猫はスーツを着ないけど
職場で、大手洋品店チェーンの割引券をもらった。
あいにく私はその手の洋服を着ない。しかし、この券をそのまま捨ててしまうのももったいなく思う。
「それなら、誰かにあげればいいじゃない」
隣の席の鈴木さんは言った。私のことを貧乏性だなと笑いながら。まあ、彼女の指摘はもっともだと思う。斯くして私は、この割引券の譲渡先を探すことになった。つるつるした厚紙でできたそれは、明るく健康的な色のデザインで彩られ、使ってくれる人を今か今かと待っている……ように思えた。そんなわけはないのに。厚紙はものを考えないのだから。
割引券の譲渡先として考えたのは、まずスーツ好きの友達。でも、今の連絡先が判らない。
次にいとこ。でも、彼もスーツを着るような仕事はしていない。
「あなた、お兄さんがいたでしょう」
鈴木さんは言う。
「うん。東京の方に。でも兄とは喧嘩中なの。割引券のために連絡するのは、ちょっとね」
私たちはぱっと視線を交わすと、どちらからともなく、くすくすと笑い合った。
「お兄さんはともかくとして、実家に送ってみたら?」
ブラックコーヒーを飲みつつ、彼女は言った。
「そうだね……でも、家にいるのは両親と猫くらいだよ。両親は定年を過ぎているし、猫はねえ……」
「あら、猫ちゃんにスーツ? それもそれで素敵だわね」
「あはは、でも無理だよ。猫はスーツなんて着ないもん」
私たちはふたたび笑い合う。
昼休みも、もう終わりだ。
*
その日、夕方に仕事を終えた私は、例の割引券をかばんにしまって職場を出た。すっかり寒くなった街は、ぎらぎらしたネオンでうるさいくらいに飾られていた。年末近くまでこれが続くのかと思うと、私は少しうんざりしてしまう。にぎやかな大通りから駅に向かって足早に歩いていると、曲がり角にある洋品店が目に入る。ここは、あの割引券の店だ。ショーウィンドウに几帳面に飾られたスーツが、ネオンの光にわずかに照らされている。
「ふうん……」
このレディーススーツ、ちょっとかっこいい。
入ってみようかな。スーツなんて、ほとんど着ないけど。
「いらっしゃいませー」
きれいに磨かれた自動ドアをくぐると、店の奥から元気のいい声がする。私はラックに掛けられた大量のスーツを視界に捉えながら、婦人物のコーナーを探して店内を進んだ。店内はさして広くなく、目的のコーナーはまもなく見つかった。新品の服特有のにおいに飾られたそれは、店の右奥の方に控えめに展開されている。きっとこの店には、男性客の方が多いのだろう。まあ、一般的な洋品店の客層には詳しくないから、よそと比較してどうこう言えたわけではないのだけれど。
店内にいる客は、どうやら私だけのようだ。
「本日は、何かお探しでしょうか?」
何気なく商品棚を眺めていると、店員に声を掛けられた。こうなることは予想していたのだが、いざ話しかけられると慌ててしまう。私はきょろきょろと周囲を見回し、適当なコーナーを指し示した。
「ああ、ええっと、あの、シャ、シャツを……」
と、私はそこで気付く。周りをいくら見ても、声の主ーー店員の姿が見あたらないことに。
「シャツですね。かしこまりました」
私の違和感を放置して、店員の声は続く。どこだ。どこにいる? 私がきょろきょろしても、人影はない。
「お客様、どうかなさいましたか?」
私の態度に、店員(の声)が怪訝そうに尋ねる。あれ、この声、妙に。
「ああ、ええ、何でもない、」
下というか、足下から聞こえてくるような……。
「です……」
そこで私はようやく気付く。私が話していた相手が、足下にたたずむ上品な三毛猫だったということに。
「左様でございますか。では、どのようなシャツをお求めでしょうか? 人間向けの商品は、こちらの一角になります」
店員、もとい三毛猫店員は、目の前の商品棚にぴょいと飛び乗る。彼女は長い毛足をゆらゆらさせながら、ビニールに包まれたシャツのたぐいを前足で示した。そこには色とりどりの、ごく一般的な男性用、女性用の商品が並べられている。しかし、シャツコーナーの広さの割には、品数は決して多くなかった。私はさりげなく周囲を見渡して、おそるおそる三毛猫店員に尋ねてみる。
もしや。
「ちなみに、これ以外の商品は……?」
まさか。
「ああ、そのほかは犬や猫といった毛皮向け商品となります。もしお友達の毛皮さんにプレゼントするのであれば、商品のご紹介もできますが」
……やっぱり。
「うーんと……人間向け、でいいです」
私は三毛猫店員の厚意を丁重にお断りした。彼女はにこりと営業スマイルを見せると、いくつかの商品をおすすめしてくれた。元々買うつもりで来たわけでもないため、ほどほどのところで彼女には元の持ち場に戻ってもらおうと思った。まあ、私が何かをするまでもなく、彼女はほかのお客に呼ばれてしまったのだが。
「申し訳ございません、人間のお客様。本日はにぎわっておりまして」
「ああ、いいえ、構いません。あとはひとりで大丈夫ですので」
と、私の言葉を受けた三毛猫店員はぺこりと頭を下げ、美しい四つ足で声のする方へと駆けていったのだった。私は彼女の後ろ姿を見ながら、ふと考える。
今日はお店が盛況である。確かに、さっきから複数の話し声が私の耳に届いている。
