなど、気付いてもいない。むしろミカンだったか、しくじった、と冴は思った。
そして、多分空腹が満たされた後は、死んだように眠るんだろうな、…そう思った。その寝顔から寝相まで想像できた。
しばらくは息もつかずに食べていた陽介だったが、やがて果物も終わって、ケーキになると、コーヒーの香りのせいもあってか、やっと落ち着いたようだった。…どこのならず者か、という雰囲気だった口調も、ようやく穏やかになった。
「…えー、冴、ケーキなんか作れたの。すごい、本格的だね。…ブッシュドノエルってやつでしょ?」
「…フランス人に習いに行きました。」
「…ほんと?」
「…嘘です。須藤のかーさんは、日本人です。顔は外人ですが。」
「へー、須藤くんのおかーさん直伝かあ…あー、いいにおいがする…。」
切り分けてフォークをつけて置いてやった。
陽介は何もいわずに食べて、食べ終わってコーヒーを飲んでから言った。
「…冴、これ、すごくウマイ。なんか、尋常でなく、ウマイ。」
「…もうすこし食べますか?」
陽介は無言でうなづき、また切り分けられたケーキを無言で食べた。
結局そうして、ケーキの2/3ほどを一人で食べた。
冴は、なんだかとても満ち足りた気持ちになった。
…陽介が不在だった2週間、まるで何事もなかったかのような気持ちになった。
ずっと陽介はここにいて、冴のつくった食事を美味しそうに食べて、こたつにはいって、一緒に眠って、大学へいって、2人で笑ったりけんかしたりして休日をすごしていたような…。
そんなはずないのに、なんだか、そんな気がしてならなかった。
「…冴、」
「うん?」
「…遅くなって、ごめんな。…実は、時差を勘違いしてて…。ほんっとーに危なかった。」
「…」
冴は苦笑した。
「…いいですよ。別に。帰って来たんだから。それで。」
…不思議なことに、本心だった。
あれほど恨んだのが、嘘のようだった。
何もかも、浄化されてしまったかのように。
…冴がコーヒーを飲みはじめると、猫がコタツから出て来て、冴の膝にすわった。
「…その猫、白くなってるな。飼うの?」
「…出て行かなくなりましてね。寒いからでしょう、多分。布団にはいりたがるんで、洗いました。」
「そっか。いいな。やっぱり、家には猫がいないとな。」
猫はにゃーん、と調子よく鳴いた。
冴は、ふと思い出して、…食事もおわっていたので、陽介に言った。
「…陽さん、じつはその猫、一時的にうっかり家にとじこめてしまいましてね。…最初のころ、多分家のどこかで適当にトイレすませてたと思しきなんですが。…あちこち掃除しながら探してみたものの、見つからなくて。…気をつけてくださいね。」
「…あーああ、冴、きがついてなかった?」
「は?」
「…あのね、玄関の靴箱のちかくんとこ、猫ドアがあんの。お袋がいっぱい飼ってたから。…だから、みつからないなら、外いってたんだと思うよ。」
「猫ドアあったんですか?」
「あるよ。」
「…なーんだ、気がつかなかった…。」
「うん、ちょっと見えづらいからね。」
陽介は手を伸ばして、猫を抱いた。猫はおとなしく、陽介の手に懐いた。陽介は、ふう、と安心したようなため息をついた。
「…住んでる家でも、なかなか知らなかったりするよね。知り合いで、借りたマンションの床に、ムロがついてるの、出るときまで気がつかなくて使わなかったってヤツいたけど…おれも自分んちに地下室あるって、気がつくの、すごく遅かったよ。」
冴はびっくりした。
「えっ、地下室あるんですか。」
「あるよ。…お袋が勝手に作って食料品おいてた。俺も親父もみつけて絶句だって。明日見せてやるよ。
…人間、自分の体のこともよく知らなかったりするからなあ…まずい飯は受け付けないとか…手を抜くとすぐ髪がぱさつくとか…。
住んで半年の家なんか、しらなくて当り前だよな。」
…自分の心も、わからないところがあったりしますよね。
冴は心のなかで、そう言った。
陽介は、猫を抱いた途端に眠気に襲われた様子だった。猫はなぜか、そばにいると眠くなる。
「お疲れみたいですね、もう寝ますか?」
と、そっと聞いてみた。
陽介は甘えたような目で冴を見て、手を伸ばしてきた。陽介の代わりに、猫が甘い声で、鳴いた。