第二話
第二話
「恋瑠!どこだ!」
その大男は野太い声で叫んだ。料理中に突然土足で入ってきた男にチコは不愉快そうに眉を寄せた。男は紗椰の髪の毛を鷲掴みにして、引き摺っている。紗椰は鼻血を出して泣いている。
「料理中なんですけど。土足って酷くない?」
愛らしいエプロン姿のチコは怒ってはいたが、男のことを怖がる素振りは無い。
「どこに匿っている!恋瑠を出せ!」
全く話の通じない相手にチコは肩をすくめて天井を見上げる。大男と紗椰は息を呑む。チコの手には大きな鉈が握られており、血が滴っていた。チコのエプロンには血が飛び散っており、彼女の頬にも血が付いている。そして、背後の壁には猟銃が掛けられていた。
「あたしの事を女だって軽く見てる?あなた強いつもりかも知れないけど、熊の方が強いわ。あたしはもっとよ。」
一瞬男は怯んだが、直ぐに下品な笑みを浮かべた。紗椰を平手で打った。紗椰は悲鳴を上げる。助けて助けてと叫ぶ。
「うるせえ!恋瑠を出せや!こいつをぶっ殺すぞ!恋瑠をどこにやった!」
「恋瑠さんはこの宿に居るし、紗椰さんを叩いても何も解決しない。馬鹿じゃないの。」
大男はかっとなって、紗椰を放り出し、チコに掴みかかった。チコは鉈を振り下ろす。躊躇は無かった。ごん。と鈍い音がして、鉈は大男の頭の半分までめり込んだ。チコが手を離すと大男は倒れ込み、動かなくなった。再び静かな夏の夜が戻った。紗椰は信じられなかった。殺した?チコちゃんが?殺したの?ほんとに?鹿や猪にするように?嘘でしょ?
「も少し待っててね。紗椰さん。一品目をグリルしてるところ。頭丸ごとグリルしてるから少し時間かかるかも。ねえ。これ見て。」
チコはにいっと魅惑的な唇を歪めて笑った。目の前の調理台に乗っている肉を手の平でぺたんぺたんと叩いた。紗椰は何かに操られるように立ち上がり、キッチンを除きこんだ。それはもも肉のように見えた。豚の腿だろうか。腿の部分だけが切り取られ、巨大なまな板に乗せられている。なんだろう?紗椰は違和感を覚える。切り口が凄く赤い。豚肉はもっとピンク色のはずだ。でもこの腿肉は牛肉よりも赤く見える。気のせいだろうか?それに皮膚がとても滑らかで白い。豚はもっと荒い体毛があるはずだ。紗椰は腹の底で何ががぶくぶくも泡立つのを感じた。美味しそうでしょ?チコはぺたんぺたんと肉を叩くその度に腿肉はぷるんぷるんと揺れる。
「さっき食べたやつは冷凍した肉だったけどこれは今シメタとこだから味が全然違うよ。すぐ、料理するから一緒に食べてね。」
紗椰は頭の中がどくんどくんと脈打ち、胃袋が泡立って喉にせり上がるのを感じた。それは何の肉なの?大男を殺したの?恋瑠はどこに居るの?グリル中の頭部?そもそもさっき食べた肉は誰の何だったの?頭の中で何がが連鎖した。紗椰は吐いた。先程食べた真っ赤な肉がどろどろと溢れ出して更に気持ち悪くなって吐く。泣きながら吐いた。紗椰はそのまま四つん這いで厨房から、この訳の分からない世界から逃げ出そうとした。チコの言葉が思い出される……固めで筋張っているけど味わい深い肉と、柔らかくでとろけるように甘い肉とどっちが良い?……固めの肉を選択したら、誰がどうなったんだろう?ああ、あたしはさっき何を食べたの?今吐き出したのは何肉?何をグリルしてるの?
