10 赴く魂
妹の茉莉花が泣いている。
…うるさい、と思った。
赤ん坊は一体、いつになったら分別がついて、いつになったら泣かなくなって、いつになったら、人間らしくなるのだろう、と思った。
…自分も妹のように、なにもかも世話になって有り難く育てられたことはよくわかってる。
けれども、堪え難く、イライラした。
茉莉花と名付けられたその生き物が、人間になる日は、永久にこないわけではないにしろ、限り無く遠い未来のことに思えた。きっとそれまでの間に、自分は疲れ果て、乾涸びて、酒漬け薬漬けになって、生ける屍のようになってしまうに違いないと…。
「しげのりーっ、悪いんだけど、ちょっと買い物にいってきてくれない?」
「…いいよ。」
…すこし体調がわるくて、薬を飲んで横になっていたのだが、このまま家で不機嫌になっているよりはいい、と思った。
メモとカードを母から受け取った。…母は、息子の加減の悪さにまったくきづいていない様子だった。
エレベーターで下りて、外へ出た。
…少しふらついた。
近くでもよかったが、気晴らしも兼ねて、通学定期で電車に乗った。
…車両内に貼られた鏡に映る、自分の顔が、なんとなく、おかしい気がした。
果物が美味しいとネットの評価が高い安売り店へ行き、メモ通りの品物を、機械的にカゴに放り込んだ。
レジを通過して、買った物を袋につめていると、うしろから声をかけられた。
「…藤原くん、だったわよね?」
振り返ると、綺麗に切りそろえたボブカットの美人がにこにこしていた。
美しい女だ。…この顔は忘れていなかった。
「…あ、ええと、ユウさん…ですよね。」
「ええ、そう。冴がいつもお世話になってます。」
ユウは藤原にぺこりと頭をさげた。藤原もつられて会釈しながら、言った。
「…文化祭以来ですね。」
「…修学旅行、大変だったんですって?」
「ああ、ききました?幽霊騒ぎ。」
「きいたもなにも。実況だったわ。冴が電話よこすんですもの。…わたし、神社の娘なの。」
藤原は、あっ、と思った。
「…そうだったんですか。いや、月島のやつ、だれかに電話で相談してるなー、とは思ってたんですが。」
「そうなの。わたしだったの。」
「…御迷惑をおかけしてしまって。」
「ううん、それは、いいのよ。別に。わたし、あの子のこと、あの子のお母さんから頼まれてるし。」
「…月島に憑いてたわけじゃないですからね。」
「まあ、そうだけどね。でもいいのよ。わたしは何もしなかったんだから。…それより藤原くん、顔色が悪いわ。具合がわるいんじゃない?」
…他人でも気付くのにな、と藤原は思った。
「ああ、なんかすこしだるいっていうか…。こめかみがしびれるようなかんじ。頭痛…風邪の前兆かなーって。…たいしたことないですよ。」
「…ちがうわ。いつから?」
いきなり否定されて、藤原はとまどった。
「…一昨日…か、昨日くらい…かな。…ちがうって、どういう意味です?」
「…」
ユウはだまって、藤原の頭のあたりから、視線でナニカをたどった。上へ、そして遠くへ。…藤原はどきっとした。
「…ぼーっとして、ものごとがよく理解できなかったり、イライラしやすかったりするでしょ?」
「…ええ、まあ。集中できないって感じです。」
「…魂がぬけちゃってるわ。取りもどさなきゃ。」
藤原はびっくりした。
「え…それは、なんかの、喩えですか。」
「…まあ、そう思ってくれてもいいわ。…あら、何かににおいがするわ。いいにおいね。」
「あ…お袋にもいわれたんだけど、なんだかわからなくて…菓子の匂いって言われて…」
「お菓子!そうね、そんなかんじだわ。…藤原クンは、源氏物語は知ってる?」
「…え、まあ、フジツボの最初ぐらいは。」
「六条の御息所って知ってる?」
「…生霊の…?」
「…知ってるのね。」
「…ヒカル源氏のまわりに出没して、恋人を次々呪い殺したりする…?」
「そうよ。…あれもなにかの喩えなのかしらね。わたしは文学音痴だからわからないけれど。」
「…ユウさんも国語嫌いですか?月島と同じですね。」
「ほほほ、そうね、でも文学部よ。文学音痴でも入れるから、不思議ね。」
ユウは華やかな笑顔で笑った。そして更に言った。
「…恋って怖いわ。かなわなければ、挙げ句の果てに、相手の不幸を願ってしまったりもするのよね。」
藤原は、どきっとした。
そんな藤原の様子など軽やかにうけながして、ユウは言った。
「まあ、あの女の人はよほど適性があったのでしょうけど、一般的な人間だと、今の藤原くんみたいに、顔色が悪くなって、体調もわるくなるのが普通よ。精気がなくなっちゃうの。疲れ果てて。…ここ数日、ケーキつくっているのは、誰?」
「…」
「…思い当たる人いるでしょ。…その人からそっと手を離してあげて。ずっと掴みっぱなしだと、しまいには嬲ることになってしまうわ。…愛するあまり。」
