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エピソード0 栞子先輩はラブコメがお下手(前編)



 《異世界帰りの栞子先輩》と言えば、校内でも有名な変人である。

 

 だがこのあだ名は、一体誰が最初に言い始めたのだろうか。


 第三学年C組所属の留年生。

 そして文芸部の部長。


 少なくとも彼女が昨年度、半年間の無断欠席を行なったのは事実である。

 何せその長期欠席せいで留年するハメになったのだから。

 だが異世界帰りとは、随分と大きく出たものである。

 

 確かに半年後に戻ってきた栞子先輩は、まるで人が変わったようであった。

 かつての彼女は、三つ編みと眼鏡が似合うたおやかな文芸部員だった。

 だが半年間の後に現れた栞子先輩は、鋭利な刃物であった。

 丸眼鏡の奥で輝く、氷のように冷徹な瞳。

 猫科肉食獣を思わせる、しなやかな体躯。

 何よりも隙が無かった。

 廊下を歩く際には、誰も寄せつけぬ殺気を放ち。

 体育で着替える際は、うーうー唸りながら必ず壁を背にして服を脱いだ。

 何人たりとも近づくことを許さない、まるで孤高の一匹狼。 

 半年前の大人しい文学少女とは、明らかに纏う空気が違っていた。



 だが人間やはり近づき難いものにこそ、逆に惹かれるのだろうか。

 愚かにもそんな彼女の尻を撫でようとした、不埒な体育教師がいた。


 結果的に言うと、彼は半殺しにされた。


 ソフトボールの時間であった。

 ボールを拾おうとした栞子先輩の尻に、後ろから手を伸ばしたのである。

 だが彼の手がショートパンツに触れる直前、すでに栞子先輩の後ろ回し蹴りは彼の顔面にめり込んでいた。そしてふらついた教師の足をローキックで蹴り抜くと、そのままマウントを取ってセクハラ体育教師の顔面を殴り始めたのだった。

 その光景を見ていたクラスメイトは、しかし止めに入れなかったという。

 返り血を浴びながら、ぐちゃり、ぐちゃりとマウントパンチを落とし続ける女子高生の姿はあまりに鮮烈であったからだ。

 セクハラ体育教師は両腕で顔を庇っていたが、栞子先輩の拳は彼のガードを易々とすり抜け何度も顔面に突き刺さった。フルスイングのパンチが落ちるたび、彼は『おげぇっ』とか『ひぎぃっ』とか悲鳴をあげて全身を引きつらせていた。体重100キロを越すガタイと、体罰寸前の指導で恐れられた体育教師であった。しかし一方的に蹂躙されるその姿は、まるでライオンに襲われた小鹿であった。捕らわれた小鹿は生きたまま肉を喰いちぎられ、その度に全身を小さく痙攣させていた。

 止めに入るのが遅れたクラスメイト達も悪かったが、五人がかりで引き剥がした頃もう体育教師は二度とステーキが食えないアゴになっていた。

 そして無理矢理引き剥がされた栞子先輩は、吐き捨てるようにこう叫んだ。


『勝手にっ……勝手にオレのカラダに触るなっ』


 無論、セクハラ体育教師に向けたセリフであったが、クラスメイト達は慌てて彼女の腕から手を離していた。



 もともとその体育教師が幾多のセクハラをしていたことが明るみに出て、栞子先輩は比較的軽い処分で済んだ。被害に遭っていた女子達は、むしろ栞子先輩を陰ながら賞賛したぐらいだった。

 だが一方で男子生徒達は、体育教師にやや同情的であった。

 体育の時間に見せる、栞子先輩のショートパンツ姿。高い腰の位置からすらりと長く伸びた脚と、服の上からでも分かる引き締まり上を向いたヒップ。その美しい後ろ姿に惹かれてしまうのは、オスの悲しいサガとして十分理解出来たからだ。


 しかしその『セクハラ体育教師返り討ちの変』、そして文芸部取り潰しを巡って起きた『血の読書週間事件』を経て、栞子先輩にスケべな視線を向ける者など校内に誰一人としていなくなった。