「ねえ?何処行くの?戻って来て。」
不機嫌そうなチコの声がかかる。今の紗椰には怒鳴り声に聞こえた。チコは大きなフォークを弄びながら、話す。紗椰は恐怖で前にも後ろにも進めない。
「一緒に食べてくれるって言ったじゃん。食べようよ。甘くて美味しいよ。ねぇ。あたしいつも一人で狩りをして食べてるの。美味しいんだけど、物足りない。この喜びを分かち合いたいの。命を呑み込む快感を。ねぇ。いいでしょ?食べようよ。恋瑠を。」
紗椰は叫んだ。限界だった。頭を掻き毟り奇声を発した。叫びながらありとあらゆる液体を垂れ流した。チコはため息を付く。大男から鉈を取り外し、不機嫌そうにチコに近づく。叫び続ける紗椰を見下ろして、鉈を振り下ろした。反射的に上げた右腕に鉈がめり込む。鉈は骨で止まった。染みるような鉈の熱さに悲鳴が大きくなる。チコは鉈を引き剥がし、振り上げる。
「死んじゃうよ。そんなことしたら。」
ひかりが言った。チコは驚いて視線を上げる。華奢で美しいひかりが厨房の入口に立っていた。白くきめの細かい肌が美しい。美味しそうだな、とチコは思った。鉈を放り投げた。歩み寄り、血塗れの両手でひかりの頬を包む。
「たまには男も良いかもね。ね?食べていい?」
「駄目だよ。」
表情を変えないひかりを見て、チコは赤くふっくらとした唇でうふふと笑う。指を彼の身体に這わせながら、下げていき、彼の指と絡めた。そして、ひかりの手を自身の太腿をに当てる。ひかりはびくんとなった。チコの身体は燃えるように熱かった。ひかりの目は見開かれ、鼓動が速まる。
「じゃあ、あたしの事を好きにしていいわ。そのあと、あたしもあなたを好きにするから。ね?」
ひかりは返事が出来なかった。とっくに無くなったと思い込んでいた欲望が身体の中を脈打っている。チコはそれを見透かしてひかりの手を自身の身体に押し付ける。ひかりの手を誘導していく。太腿から付け根へ、臍を通って腰から背中、脇を潜って豊かな胸をすくい上げる。鎖骨、首、頬。二人の瞳が絡む。ひかりは身体中が心臓になり血の熱い熱い拍動以外、何も感じられなくなった。チコの唇が近づく。ひかりは我慢できずに受け入れようとするが、チコの唇は遠ざかる。赤くうふふと笑う。口を開き黒く長く大きい舌で自身の唇や歯を舐めた。チコの歯はギザギザに加工されていた。美しい唇に不気味な舌と残酷な歯。赤と黒と白。視覚的精神的なコントラストが明確で目眩が起こる。ひかりは手を解き、チコの腰に回した。チコが唇を薄く開く。ひかりは身体を寄せて、チコに顔を近づけた。柔らかな唇を求めて、チコは舌を出したがひかりの顔は横に逸れた。ひかりはチコの首筋にキスをした。チコの身体に沁みるような快感が走った。思わず声が漏れる。
「ああ。いい……あ。い、いいいいいいいいいいいいいいいいイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイいいいいいいいいいいいいいいいイーーーーーー
チコの吐息は、突然、ケトルの笛のような奇声に変わった。彼女の首筋からは大量の血が溢れでいる。それと共に肉感的な彼女の身体は萎んで干からびひび割れた。ドサリ、と床に崩れ落ちる。ひかりはペロリと口元を舐めた。
「罪人の血は熱く濃く、美味しいんだ。」
老婆のように干からびたチコにひかりは言った。長い犬歯がぬらりとひかる。チコは突然現れて消えてしまった快感を探したが見つからず、代わりに鼓膜を掻きむしるような不快な悲鳴と身体中を針で刺される痛みを発見した。それは時に強く時に弱くでも決して無くならなかった。チコは身動き一つ取れず、悲鳴と痛みに蹂躙される。チコは落ちていった。二度と這い上がれない場所へ。
「ソウイウコトだから。死は。終わらないよ。それは。」
