15 言祝
冴は家に帰ると、猫と一緒に、陽介の部屋を掃除した。
…すごく気持ちがぼろぼろになってしまったので、少しでも陽介の気配がのこっているところにいたかった。
猫は御機嫌で、陽介の机の上の、学校のノートの上に丸くなり、毛づくろいをして、やがて眠った。
今、冴の、人生の行方を握っているのは、藤原だった。
…狡猾になろうと思えばいくらでもなれてしまえる、冴の親友だ。
こうなったのは勿論、冴が悪い。…ほんとのことをいえば、冴としては…陽介が、悪い。
あんな酷いタイミングで、あんな切れ味のいい残酷さで…冴を置き去りにしたから。
だが、それは…ただ、留守番頼むなというだけのことで…大騒ぎするようなことではない。
だから、多分、冴が悪い…のだ、と思う。
そしてそう結論づけてしまうと…なにか憎しみに似た黒いものがうごめく。
…傷付けばいいのに、と。陽さんも、藤原も…。
…俺の苦しみに気付け、と…。
…ユウは、別れ際に言った。ぎりぎりまで様子をみましょう、と。
わたしは、藤原くんは、大丈夫だと思うわ、と。
そして静かに、半紙で包んだなにか小さなものを差し出した。
「…久鹿が帰って来るのに間に合わなかったら、これを燃やして。これは、合図よ。これが燃えたら、…わたしが藤原くんの始末をつけるわ。でも、そのあと、あんたたちの友情については保証できないし、…もしかしたら藤原くんの人格もかわっちゃうかも。…万が一いつきがきたときは、あんた、あの家をなんとか理由つけて出なさい、コーヒーがきれたとか、飯がたりないとか、なんかあるでしょ。そうしないと、いつきはハエを叩きつぶすように無造作に藤原くんを叩いてしまうわ。」
…冴はそれを、受け取った。
もう、そうする以外にないのだから。
窓を開け、陽介の部屋のほこり落しをして、掃除機をかけ、畳をかたくしぼった雑巾できれいにふいた。
掃除していて気がついた。床の間の、小柄がない。…父の片身だときいている。
多分、あの日、虫の知らせがあって、持って家を出たのだろう、と思った。
…気分が暗くなった。
陽介は、所詮、父がいればいいのだ。冴などいなくても…。
…洗いざらい家捜しして、父の遺品を全て捨ててしまいたいと思った。
今ならできる。
…しばらく考えた挙げ句、冴はため息をついて窓を閉め、猫のために少し戸をあけたまま、部屋をあとにした。
無くなったことを知った陽介が、どんなに悲しむだろうと思うと、とてもできなかった。
自分の部屋に戻り、新しい机の前に座った。
…吹雪の選んでくれた、心地良いラグが足に触る。
不意に、悲しみがこみ上げた。
冴は、…藤原と抱き合っているとき、嫌じゃなかった。少しも。
藤原が友達でなかったら、藤原の知らない本当の喜びを教えてやるのに、と思ったこともある。
どうしてあんな冷たい恋人のために、自分が、あんなふうに求めてくれる藤原を捨てなくちゃならないんだろう、と思った。
俺を愛してない恋人。いつまでも父のために泣いている恋人。
…藤原が、地獄を選ぶなら、…行こう、と思った。
何もかもいらない、と思った。
何もなくてもなんとか生きていけるだろ、と、ついこのあいだまで貧しかった冴は、思った。
+++
冴が荷物を整理していると、猫が「…冴~どしたの~」という調子で鳴きながら、入って来た。
くりくりと頭を撫でてやったが、「どしたの~どしたの~」と追及はやまなかった。
「…大丈夫、ようちゃん。…家主さんがかわいがってくれる。お前は心配するな。」
そう言うと、猫は突然黙り、そして口のあいていた鞄のなかにしずしず入ると、中でごろごろいいだした。
「…こら、出なさい。」
掴んでだそうとしたが、どうしたことか上手い具合に毛皮が柔軟性を発揮して、掴めない。
「あれっ??」
そのうち猫は奥へ奥へと入り込み、荷物を勝手に外にぽいぽい蹴り出しはじめた。
「陽ちゃん、やめなさい。」
「ニャ-。」
…返事だけはいい。
「こら。」
「ニャ-。」
しばらく格闘したが、猫は「このかばん、もらいましたから。」という顔で居座り続けた。
