プロローグ
修学旅行が終わって戻ったドミは、なにやらカビ臭かった。
…いつも、多少は臭いのだが、雨が降っていたせいか、ことさらに臭かった。
たまに消毒しろよ、と根津は思う。こんな部屋によく高校生おしこんだものだと。
ドミは基本、個室だ。余程態度が悪かったりすると、おめつけグループみたいなのをつけられることもなくはないが、そもそも部屋が余っているし、ルームメイト制だとトラブルが多くなるので、面倒みきれない、ということらしい。
勿論、根津も個室だ。
4畳半よりは若干広めで、6畳よりは狭いという、微妙な広さだ。ベットと机と書架とクロゼットでほぼ満杯である。寮生は、ふざけて個室を「独房」と呼んでいた。
根津の場合は、ロフトベットの下にもクローゼットの隙間にも、勿論つくりつけの天井ちかくにある棚は言うまでもなく、本がみっしりつまっている。3か月にいっぺんくらいは、古本屋に出しているし、大切な本はちゃんと実家におくって自室の書庫につめてもらっているのだが(小学校教師の父が快く整理してくれている、多分、ついでに読んでいる。)さすがに「知的なエロ本」「マニアックな本」「ブラックな本」の類いは気分的に送りづらいので、寮にためこまれていた。売りに行くにしても気合がいるのだ。
天井から愛しい本たちに埋もれているかのような小さなその部屋は、根津をそれなりに安心させたし、それなりにくつろがせたし、…カビ臭くてもそれなりに居心地はいい。根津は荷物を放り、窓をあけ、ベットに座り込んだ。
菓子も沢山かってきたし、写真もとった。クラスメイトの月島と文芸部の久鹿先輩のイチャイチャぶりも絆も久鹿の弁舌も堪能した。親がいきなり来てちょっとごたごたしたり幽霊騒ぎで眠り損ねたりしたが、まっ、充実した旅だった。
…根津は窓を開けたまま、うとうとした。
旅の残滓がざわざわと脳裏を触るかのようで、くすぐったい。
明日から2日間、振り替え休日だった。
あければテストがまっているが、根津は今回の期末はかろやかに投げていた。
ゆっくり眠りたい、今はそれだけだ。
+++
州都のオカンと寮生みなが呼ぶ寮母に食事に叩き起こされること2回。
自力で起きたときには、翌日の昼近かった。
平日なので、昼食を食べにおりても、いたのは同じ2年だけだ。
食堂のおばさん(みんなからすごく愛されている)が、大きな握り飯と、煮物と、味噌汁だけという、地味な昼食をつくってくれた。それでも2年の寮生たちは、我が家に帰って来たかのように、嬉しく、その食べ慣れた味を楽しんだ。
「…北のほう、どうだった、ユーリ。」
さんざん眠ったおかげで、やっと他人と口をきく気になった。
「…麻雀がもりあがって、すっかり寝不足だよ。」
同じく欠伸しながら答えた、…天然パーマで眼鏡をかけた2-Jの杉田ユーリックは、根津の寮での一番親しい友達だ。よく根津の本をよみにきて、何時間もあの本に一緒にうずもれたりする。だからといってべたべたつきあっているわけでもないが、正直、こいつとなら相部屋でもいいのに、とお互い思っている仲だ。お互いに、じゃまにならない。2人でいると、なんとなくほっとする。
「西はどうだった。」
「…うちのクラスは幽霊騒ぎで大変だった。でも箝口令でてるんだ。あとで部屋で話すよ。」
「ああ、行くよ。根津に土産買ってきたんだ。もうすぐクリスマスだし、ぴったりのやつ。持って行くよ。」
「俺も買って来たよ。消えものですが。」
