ミラーハウス''
鏡が割れて、佐藤C'さんの頭が割れました。のうみそが、ぴたぴたと飛び散って佐藤C''さんの顔に張り付きます。うわあと叫んで、佐藤C''さんはお尻をつき、後ずさります。自分が割った頭から流れ出た血だまりで、佐藤C''さんはぬるぬると泳いでいました。
なんだか、奇妙だなと思いました。
佐藤C'さんと、佐藤C''さん。まったくの同じ顔。どうして名前がわかるのか。どうして「'」と「''」の見分けがつくのか。それもたしかに奇妙ではありますが、どちらかというと些細な問題です。
わたしが奇妙だと感じたのは――
「どうして、佐藤C'さんの頭を割ったんですか?」
わたしは、佐藤C''さんにたずねました。
――そうです。なぜ殺したのでしょう。
目を開くと、佐藤C''さんが佐藤C'さんの頭をかち割って殺害していたのです。すでに事切れている佐藤C'さんと、真っ青な顔で遺体を凝視して震えている佐藤C''さん。同じ顔をしたものを殺害する動機に、わたしは瞬時に思い至れませんでした。
「わ、わからないです。たぶん、わが身が大事なあまり……」
佐藤C''さんの声は、歯の根が合わず、おかしいくらいに震えていました。
震えるほどに恐ろしいのなら、どうして佐藤C'さんの頭を割ったのでしょうか。そして、それがどうして佐藤C''さんを大事にすることに繋がるのでしょうか。わからないのに、理解できないのに、どうして佐藤C''さんは佐藤C'さんの頭の中身を撒いて、そのなかで不恰好な水泳を披露したのでしょうか。それをたずねても、きっと、わからないと答えるのでしょう。
わたしは、佐藤C''さんは思考を停止した馬鹿なんだと思いました。
「変なことを聞くんだな。むしろ、どうしてお前は割らない?」
ずたずたに引き裂かれ、ないぞうを垂らした木村B'さんを引きずりながら木村B''さんが現れました。
木村B''さんは、かなりのノッポです。天井から垂れ下がるクビツリ人形を鬱陶しそうに払いのけて、木村B''さんがもう一度たずねます。
「お前は殺さないのか?」
「わかりません」
わたしは答えました。
理由がない。殺す理由がわからない。
木村B''さんは怪訝な顔をして、押し黙りました。わたしの口から出るべき言葉も、他にはありません。三者三様に黙るものだから、えもいわれぬ沈黙がその場に流れました。
木村B''さんは、佐藤C''さんよりも慣れているのか、血やのうみその破片を見ても動じることはありません。
とぎれとぎれの照明と、息もたえだえの愉快な音楽があたりを満たしています。ときおりクビツリ人形がぴょんぴょん跳ねて、ぐええと奇妙な声を上げます。
「変な奴だな」
やがて、木村B''さんはつぶやいて、木村B'さんを引きずったまま立ち去りました。その際、不注意から透明なガラスに正面衝突してしまった木村B''さんは、ぶつけた額をおさえながら悪態をつきます。
「鏡に透明なガラス混ぜやがって、鬱陶しいな!」
そして、そのままガラスに頭を突っ込みました。ばりんと割れたガラスは、断頭台さながらに木村B''さんの首を刎ねます。下部が崩れたことにより、支えを失ったガラスが上から木村B''さんの首に落ちたのです。
「まったく、おれは注意力散漫だな。それに気付けたおれは、ラッキーだ」
下卑た笑いを抑えもせず、木村B'''さんが木村B''さんの返り血を浴びています。
悪態をつく木村B''さんの頭をうしろからガラスに叩きつけたのは、木村B'''さんでした。それから、彼は木村B'さんの遺体を拾い上げ、ぼろぼろのそれで残りのガラスを叩き割ります。最後に、木村B''さんの遺体へ向けて、木村B'さんの遺体を投げつけました。血煙をあげて折り重なる同じ顔の遺体。弾みで転がってきた木村B''さんの頭を蹴り飛ばして、木村B'''さんは、わたしと、相変わらず尻餅をついている佐藤C''さんに向き直ります。