「…しょうがない。」
冴はため息をついた。また猫が機嫌よくどこかで寝たらつづきをやればいいと思った。
部屋の中のいらないものを順にかたずけた。読み終わった文芸部の会誌、戻って来た提出物やテスト、二度と見ないだろう授業の資料や、なんとなく持ち帰った旅先のパンフレット、やりおわった問題集…たいして持ち物もない。すぐに済んだ。綺麗になった部屋に掃除機をかけた。
窓を開けて部屋の空気を入れ替えると、少し落ち着いた。すると、なんであれ、今夜の飯はくわなければいけないことに気がついた。スパゲティを食べた時刻が半端だったので、そんなに空腹でもなかったが、なんとなく台所へいき、ついでに残り物を全部整理して、たべられそうな物を軽く調理して、食べた。
猫が来たので、餌と水をやった。猫はいっしょうけんめい、硬いキャットフードを噛み、水を飲んだ。
洗い物をすませてコーヒーを飲んでいると、電話がかかってきた。
藤原だった。
冴は猫の自動給餌機に目をやり、2~3回分あることを確認すると、どこかで会おうか、と藤原に言った。
藤原はしばらく黙り込んだまま気持ちと戦っていたが、やがて、いや、電話でいいよ、と言った。
冴は裏切られたような気分になった。
「…月島、今、時間あるか。」
「…ああ。」
「…少し話したくて。」
「…うん。」
…気のない返事をした。
「…話したくない?」
藤原の声が苦笑した。
…今更、話でもあるまいに、と思った。
「いや、べつに。そんなことはない。」
心にもないことを、言った。
「…ごめんな、月島…。…でも、少しだけ、話して、いいか?」
イライラした。
「…かまわない。」
藤原は少し沈黙した。
それから、妙に明るい調子で言った。
「…昨日、2-Cの、例の占い師の営業日でさ。…あいつ、エリアの喫茶店で、週末占い師してるんだって。」
冴は、なんとなくつられて、教室で話すときのような調子で相槌をうった。
「へえ?」
…それは藤原が持っている不思議な魔力のようなもので、いつも、調子よく、明るく、周囲を照らす、藤原にしかない光の発露だ。冴はその光がすきだったし、それは、冴だけでなく、いろいろな人間が、そうだった。
その光が、電車の駅いくつかぶんの距離をこえて、今、冴のもとに届いていた。
「俺、今、恋になやんでるわけ。…今っていうか、まあ、ずっとだけどな。」
「…俺もだぞ。」
2人はクスクス笑いあった。
「…恋に悩む2人を、占ってもらったわけ。」
「…大弓は何だって?」
「うん…。俺はね、何もかも捨てて、価値観もすべて変化して…そうするつもりがあるなら、月島を家主さんから奪い去ることができるんだって。」
「…ふーん。」
「…俺ね、そういわれて…わかった。…俺は…要するに、なにもかも捨てたいんだなあって。」
「…うん。」
冴の返事は、妙に含みのある声音になった。
藤原はそれをきいて、不意に口をつぐんだ。
2人はそのまま静かに、しばらく沈黙していた。
…だがやがて、藤原は言った。
「…煩わしいものを、何もかも捨てたいだけなんだなあって…。」
「…」
…冴は黙ったままだった。
それは、どう言う意味だ、藤原、…と思った。
「…月島と行けば、それがかなうってことを…俺のどこか深いところが知っているんだって。…月島は…俺達とは…違うから…なにもかも…だから…。」
「…」
「…そのために、月島がどうなろうと、ほんとは俺は…知ったことじゃないんだって。」
「…」
冴がこわばって沈黙していると、猫がやってきて、テーブルの上に飛び乗った。
…吹雪がそうしてくれるように、猫は、冴の手のそばに、そっとよりそって座った。
「…でも、お前が好きだよ。…だから…」
…冴は寒さを感じ、まだコーヒーがのこっているカップに掌を当てた。
「…立川はね…、月島が幸せでいてくれると、自分も幸せなんだって。」
「…」
「…俺は…自分の気分で走り回ったりじゃれついたりしてるだけの、駄犬なんだって。」
「…藤原、それは…」
「俺もそう思った。」
藤原は、冴の言葉をさえぎって、言い切った。