…芝居の小道具で、生物の菓子など本当に食べられるものは「消えもの」というのだそうだ。「多分、スタッフが一つ二つとつまむからなんだと思う」と学祭の前に杉田が教えてくれた。杉田は演劇部員だ。学祭では、生徒会に請われて、実行委員として総合舞台の裏方進行をつとめていた。「部の芝居には出ないから、こなくていいよ」と言われた。「今度、俺に役がついてるとき来てよ」と。…ちなみに、いままで一度も、杉田に役がついたことはない。…というか、有能すぎて、部内でも舞台監督をおりられないらしいのだ。本人は役者がやりたかったらしいのだが。役者がやりたい以前に舞台がやりたくて、舞台をやろうとすると、どうしても舞台監督が必要で、誰でもできるというわけでもなくて、仕方なく杉田がやっているらしい。
「あはは、菓子?」
「うん、うまいぜ。味見して買った。」
「ありがとう…。」
杉田ははにかむように笑った。…すごく育ちがよくて、優しい杉田は、女子にも男子にも人気がある。藤原とはまた別の層のファンがついていた。
杉田の家は西のほうで、実家が北海道の根津が西コースにしたのと同じ理由で、逆に北コースを選択した。それで今回はばらばらになってしまったのだった。
「…ユーリ、何人コクられた?」
「…わかんない。忘れたよ。」
「忘れるほど多かったんだ?」
「…俺、きっと、言いやすいんじゃないかな…。なんか、『殴れません』て、顔にかいてあるだろ。だから。」
「…だれかと付き合わないの?」
「…そういう気分じゃないんだ。」
「つきあってみればいいのに。ブスばっかしなの?」
杉田は苦笑して、首を横にふった。
「…わかんないけど…女子に、セックスせまられたら、逃げ出しそうな気がして、自分が。…そんなのかっこ悪いじゃない。」
「…別に、いやならしなくてもいいじゃない。…女の子とただ普通に遊ぶの、楽しいと思うけど。」
「…根津は誰かと付き合うの?」
「うん、とりあえず、1回デートしてみましょうかって。」
「…1回のデートでやり捨て?」
根津は笑った。
「やらないって。…ちょっと映画みたりするだけだよ。」
「ちょっと映画みたり、キスの練習したりするだけなんだ?」
「練習はしないって。」
「しなよ。」
「なーんでだよ。」
根津が笑うと、杉田も笑った。
…根津は本当は気付いている。
杉田は、久鹿と同じで、中味が女なのだ。
物心ついてから、ずっと、器用に男を演じて、生きているのだ。
でもたまにボロがでる。…普通の男なら、死んでも「逃げ出しそうでかっこわるい」なんて、同年代の男に言ったりしない。
でも、杉田は一生懸命なのだ。
自分に与えられた肉体が男だったことを、賢明に、精一杯、自分なりの形で消化しようとしている。…その違和感を、受け入れようと。
その健気な可憐さにうたれて、みな、ユーリに恋をする。
+++
杉田を部屋に連れて来て、2人で土産交換した。
杉田が買って来たのは、サンタクロースのマトリョーシカだった。ぱかっと半分に割ると、際限もなく、一回り小さなとぼけた顔のサンタクロースがでてくる。…笑った。根津は、本の手前のわずかな隙間に、ちいさいほうから順に全部並べて飾った。根津の部屋は、すっかりクリスマスムードになった。
根津が菓子を渡すと、杉田は「一緒に食べようよ」と言って、その場であけた。そして、ホールの自販機に飲み物を買いにいき、根津のぶんも買って来てくれた。
請われて、根津は例の幽霊話を杉田にこっそり話した。杉田は興味深々の様子で、面白がって聞いた。
「…オーウェンて…フレデリック・オーウェンだろう?」
「うん、そう。…知ってる?」
「知ってるよ。一年のとき一緒だった。へえ、あいつ、そうなの。」
「そうらしいよ。そのわりに、なんていうか、すごい恐がりでさ。」
「あはははは、可哀相に。」
残酷にも杉田はじつにほがらかにオーウェンを笑った。それから言った。
「…2学期からこっち、根津は月島と仲がいいんだね。」
「そーでもないよ。月島はいつも藤原とか立川とべたべたしてる。」
「…俺は遠目にしか見たことないけど…びっくりするような綺麗な男だよね。ゲキ部でいつも噂になってるよ。みんな、見た目にはうるさいからね。」