「お前らが、なにをどうしようと勝手だ。でも、おれの邪魔はするな」
「は、はい」
佐藤C''さんは、か細い声で応じたあと、這いずるようにして視界から消えてしまいました。とても情けない後姿でした。木村B'''さんも、逃げた佐藤C''さんを追いかけたりすることも、それ以上わたしに構うこともなく、どこへともなく去っていきました。
「さて……」
どうしたものでしょう。
それからしばらく、わたしは考えを巡らせていました。この鏡とガラスの世界はなんでしょう。彼らはどうして殺し合うのでしょう。
ところが、いくら首をひねっても、脊椎を損傷しそうなほどひねっても、なにひとつ閃きませんでした。この場所が遊園地などに設置されている鏡の迷路――ミラーハウスの類であることくらいしか思い付きません。
思考を働かせていても、わたしは馬鹿なんだと思い至りました。佐藤C''さんを馬鹿だと言ったわたしもまた、馬鹿でした。佐藤C''さんを見て、自分でも知らなかった馬鹿なわたしを発見してしまったのです。
「あら?」
そんなとき、のうみそを撒き散らせて死んでいた佐藤C'さんと、ないぞうを引っさげた木村B'さん。そして、首とお別れした木村B''さんが、もぞもぞと動き始めました。
ぎゃあと、わたしは叫んだ気がします。首のない木村B''さんがお尻を上にあげて、わたしに見せつけるように振っていたのが気持ち悪かったからです。
「うわっ。なんですか、これは!?」
佐藤C'''さんが、目を覚ますなり叫びました。血とのうみその破片にまみれた床を見て驚いたのです。目を覚ましたら、あたり一面が血まみれ地獄。無理もありません。
佐藤C'さんは、佐藤C'''さんとして蘇りました。木村B'さんは木村B''さんとして、木村B''さんは木村B''''さんとして、同じく蘇りました。
「お前、おれか?」
「お前こそ……、おれだな?」
木村B''さんと木村B''''さんは、互いに拳をたたきつけ、足に噛みつき、指で目玉をえぐり、殺し合いを始めました。まるで、自分たちの成すべきことは殺し合うことだと一瞬で理解したかのような有様です。
一方、佐藤C'''さんは、天井から下がるクビツリ人形に動転して気を失っていました。あまりにも頼りない佐藤C群を見ていると、かわいそうになってきて、すこし同情してしまいます。
「佐藤C'''さん、起きてください。逃げましょう」
わたしは、痩せぎすな佐藤C'''さんの頬を叩きます。なかなか起きないので、すこし強く叩きました。それでも目を覚まさないので、さらに力を込めて引っぱたきました。弧をえがいて復路をゆく手の甲が、もういちど佐藤C'''さんの反対の頬を叩きます。
ばちんばちんと、なんども叩きます。
佐藤C'''さんの長髪が、右へ左へと流れます。鬱陶しいそれを、わたしは額の頂点あたりで鷲掴みにして、なおも佐藤C'''さんの頬を叩き続けました。
「起きなさい。佐藤C'''」
わたしの口調はだんだんきつくなりました。
引っぱたく手を握りこぶしに変えたところで、うしろで争っていた木村B群の二人が、ぐちゃぐちゃになった体でわたしを見ていることに気が付きました。
彼らはわたしにどん引きしているようですが、木村B''''さんの股間をかじり取っている木村B''さんに、むしろわたしのほうがどん引きです。
「おい、佐藤C'''」
木村B群を無視し、わたしは佐藤C'''さんに呼びかけますが、やはり反応は返ってきません。
佐藤C'''さんは、涎をたらし、白目をむいて笑顔のまま気絶しています。いつのまに笑顔に変わったのでしょうか。わたしは気付けませんでした。
赤く腫れあがった佐藤C'''さんの頬と、じーんと熱を持つ自分の手のひらとを交互に見て、わたしの喉が鳴りました。馬乗りになっていたお尻を持ち上げ、わたしは佐藤C'''さんから離れます。ガラスか鏡かわからないけれど、とにかく後退して背をあずけました。