冴は遮られたまま、黙って、藤原の言葉を待った。
藤原は言った。
「…でも、駄犬は駄犬なりに、おまえが好きだよ。…だから、もうすこし、名犬にならなきゃって。…好きなら、相手を幸せにできなくちゃと思うから。」
その瞬間、ふわっと、何か勝利感のようなものが流れて来た。
…藤原の後ろの人だ、と冴は悟った。
…藤原は今、永久に冴の手をすり抜けて逃げた。なにかに勝利して。なにかに?それは一体なんだ?…冴は思わず、自分の掌を見た。…何もない掌を。
…誘惑に。
…月島冴という誘惑に。
俺は悪魔役で、藤原を誘惑していた側だったのだ、と、突然明瞭に構図を理解した。
…そのとき初めて、理解した。愕然と。
「…月島、冬休み、俺、ちょっとあちこち一人で歩いてくるわ。海外とか…。3学期までに、頭冷やしてくるから…。」
みるみる遠くなるその光。
「…3学期、また友達で頼むわ。今まで、いろいろ悪かった。…ほんとに…俺は…なにも…自分のこと以外なにも考えられなくて…済まなかった。…じゃあ。」
電話は一方的に切れた。
…冴は猫の前に、うずくまるように背を丸めて伏せた。
…やられた、と思った。
遠くで言祝ぐ老人たちの賑やかな笑い声が聞こえ…、猫の足許で、父の腕時計のメタルのベルトが粉々に壊れた。
+++
「…元気だしなさいよ。」
「…」
「それで良かったんじゃない! なによ、ハマっちゃって。」
冴はふいっとユウから顔を背けて儀礼的に言った。
「…じゃあ、慎二さんと、お袋によろしくな。…そうだ、貴様のところの妖怪ババにもな。これは土産だ。山でばーさまと食ってくれ。…昨日眠れなくて徹夜でつくった。俺からのささやかなクリスマスプレゼントだ。」
冴に差し出されたケーキの箱(中味はホール型のでかいやつだった)をユウは礼をいって受け取った。
州都中央の駅は、通勤客もとだえる時刻で、比較的すいていた。
「…時計、本体は無事だったの?」
「ああ。さっき、ベルトだけかえてもらおうと思って、時計屋に渡して来た。」
「直ったらすぐ宅配便で山に送りなさい。念をいれてすぐ返すから。」
「わかった。」
「気をつけなさいよ、あの時計、すごい威力であんたを守ってたんだからね。なくなったらまた群がってくるわよ。」
「…もうどうでもいい。」
冴が言うと、ユウはため息をついた。
「冴、被害者にならないのよ?…利用されたときおもってるんでしょ、どうせ。」
「…。」
「…そんなこといいはじめたら、連中に利用されてない人間なんか一人もいないんだからね?あたしだって利用されてるのよ?久鹿なんてどれだけ利用されてると思うの?…いつきなんか…!」
「…。」
「さーえ。…いい、今回のことは、あんたは大いに相手に貸しをつくったのよ。いつか返してもらえるわ、一番いい形でね。だから拗ねないの。」
「…。」
「藤原くんの業をずいぶん精算できたのよ、もっと喜んで頂戴。あんたは偉業の手伝いをしたのよ。…藤原くんがすきなら、喜んであげなさい! もう! 漢らしくないんだから! 父親そっくり!」
「ああ俺は父親そっくりだとも、せいぜいそれだけが取り柄だからな、陽さんだって俺がこんなに親父そっくりの性格でなかったら3日で飽きて山におくりかえしたこったろうよ。」
冴がぶつぶつ言うと、ユウは頭をばりばり掻いた。
「…そんなに寂しいなら、おうちのママんとこ帰る?冴。」
「い や だ。あんな狭い家、今更住めるか。俺が40度熱だしても気付かないあの無神経な母親なんかと、二度と一緒に暮らせるものか!」
「じゃ、山来る?…もっとカミサマに利用される率がたかくなってもいいんなら…。それとあんたのおもに下半身を好きな子持ちの人妻・藍ちゃんもいるけど…。」
「…。」
「やなんでしょ?…いいコにして、久鹿がかえってくるの、待ってな。…あの男とならいくら深い仲になってもいいから。ね?子供もできないし、安心していちゃつきなさい。そしてもらえるものはガッポリもらうのよ。わかったわね?」
「…。」
ユウは冴の前髪のあたりをぽんぽん、と軽く叩いて、荷物を持ち直した。