 彼女が校内一の危険人物であることを、誰もが思い知ったからである。 


 人々は口々に恐れ、嘆いた。

 あの温和で物静かな先輩は……ファンタジーと幻想文学を愛したあの栞子先輩はどこに行ってしまったのか。いったい彼女の身に何があったのか。

 その疑問に対して、当初は無数の噂が溢れた。


『ロアナプラ帰りらしい。向こうで死体運びのバイトをしていたと聞いた』

『いや、イタリアマフィアに入団してボスの座をめぐる抗争に参加したそうだ』

『違うぞ。マフィアではなくそれを取り締まる方だ。公安の裏組織に雇われて、五共和国派のテロ組織を追っていたらしい』

『取り締まる? 殺すんじゃなくて? 銃をわたされて殺し屋の訓練をしたって』

『違う違う。アフリカだよ。あっちで非合法のトレジャーハンターをしてたんだ』

『そうなのか? てっきりシカゴでヤクの売人を……』


 無数の噂が溢れ、そして淘汰されていった。

 だが最後に収束した、ただ一つの噂。

 それは噂された中でも、最も荒唐無稽なものであった。



『栞子先輩は異世界に行ってきたらしい』



 誰もそんなハナシ信じちゃいない。

 もちろん主人公である霧島聖也だって、全然信じてはいなかった。


 だが……ただ一つ、そう聞いて聖也は気になることがあった。

 先輩がアレを読んでいないのである。


 そもそも栞子先輩から見れば、聖也は文芸部の後輩である。

 当然ながら、栞子先輩が読書する姿を見る機会は多い。

 だが最近栞子先輩が、めっきりファンタジー小説を読まないのである。

 かつてはあれほど読み漁っていた、ファンタジー小説をだ。


「飽きた……のかな?」


 そう考えてみるも、妙に納得がいかない。

 そのことが妙に聖也の心に引っかかっていた。

 

 


      ●       ●



 そんな噂の栞子先輩に。

 ある日の放課後、聖也は突然耳を噛まれていた。


「ひへぇっ!?」


 思わず悲鳴を挙げてしまっていた。

 当然だろう。いくら相手が美人の先輩だろうと、なんの脈絡もなくそんな事されれば恐怖が先に立つ。

 相手があの『栞子先輩』ならなおさらである。

 だがその当の犯人は、そうは思わなかったようだった。


「……なんだ……もしかして初めてか?」


 聖也の反応を見て薄く笑うと、栞子先輩はペロリと唇を湿らせた。

 桜色の唇が、艶やかに濡れるのが見えた。


「心配するな……初めてでも、ちゃんと『良く』してやるよ……」

「ひィっ」


 聖也は悲鳴をあげた。

 本当にワケが分からない展開だった。



 つい五分前まで、二人は文芸部員としてごく普通の部活動をしていた。部員全員で文芸誌制作会議をして、読書感想会をして……それから各自解散になって……。

 部室には最後、雑用をするため聖也と栞子先輩だけが残っていた。

 だが二人きりになったところで、栞子先輩が声をかけて来たのである。


「なあ、霧島」

「はっ、はい……なんでしょう……」


 名を呼ばれて、霧島聖也は少しばかり身をこわばらせた。

 彼もまた、最近のこの先輩が苦手だったからだ。

 黒髪を太い二本の三つ編みにして、分厚い丸眼鏡をかけたこの先輩。見た目だけならごく普通の文学少女だが、聖也は何より彼女の瞳が苦手であった。

 厚いレンズの向こう側に潜む、まるで猟犬のように鋭い瞳。

 目付きが悪いなどというレベルではない。『カタギ』な生き方をしていたら、まずこんな目にはならないだろう凶相であった。

 凶悪脱獄犯か……あるいは猟奇殺人鬼か……ともかくドブの底を這って生きて来たアウトローのような、そんな危険な目をしているのだ。

 先輩のそんな恐ろしい視線に射すくめられ、聖也は乾いた声で答える。


「ど、どうしました……」


 すると先輩は、低い声でボソリと答えた、


「お前にさ……まだちゃんと礼をしてないよな」

「れ、れ、れれ礼ですか!?」


 聖也は震え上がる。

 礼とは……いったい……いったい何の仕返しをしようと言うのか!?

 いったいいつの間に、このオッソロシイ先輩の機嫌を損ねてしまったのか。


「ちょっ、いや、そのっ、俺、何かしてしまいましたっけ」


 冷や汗まみれで問い返す聖也に、栞子先輩は冷酷な薄笑いを浮かべた。


「……吹くなよ……廃部騒ぎの件だよ……」


 低いハスキーボイスで、先輩は呟く。好きな人にとってはタマらなく艶っぽい声かもしれないが、今の聖也にはドスの効いた声にしか思えない。


「ははは、廃部騒動ですかっ、た、確かにワタクシといたしましては、出過ぎた真似をしてしまいましたがっ、けっ決して栞子先輩の部長としての立場を軽んじたわけではなくっ」


 確かに先月の文芸部廃部騒動こと『血の読書週間事件』では、聖也が活躍をしたのは事実だった。酷く『直接的な手段』にて廃部を回避しようとした部長の栞子先輩が警察沙汰になりかけた一方で、聖也の活動は運良く実を結び廃部案件は解決となっていた。

 だが万事丸く収まったはずの廃部騒動が、まさか栞子先輩との間に禍根を残しているとは思わなかったのだ。確かに、部長の頭越しに事件を解決してしまったのである。見方によっては、彼女の顔を大いに潰したことになりかねない……。