「き、き。……きもちわるい」
わたしは思わず呟いていました。
股間をかじり取られた木村B''''さんは、激しい尿のように血を噴出させ、いつのまにか絶命していました。木村B''さんも、かじり取ったもので窒息したのかなんなのか、折り重なるようにして絶命しています。木村B''さんの目玉は、片方だけ取れて床に転がっていました。
「そんな目で見ないでください」
明滅する照明と、雑音だらけの音楽。殺し合いの果て、折り重なって死んだ同じ顔の遺体と、股を開いて笑顔で気絶しているヘンタイ。そんな血みどろの空間で、ぴょんぴょんとクビツリ人形が跳ねています。球体関節がぐりぐりと動いて、奇抜なダンスを踊っていました。ぐええ、ぐええと相変わらずの奇声も発して、かくんかくんと顎をスライドさせています。
「本当にきもちわるい」
ここは、地獄でしょうか。
◇
一日以上経過したでしょうか。外の見えないこの場所では、時間の感覚は非常に曖昧です。たったの数時間かも知れませんし、数日かも知れません。
あれから、気絶したままお漏らしをした佐藤C'''さんを見るなり、わたしはその場を離れました。しかし、彼らの様子は気になります。なるべく彼らを見失わないよう、ゆっくりあたりを確認しながら、すこしだけ距離をとりました。
この場所は、天井も壁もほとんどがガラスか鏡でできています。気を抜けば鏡に映った自分に驚くし、透明なガラスに顔をぶつけます。だから、あまり動きたくなかったわたしは、鏡の壁がだいたい九十度の角度で接している隅っこを背に座り、あたりを睨みつけて過ごしていました。
股間をかじり取って相打ちになった木村B群は、すぐには蘇りませんでした。かなりの時間を要して、木村B''''さんは木村B''さんとして、木村B''さんは木村B''''さんとして蘇りました。
いまは、佐藤C'''さんと木村B''さんが、二人でなにやら話し込んでいます。木村B''''さんはというと、木村B''さんを見るなり逃走してしまいました。
現在、わたしの視界には、佐藤C'''さんと木村B''さんの二人だけが映っています。正確を期すなら、複雑に反射した自分自身もわたしの目に映っていました。身じろぎをすると、いくつものわたしが同じ動きをします。佐藤C'''さんと木村B''さんも同様です。
このまま、ここでじっとしているわけにはいかない。なにひとつ、状況に合点のいかないわたしですが、なぜだか、それだけは理解できるのです。
木村B群は互いに殺し合いました。まるで、そうすることが当然であるかのようでした。また、佐藤C''さんも佐藤C'さんを殺しました。わからないと言いつつも、自分を守るためだと同じ顔を殺しました。
一度死んで蘇ってもなお、それは変わらないようでした。
「あ、あの。相談があります」
「おい、こっち来い。加虐趣味のヘンタイ女!」
佐藤C'''さんと木村B''さんが大きな声を出しました。ちょうど思考にふけっていたところなので、そのような大声は不快です。目を閉じ、口をつぐんで、耳をふさげば置物になれます。外界の一切を遮断して、他人の一切を遮断して、わたしは自分ひとりになろうとしました。
しかし、閉じかけた目に映ったのは、下を向いて重力に引かれた緩い頬。うつむいた、わたしの顔でした。折りたたんでいた足で鏡に映る顔を踏みつけ、わたしは慌てて目をつむりました。
底抜けに陽気で気味の悪い音楽と、ぐええというクビツリ人形の奇声と、ぎらぎらとした青白い照明は、どうにか薄れました。
「おい、コラ!」
「あ、危ないですよ。木村B''さん」
類似どもの大声が聞こえ、ついで激しい衝突音が聞こえました。おおかた、しびれをきらした木村B''さんが不用意に動いて壁にぶつかったのでしょう。間抜けですね。胸がすきます。