「じゃ、あたし、いくからね、冴。せめて久鹿のこと、信じて待ちなさい。疑って、被害者になって、そうして結局、自分がつらいだけなんだからね?時間の無駄よ?」
ユウはそう言い残すと、チューブラインのゲートに消えた。
…神々の根拠地も、クリスマスは静かなことだろう。宗派が違う。
天気がよかったので、冴は歩いて帰ることにした。1時間もあればつくだろう、と思った。途中でコーヒーくらい飲んでもいい。
…終わってみれば、裏切り者の自分だけが、一人残されていた。
陽介に、あわせる顔がない。
藤原は誘惑に勝ったのだろうけれども、冴は負けたのだ。
…妙に空が青く見えた。
+++
いつも陽介と車で行っているショッピングセンターに一人、電車で赴き、鳥の半身を初めとした材料をたくさん買い込み、夕方の配達を頼んだ。
「あっ、月島。」
ジューススタンドでブルーベリー・パインミックスを飲んでいたら、根津に呼ばれた。
「…おう。根津。」
「…なんか…?…大丈夫?」
「…昨日、藤原にふられたぞ。」
「えっ、まじで。」
「うん。…俺はとりあえず、駆け落ちのしたくしてたんだけどな。」
「嘘つけ。」
冴は思わず笑った。
…あっさり嘘にしてくれた根津が、なんだか有り難かった。
「…まあな。ホントは鞄にはいりこんだ猫と格闘してただけだ。」
「あはは。…て、昨日、藤原から電話きたの?」
「…吹雪の説教が堪えたらしいぞ。…旅に出るそうだ。」
「ウワ、まじで?」
「ああ。」
「…元気で3学期あえるといいけどなあ。」
「…そうだな。」
冴はチュ-とジュースを吸った。
「…根津は、今日は、熊道さんちか。」
「そ。年末の挨拶。」
「ごくろーさん。」
「いえいえ。俺あの老人夫婦、すきなんだよね。だから会いに行くだけ。…月島、久鹿さん明日だっけ?暇なら今日の夜、飯でも食う?」
「…いや、暇じゃないんだ。これからケーキの本番だし。チキンも焼くし。陽さんがすきだから、百合子さんのレシピでミートローフ作って…。」
「…そうか。いや、…自殺したくなったら、死ぬ前に電話しろよ?俺の携帯切れてたら、タッチでもいいから。」
「…根津、気持ちは嬉しいが、…俺の場合、自殺でなく、他殺を心配すべきだ。」
「おいおい、殺すなよ?…とにかく、血が見たくなったら電話しろ。」
「…血が見たくなったら牛肉でも切るさ。ラムでもいい。」
「いいから電話しろ。わかったな?」
「わかったわかった。」
冴は笑った。…なんとなく、気持ちがほぐれた。
「…吹雪のやつ、藤原に駄犬って言ったんだって?」
根津にたずねると、根津はうなづいた。
「そ。藤原怒ってたよ。…でもね、タッチにとっては、月島は、盲導犬みたいに優しいんだって。ずっとそばにいてくれるんだって。それを立川に言われると、藤原としてもなるほどと思ったんだろうね。」
「…俺も駄犬だ。…藤原とは駄犬どうし、調子が合ってたんだ。…俺は藤原が好きだった。藤原が俺を好きになってくれて…嬉しかった。」
「…みんな知ってるよ、お前が藤原を好きだったことは。…でも、藤原が名犬になりたくなったなら、とめるべきじゃない。」
冴は顔をあげた。
「…そうだな。」
「…お前だって久鹿さんさえかえってくりゃ、ちゃーんと名犬だよ。」
「…。」
「自信もてよ。請け合う。…てか、オンディーヌでしょ。」
「オンディーヌ?」
「そう。人間に恋して人間界に来てた水の妖精。最後は仲間に呼ばれて、何もかも忘れて帰って行くんだ。…お前も久鹿さんがお前の名前を3回呼んだら、俺達のことを全部忘れて、久鹿さんについていくんだろ?藤原のことも、タッチのことも…なにもかも、全部忘れて。」
「なんだそりゃ。そんなファンタジーがあるのか?」
「有名な芝居だよ。…去年の夏、演劇部も上演してた。」
「ふーん。」
冴は頭をかいた。
「…そういえば、今頃須藤は、3年越しの思い人とデートだなあ。」
「…うらやましいことだな。」
「まったく。真面目なのがいちばんだ。」
これから熊道家にいくという根津とは、ほどなく別れた。
少なくとも、もう、年内は会わないだろう。