しかし、私以外の人間の姿を見かけない。
ということは。
「ねえ、お姉さん」
腕を組んでそんなことを考えているうち、私は誰かから声を掛けられた。声の出どころは、またもや足下からだ。慌てて目線を落とすと、そこには艶やかな毛並みをした黒猫が佇んでいた。
「あたしのスーツを見繕ってくれないかしら」
ちょっと年齢のいったように見える黒猫は、甘ったるい声で私に話しかける。しかも、ウインクまでしちゃって。緑色の宝石のような不思議な魅力にあらがえるはずもなく、私は彼女に連れられてスーツ……『毛皮向け』スーツコーナーに向かった。そこに並んだ様々なスタイルのスーツを手に、私は黒猫をモデルとしたファッションショーを楽しむことになったのだった。しかし、当然ながら毛皮用のスーツなど選んだことがない私は、例の三毛猫店員の力も借りながら何とか黒猫の彼女に似合うスーツを選び出した。
「うーん、ありがとう。人間さん。あなたいいセンスしてるのね。もしかして、あたしたちの同族と一緒に住んでるヒト?」
「ああ、ええ。実家で両親が雄猫を飼って……いや、同居していて」
「なるほどねえ、どうりで。あたしのわがままに付き合ってくれてありがとうね」
黒猫はペロリと舌を出すと、スーツに取り付けられていた札を抱えて満足そうにレジの方へと消えていった。どうやら店内に掛かっているスーツは試着用の見本で、猫たちはあの札を実際の商品と引き替えるらしい。彼女の足取りはうきうきとご機嫌で、見ているこちらまでうれしくなってしまうほどだった。
「なんか、妙なことになったけど……喜んでもらえたならよかった、かな?」
黒猫を見送った私は、ひとまず人間用のシャツコーナーに戻ることにした。その道中、私は昼間のことを思い出していた。そういえば、私は昼間鈴木さんに、
「ねえ、そこの人間さん!」
「は、はい?」
今度は、威勢のいいハチワレ模様の白黒猫が現れた。
「あなた、いいセンスしてるらしいじゃない。こっちの服も見てよ」
「え、ああ、はぁ……」
このカラカラと笑う猫さんに引っ張られてからは、まさに怒濤の展開だった。
「僕の縞模様にはこの色が合うと思うんだ。君はどう思う?」
「これ、肩幅がぴったりしすぎていないかな……」
「今度、野良猫組合との集会に着ていくスーツを探しているの。どれがいいかなあ」
「実は今度、同居人の娘の結婚式があってね」
私は、私の評判を聞きつけたという毛皮客に次から次へと引っ張り回され、店内にいるあらゆる猫たちのフィッティングを手伝うことになったのだ。自分自身、特に服飾のセンスがあると思ったことはないのだけれど。戸惑いながらふと視線を上げると、あの黒猫が階段の上から私に笑顔を向けていた。また、ウインク。どうやら彼女が、ご機嫌調子のままに噂を広めたらしい。
「ああもう、どうしてこんなことに……」
私はもはや、店内の猫たちが人間のように喋ることも、当たり前のようにスーツを着こなすことも、まったく不思議に思わなくなっていた。
そうだ。
猫は、スーツを、着るのだ。
「お姉さん、こっちもー!」
「ああ、はい、すぐに行きますからー!」
昼間の自分の認識をあらためつつ、私は私を呼ぶ声の方に向かう。気がつけば、この奇妙な状況をどこか楽しんでいる自分がいた。
「本当にありがとうございました。店員みたいなことさせちゃって、ごめんなさいね」
ようやくすべての毛皮客から解放された私は、三毛猫店員に人間用シャツの会計をしてもらいながら大きく息をついていた。頭と身体はすっかりくたくたになっていたが、その疲労感は心地の良いものだった。三毛猫店員は、せめてものお礼と言ってシャツを半額にしてくれた。少しだけ申し訳なく思ったが、彼女の厚意を無碍にするのも失礼なので、私はその言葉に素直に甘えることにした。
「また来てくださいね」
三毛猫店員に見送られ、私は不思議な洋品店を出た。その後、どうやって家に帰っていったのかはよく覚えていない。あの現実離れした出来事がすべて夢だったような気持ちさえしたが、自宅のクローゼットにあの日買った青いシャツが入っている。つまり、きっとあれは真実だったのだろう。少なくとも、私の中では。
私はほんのりとマタタビのにおいがするシャツに顔をうずめてから、実家に帰省するための身支度を再開した。そうして自宅の戸締まりをし、新幹線に飛び乗り、何時間かを掛けて久々の生家に向かうのだった。
実家に帰るとさっそく、玄関で猫が出迎えをしてくれた。決して私になついているわけではないけれど、彼はいつもこうやって出迎えをしてくれる、たいへんに律儀な猫だった。
私は靴を脱ぐと、玄関先で猫に向かい合うようにして正座をした。そして手提げ鞄から財布を取りだし、あの日使わなかった洋品店の割引券を猫の前に置いた。
「私は、あなたたちを誤解しておりました」
そのまま、三つ指をついて猫に深々と頭を下げる。
「大変、失礼いたしました」
「……」
猫は黙っている。そう、元来彼はおとなしい猫だ。私が頭を上げようとすると、肩のところに不意に柔らかいものが置かれた。ほんのり温かくて、小さな面積のそれ。どうやら目の前の彼の肉球のようだ。
「ま、解ればいいってことよ」
猫は、満足そうににゃあと鳴いた。