紗椰は瞬きも出来ずに出来事を眺めていた。右腕が熱い。胃から何がが溢れ続けている。夜は膨張して歪んでいる。紗椰はスイッチが切れてしまった。ブレーカーが落ちたのかも知れない。何が起こったんだろうか?何が起こっているのだろうか?分からない。理解したくない。ひかりは干涸らびたチコを踏み付けながら自身の唇に右手を当ててキスを投げるように掌を開く。そうっと息を吹く。掌に小さな地球儀のような燃える玉が現れる。それはひかりの息を受けて火の粉を散らす。血塗れで悪臭を放つ厨房の隅々まで炎の粒子が踊り舞う。灯がともった。燃え上がり、光が踊る。
「九つの王玉の一つなんだ、これ。何でもできるよ。黒猫、知らないかな?りんくすって言う名前らしいんだけどさ。何でも知ってるって言うから、訊きたい事があって。」
紗椰は最初、ひかりが誰に話しかけているのかわからなかったが、ゆっくりと自分に話しかけていることに気が付いた。当たり前だ。他はみんな死んだ。紗椰は何も考えられなかった。口が勝手に言葉を零す。
「知らない。猫なんて。ねぇ?火事になっちゃったよ。逃げなきゃ。ねぇ、助けて。血が止まらなくて。ねぇ、立てないの。助けて。」
ひかりは紗椰を見下ろす。赤い瞳が燃えていた。ひかりの影は膨張して揺らぐ。赤い赤い唇から鉄のような言葉が流れ出す。固く冷たく、滑らかだった。
「罪人の血は熱くて美味しいんだ。以前はよく唆して悪人の血を滾らせて、燃えるようなそれを飲んだよ。とっても美味しかった。でも、飽きちゃったんだ。恐怖に濁る血も美味しいんだ。知ってた?でも、それも。僕は長く生き過ぎたんだと思う。不死だから仕方ないけど。百万人の血を飲んで、一千万を殺した。一億を巻き込んで来たかも知れない。だから、もう、飽きたんだ。血は飲めば飲むほど飲まれて溺れるんだ。だから、飲まない事にしてたんだけどね。何て言うか、引き寄せるみたい。血や死や狂気を。まあ、良いけど。暇だから。ねえ、りんくすを知らないかな?何でも知ってる猫なんだって。僕、りんくすに教えて貰おうと想ってるんだ。僕は何なのか?どうして生き続けるのかを。この命に何の意味があるのかってさ。」
ああ。駄目だ。狂ってる。紗椰は理解した。世界は広く暗い。ここは狂ってる。火は踊り炎が立ち上がる。震える声で紗椰は語る。
「ひかり、逃げなきゃ。あたし達死んじゃう。ねぇ、助けて。」
ひかりはにっこりと笑った。
「もう死んでるよ。人の肉食べたでしょ?魂はもう死んでるよ。」
何がが爆発して、紗椰の背中に突き刺ささり、引き裂いた。身体を突き破ったものはオーブンの扉で、恋瑠の頭部がころころ転がった。遠くから響いて来た鼓膜を掻きむしるような悲鳴はすぐに紗椰を覆い尽くし、身体の中から針で刺される苦痛が脈打った。気が狂いそうだと思った瞬間にそれは弱まり、助かったと思ったら、また膨れ上がった。そこには光も匂いも無く、ただ、悲鳴と痛み。
「終わらないよ。それは。永久に続くから。」
暗闇の中、鼓膜を掻きむしるような悲鳴と針の苦痛に溺れる紗椰にひかりは見えない。ただ、音だけが。
「安心して、紗椰。みんなそうなるから。ヒトは死ぬとそうなるから。音と痛み。ただそれだけの世界へ旅立つんだ。みんなそうなるから。闇に溺れるんだ。」
罪人の血を飲み魔力が溢れ出したひかりは膨らみ盛り上がって燃え上がる闇となった。牙と翼と爪と角。その巨大な背中で旅館の屋根を押し破り、瓦を落として、彼は飛び上がる。夜の半分を覆う。月が揺らぎ、星々は掻き消される。彼が飛び去ったその後、沢山の人が殺されて食べられたそこは燃えていた。燃え上がり、消えようとしていた。紗椰には何も見えず、ただ、悲鳴と痛み。ひかりの声が落ちてくる。
「みんなそうなるから。ね?安心でしょ。」
◆
闇がうねり羽ばたいた。鳥も獣も超越したその闇は悠々と夜を渡る。闇が起こした焦げるような熱風は木々をなぎ倒し、森が燃えた。先程まで歌っていた夜の生き物たちは死んだ。何も鳴かない。古い古い民家を改修した宿は炭となり消えた。最悪なこの闇に呑まれたのだ。そして今、闇は立ち去り、じっとりとした夏の夜気だけが、森の底を泳いでいる。