「けけ、決してそんな、栞子先輩のお顔に泥を塗ろうなどとはっ」

「知ってるよ、ンなこと……」


 ボソリと囁くように口にすると、栞子先輩は不意に席を立つ。

 そして部室の出入り口に近づくと、

 ガチャリ、とカギをかけた。


「ひっ」


 聖也はビクリと身を震わせる。

 見たことがある……マフィア映画で見たことがある雰囲気だった。

 裏切りがバレた三下が、地下室で拷問される流れである。

 これでもうこの部室は密室。ただでさえ部活棟の奥で人通りが少ないのに、これでは悲鳴をあげたところで誰も助けに来ない。

 この密室で、先輩はいったいどんな『お礼』をしようというのか。

 ガクガクと震えたまま立ち上がれない聖也に向かって、栞子先輩はゆっくりと歩み寄ってくる。


「だから、礼をしてやろうって言ってンだよ……」


 そう言いながら彼女は、カチャリと眼鏡を外した。奈落のようにドス黒い瞳が現れる。今やそれを見た学園の誰もかもを震え上がらせる凶眼である。

 聖也も、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。


「ちょっとぐらい……まだ時間あんだろ……?」


 先輩はそう言いながら、今度は三つ編みを纏めるリボンに指をかけたのだった。

 しゅるり、と音を立てて紫色のリボンがほどける。

 リボンを解いただけで、結い上げた三つ編みはスルスルと解けていった。彼女がその髪に手ぐしを通すと、波うつような髪がふわりと舞った。

 女の髪の甘い匂いが、聖也の鼻をくすぐる


「は……え……?」


 聖也が混乱するうちに、彼女が次に手をかけたのはブラウスのボタンだった。


 プツリ……プツリ……。


 首元からゆっくりとボタンを外していく。


 三つめ、四つめ……。


 人前で外しちゃダメなところまでボタンを外して、栞子先輩はやっと手を止めた。だがすでにブラウスの胸元から、乳白色の谷間が見えてしまっていた。それに大人びた黒レースのブラもだ。

 聖也は慌てて目線を落とす。

 だが白い肌と黒下着のコントラストが、完全に目に焼き付いてしまった。

 とても高級そうな、大人の女が身につける黒下着だった。


「ど、ど、ど……どうしたんですか急にっ」


 混乱する聖也の問いかけに、先輩は答えない。

 彼女は黙ったまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 胸を見ないように聖也が目を落としたその先。スカートと太ももだけが見える視界の中で、彼女はさらに右のウエストに手を伸ばしていた。

 

 プチン。


 スカートのホックが外れる音。

 それを外しただけで、引き締まったウエストからはスカートが落ちた。


 ぱさっ。


 わずかな音とともに、床に制服のスカートが落ちる。

 その結果として露わになるソレを、聖也は見てしまった。

 いくら恐ろしい先輩のソレとは言え、それ見るチャンスを逃すなど男子高校生に出来るはずもなかった。むしろしっかり見て……そして見惚れてしまった。

 ブラウスの裾から垣間見えたのは、上と揃いの黒レースの下着だった。最低限の女の部分を、今にも透けそうな黒シルクで覆った下着。太ももの部分でレース布は黒いリボンになり、腰の左右で可愛らしく結ばれていた。

 大人の女でもなかなか着こなせない、エロく優美な下着であった。

 その下着を、栞子先輩は当然のように着こなしていた。


「せ、せ、せ、先輩、ど、どうしたんですかっ」


 一瞬見惚れた後で、聖也は慌てて声をあげる。

 だがもう手遅れだった。

 栞子先輩はスカートで隠していた美脚を、まるで見せつけるようにして聖也の太ももの上に乗せた。そして彼女はそのまま優雅な身のこなしで、彼の太ももの上に横座りで腰をかけた。

 栞子先輩の恐ろしい瞳が、聖也の目の前に迫る。

わずか数センチの距離を残して、見つめ合う形になってしまった。


「し……栞子先輩……」


 聖也の声がだんだんと小さくなる。

 きめ細かい肌も、筋が通った小鼻も、桜色のふっくらとした唇も。

 全てが目の前にあった。

 あれほど恐ろしかった瞳すら、こうして見ると黒瑪瑙オニキスのような漆黒の美しさを湛えていた。


「お、お、お、お礼って……どういう……」


 辛うじて冷静を保とうとする聖也に、先輩は答えなかった。

 代わりに彼女は黙ったまま、


 ふっ


 小さな吐息を、聖也の唇に吹きかけた。

 たわ言を抜かす後輩の唇を、まるでたしなめるように。

 爽やかなミントのようでどこか甘い、フルーティな香り。

 美しい先輩は、その吐息さえも完璧だった。

 そして栞子先輩はゆっくりとその両手を、聖也の首にまわす。

 彼の首を抱きしめるようにして、耳元に桜色の唇を近づけていく。

 

「文芸部を助けてくれた礼に……気持ちいいことしてやるよ……」


 吐息混じりのハスキーボイスが、聖也の耳をくすぐった。


 ぞくぞくぞくぞくっ。


 聖也の背筋を、寒気とも快楽ともつかない衝動が走り抜けていった。

 ワケがわからない。全くワケが分からない。

 なぜ自分は栞子先輩にこんなことをされているのか。

 そして……。

 

「あ……」


 聖也は、小さく声を漏らす。


 彼は栞子先輩に、耳を噛まれたのだった。

 

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