「そうなんだ?」
「…どんなやつ?」
「うーん、見た目とは大分違う中味だよ。…なんかこう、見た目はエッヂが鋭いような印象だけど…中味は、日向で居眠りしてる年寄りの番犬みたいな感じ。…おっさんて感じ。」
「おっさんかい。」
「うん。老犬。…怒らせると獰猛だよ。でも普段は機嫌よく寝てる。ぼけーっとして。」
「…かわいいんだ?根津からみれば。散歩つれてったり、おやつやったりしたいんだ?」
杉田はからかうように言った。
「…かわいいかなあ。…まあ、あいつ、恋人といるときは、実に微笑ましい献身ぶりだし、もう夢中って感じで、可愛げがあるとも言える。そういう相手がいてうらやましいなあと思うしね。」
杉田は根津の土産を食べながら、少し沈黙した。
そして言った。
「…恋人がいるのって、そんなにいいかな?」
根津は少し戸惑った。
ユーリは正直なところ、男がいいのだろうか、それとも女がいいのだろうか?そのあたりからして疑問だった。…それにきっと、ユーリはたとえどちらがすきなのであれ、女が好きなふりをすることを選ぶのだろう。…男であるふりをするために。
「…うーん、まあ、なんていうか…人生がカケル2なんじゃない?」
「…苦難や孤独も、2倍ともいえるんじゃないの?ストレスも。浮気なんかしたら、4倍?」
「…そうだけど、でも、喜びや、幸福も2倍じゃない?」
杉田は少し、せつないような顔で笑った。
杉田はいつもこんなだ。
…人間不信で、恋愛を嫌悪…というか、怖がっているのだった。
+++
電話がかかってきたので根津は出た。…立川だった。
「やっほー、根津、もう起きたー?」
「ああ、さっき起きた。」
「今、ドミ?」
「そだよ。」
「明日の午後、夕方までちょっとあそばない?須藤くんと。」
「明日の午後ね。いいよ。…タッチ、期末の準備はいいの?俺は捨ててるけど。」
「きまつ?ハッ、なにそれ。エロい?」
「いいなあそれ。もしか、期末、エロかったら、無茶苦茶楽しい。猛勉強しちゃう、俺。滝のように鼻血出し放題。」
杉田の耳に届いたようで、杉田は噴いて笑った。
「…だれか笑ってるよ?」
「ああ、友達。2-Jの杉田だよ。」
「ああっ、演劇部のユーリね。知ってるよ。演劇部のカキワリアーティストの筒井って、美術部かけもちだからさ。よく2人でうわさ話するもん。…かーわいいんだよね、髪がさー、ふわんふわんってしてて。俺テスト中五回ぐらい似顔絵書いたわ。数学のセンセイがマルつけてくれたもん。『よくにています』ってコメントまでかいてあった。…そっか、根津は、ユーリと出来てたんだね。うーん、眼鏡クン2人の危なくスウィートな寮生活~。」
「…ぶつよ。」
「いやん。」
「…明日、どこで集まる?」
「須藤くんちでカフェ・オ・レごちそうしてくれるって。須藤くんちのママンが、ゴーストマニアなんだって。幽霊話がどうしてもききたいらしいよ。マドレーヌ焼くって。…1時半に駅まで車で迎えに来てくれるそうだよ。最寄の駅はね…」
立川は駅名をいった。根津はそのへんにあったペンで、自分の手にメモした。
「…わかった。…月島か藤原に電話した?」
「…冴は駄目。全然出ない。多分ねてる。藤原くんは知らない。俺あのヒト関係ないモン。呼ぶなら須藤くんが呼ぶよ。」
「…関係ないってタッチ…藤原におとしてもらったくせに…。」
「そんなの、おぼえてないもん。お互いに。」
「なるほど、わかった。じゃ、明日ね。」
「うん。ばいばーい。」
電話が終わった。
「…明日、出かけるの?」
杉田がのほほんとたずねた。
根津はうなづいた。
「…じゃ、明日の分、本かりていい?」
「ああ、いいよ。」
「バビロニアの神話の本かったっていってたよね?」
「あっ、あれはね、地中海の…探すからちょっと待って。」
根津は立ち上がって、上の棚を探した。