藤原は、その言葉をひどく恐れた。…実感があったからだ。まるで、自分はたちの悪いヒモみたいに、月島を騙して…関係をもっている。
「…できそう?」
ユウは優しくたずねた。
藤原は、口籠った。
ユウは藤原から目線をはなし、藤原の買ったものの袋詰め作業を手早く手伝ってくれた。
「…藤原くん、愛しているなら、愛をあげましょう?…嬲ってはいけないわ。愛しているのなら。」
「…」
藤原は泣きたくなった。
「…どうしたらその人に、ちゃんと上手に愛が届けられるか、そのことを考えましょう?そうしたら、安心して、その人を放してあげられるでしょ?」
藤原は、ユウの顔を見て首をふった。
「…わからないんです…どうしたらいいのか。」
「…そうなの?可哀相な子。」
ユウはそう言って、藤原に苦笑した。そしてたずねた。
「…あなたは、本当はどうしたいの?…自分だけのものにしたいの?言うことをきかせたいの?」
「…そうじゃありません、でも…」
「…抱き締められていたいの?…離れられないように、がんじがらめにして、そばにおきたいの?」
藤原は首を左右に振った。
「…」
ユウは黙って、少しかなしそうな笑顔で藤原を見つめた。
「…答えはあなただけが知っているのよ。もし、分からないならば、あなたを守ってくれている人に相談してごらんなさい。…わたしもそのひとに頼んであげるわ、あなたの魂が、かえってくるように。」
ユウはそう言うと、そのばで藤原の手をとり、目を閉じて、普通に言った。
「…藤原くんを守って下さっている御方に申し上げます。今すぐに、すみやかに彼の魂を引き戻し、あるべきかたちにおさめてください。」
ユウが目を開けると、藤原の視界は突然3割ほど明るくなり、体の不調も急速におさまった。ふわーっと体が温かくなった。
藤原は驚愕した。…ユウのいってることがすべて本当なら、おそろしいことだ、と思った。
「…ね、なおったでしょう?…守って下さっている方がいらっしゃるって、わかったわね?…その方に、よく相談してごらんなさい。大丈夫よ、必ず上手くいくわ。あなたは出来るわ。ちゃんと。」
ユウは藤原の手を一度ぎゅっとにぎると、そっと放した。
「わたしの言ったこと、忘れないでね。」
藤原が相談って、どうやって! …と思っているうちに、ユウは立ち去ってしまった。
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「明日どこに集まるんだっけ。」
須藤からの電話の最後に、根津は首をかしげた。
「…まだ決めてなかったな。」須藤が電話のむこうで頭をかいている。「…ドミってわけにはいかないし。…どっか店にするしかないか…。日曜だし、藤原とタッチ-がそろうなら、ウチでもいいが、5人あつまるとなるとちーと狭いんだよな…。ずっとすわりっぱなしで喋りながら菓子でも食うならいいが。…そんな、乙女じゃあるまいし。」
「日曜だし、藤原とタッチ-がそろうならって、なに、須藤。」
「…母が月島にカブレた。日曜は、父が在宅だ。」
「…それはいかんな。」
「…藤原のうちは廊下も長いし部屋も広いしうってつけだが、赤子がいるからな、おしかけると迷惑だろう。」
「でも店にすると、さすがに懐がつらいんだけど…。…ドミに来る?集会室があいてれば…」
「…月島んとこは。」
「…」根津は詰まった。「…あいつ、居候だからな。家主さん、今留守だし。」
「家主の留守に勝手に猫は飼いはじめる、クラスメイトとのっぴきならない仲になる、その解決から逃げて別のクラスメイトの家で服を脱いでポーズなんかとる、うちの母を夢中にさせる…そんな奴になにか遠慮が必要なのか?」
「…じゃあ、須藤くん説得してよ…。」
「断る」
「猫鈴かい」
「…今日ちょっと一つゴリ押ししたからな。俺がこれ以上やると、月島は多分逃げる。…あいつは素人とはなるべくケンカしたくない奴だから、追い詰められたらとりあえず逃げる。」
「…俺さ、久鹿さんの味方でいてやりたいんだよね。だから裏切るような真似はしたくない。」
「よく言う。貴様が立川をそそのかしたの、知ってるぞ。聞いたからな。」
「あれは藤原がおかしくなってるから、藤原を止めようと思ったの。それで、タッチを月島のところに配置して、バランスをとろうとしただけだよ。…月島だってあんなモーレツに藤原から迫られたら、うっとおしくなっちゃうだろ。藤原にとっても、そんなの嬉しくないじゃない。みんなのこと考えたんだよ。」
「舌長いな、根津。やはり説得には貴様が適任だ。」
根津は坊主頭をかいた。…やられた。さすがに鼓笛隊のもと部長は、人間関係に慣れている。
「…わかった。きいてみるよ。」
そして説得を根津が引き受けたからには…相手にNOはないのだった。
+++
月島との電話を切ると、いつのまにか杉田が来ていた。机の上に、根津のぶんのお茶があるのを指した。
「ありがと。」
「…明日も出かけるの。」
「うん。」
「…つまんない。」
杉田は珍しくそう不平をこぼした。
「夕食には戻るよ。…明日、稽古休みなの?」
「…演出グループが喧嘩しちゃってさ。明日はその冷却に、休みにした。」
「…大鉈ふるったね、ユーリ。」
「…ちょうど稽古場に借りてる会館に、御葬式が入っちゃったんだ。どうせ別の場所取り直さなきゃ稽古できなかったから、役者さんたちと話して休みにした。みんなクリスマスの準備もしたがってたし。」
「…そっか。」
根津はお茶をすすった。…食堂にいつもおいてある合成茶だ。飲み慣れた味がする。わざわざくんできてくれたのだろう。
「…ユーリ、本、別に、勝手に読んでいいよ。」
「…うん。でも、明日、俺も出かけるよ、せっかくの休みだし、映画でも見る。」
「…そっか。」
なんか菓子でもたべるかと、根津はごそごそ菓子箱を探した。
「…根津、」
「うん?」
「…デート、どうだった?」
根津は笑った。適当に菓子を選んで、杉田に投げた。杉田が受け取って、包装をとくのを見ながら言った。
「…お互いすっげえイライラした。」
「…無神経な子だったの?」
「ちがう、テンポが合わない。」
根津はそう言って、げらげら笑った。
「動物園でペンギンみてたらいなくなっちゃってさ、探してたら逆に呼び出し放送かけられた。あわてて行ったら、やまほど縫いぐるみや菓子かかえて『いつまでペンギン見てる気よ、こっちは買い物もすんだわよ』って、チョ-イライラされてた。こっちも『なに放送かけてんだ、場所わかってるんだから呼びに来いよ』って言ったら『あたしに何回ペンギン見させる気なの?!』だって。」
「…よく笑って言うね、根津。…月曜日学校行ったら、さっそく噂になってると思うよ。根津が悪人の形で。」
「…ユーリ、男女仲なんて、コメディだよ。いいじゃないか、笑ってナンボだって。聞いた人はきっとみんな笑うよ。『あたしに何回ペンギン見させる気なの?!』だって。呼び出し放送のお姉さんも苦笑してたよ。…ユーリも笑えばいいのに。」
「…胃が痛い。」
「…演劇部では大鉈ふるってるくせに。」
「沢山の人間のなかにいるときはいいんだよ。常識とか妥当性とかがまかりとおるだろ。…でも、2人っきりの世界には、そんなもの、ないじゃない。どっちが無理を通すか、それだけだ。」
…立川が、杉田のことを、「なす術もなく奪われる」などと表現していたのを、根津は思い出した。
そうか、ユーリは、…他に誰もいない、2人だけの世界が恐ろしいのだ、と根津は察した。
そのとき多分、彼の人間性は、いつも踏みにじられてしまいがちなのだろう。…やさしいユーリは。いつもそうなのだろう。
「…お互いに少しだけ、譲り合えばいいんじゃない?」
根津はたずねてみた。
杉田は言った。
「…今日の彼女か根津か、どっちかが譲ったとでも言うの?」
根津は言った。
「…彼女もイライラしたなら、ひとりで行っちゃう前に、他の動物も見たいって言ってくれれば、俺も少しは合わせたのに、と思うよ。」
「じゃあそのとき、根津がペンギンを見ていたい気持ちは、どうなるの?」
「だからさ、少し譲るだけだよ。全部ゆずるわけじゃない。…どうしても見たければ、俺は『もう3分みていてもいい?』って聞くよ。」
「ダメって言われたら?…それに、いつもいつも『ペンギン飽きた、ライオン飽きた、猿飽きた、動物園飽きた』っていわれたら?」
「…そのとき初めて、『気が合わない』になるんじゃないの?…勿論、結局『駄目』かもしれないけど…でももしかしたら、お互い融通しあえば、ちょうどよく楽しかったかもしれない。俺もたまにはいろんなもの見て、彼女もたまにはゆっくり一つのもの見て、ああ、有意義な一日だった、って、お互い思えたかもしれない。」
「…そんなふうにうまくなんか、いかないよ。」
「うん、滅多にね。だから、みんな、その滅多にない偶然を生み出せる相手を、一生懸命さがしてるんじゃないの?」
「…。」
杉田はせつない顔をした。
根津はお茶をすすって、杉田のあけてくれた菓子をつまんだ。
「…ユーリは、藤原のこと、嫌い?」
杉田は目を逸らした。
「別に。…どうして。」
「このあいだ、絡んでたから。」
「…他意はないよ、別に。…ただ、恋をしてるっていうから、聞いてみたかっただけ。」
「何を?」
「なんで恋なんかできるのか。」
それはまた子供みたいに深遠な問いだなあ、と、根津は苦笑した。
藤原が実際にきかれたら、「はぁ?なんでできないの??」と言うだろう。
「…藤原は、まあ、なんてーか、素直になるまでに、大分時間はかかるんだけど…でも基本的には、自分に正直なやつなんだよ。それだけ。」
「…」
「…魂の赴くままに、あったかくなったり、寒くなったりしてるだけだよ、あいつは。だからたまに暴走する。」
「…どうしたらそうなれるの?」
杉田はぽつりと呟いた。