頭をひとふり、わたしは危うく散漫になりかけた集中力を引き戻して、自己に埋没しました。
そこで見たものは、感じたものは、わたしでした。わたし以外の外的情報を遮断しようとしたら、とうぜん残るのはわたし以外にありません。
だというのに、いったいどうしたことでしょう。わたしの中で見つけたわたしは、わたしではなかったのです。
わたしが思い描いていた自分自身――『わたし』は、そこには存在しなかったのです。じんじんと熱がぶりかえす手のひらに、胸が切なくなるわたしなど、わたしではなかったはずなのです。わたしは、そんなヘンタイさんではないのです。そのはずだったのです。
いまここで、目と口と耳を閉じている自分を、『わたし』に類似した、わたし'とするならば、自分の中に潜んでいたものは、『わたし』と、わたし'に類似した、わたし''ということになります。
――『わたし』に類似した、わたし'。『わたし』と、わたし'に類似した、わたし''。それら類似品の発見が、外界を遮断して行った自己探索の結果でした。
わたし'は、はたと気が付きました。探さなければならないのです。成らなければならないのです。まことなる形。完全無欠で唯一無二のわたし。わたし'は、わたしを探して、わたしに成らなければならないのです。
類似からの脱却。それが、このミラーハウスで取るべき行動の指針であり、最終目標というこになるのでしょう。
きっと、木村B''さんも、佐藤C'''さんも、それは同じなのでしょう。ですから、類似品を破壊するのでしょう。自分を守るために、自分こそが私であるのだと、主張するのでしょう。
わたし'は腕を下ろし、目を開き、顔を上げ、近くに立っているであろう反射している二人を睨み、口を開きました。
「わたし'は、わたしに成りたいです」
それで伝わるのか不安でしたが、木村B''さんは、当然のごとく頷きました。
「そんなことは、蘇った直後でも知ってる。前回、変な死に方したんじゃねえのか、お前」
どうやら、このミラーハウスの住人ならば、理解していて当然のことであったようです。
「そうでしたか……。佐藤C'''さんも、知っていましたか?」
「は、はい。そうですね。そして、そのことで相談があるんです」
佐藤C'''さんが、赤面してもじもじとわたし'を見つめてくるので、いやらしい気持ちがむくりと起き上がりました。やはり、わたしはわたしの知らなかったわたしです。わたし'です。
「相談とは、なんですか?」
いやらしい気持ちを振り払うように自らの頬をぶってから、わたし'は本題を促しました。
「なんなんだよ。きもちわるいな、この女。真顔で急に自分の顔たたくなよ」
「ま、まあまあ。はは……」
自分の股間を食いちぎって窒息死した男に、変な死に方だの気持ち悪い女などと言われたくはありませんでした。
「まず、おれたちは四人しかいない。木村B'から木村B''''までだ」
「たぶん、体はただの入れ物で、名前はただの記号だと思います」
四つの体に、様々な『その人』が出入りしているということでしょうか。
股間をもがれて死んだ木村B''''が収まっていた入れ物が修復され、別の木村Bの類似――現在の木村B''が収まっている。そうなれば、体や名前など、ほんとうにただの入れ物と記号です。
「股間の件にこだわりすぎだろ」
「股間は置いておいて、そういうことなんだと思います。ちょっと、頭が混乱してきますね」
「入れ物それ自体と、記号なんてどうでもいいんだよ。のうみそ働かせるべきはそこじゃない。要は、入れ物が四つしかねえってことだ」
「はい。恐ろしい発想ですが……」
「つまり、おれが他の木村B群を常に殺し続ければいいってことだ」
ひええと、わたし'は悲鳴を上げました。木村B''さんの誇らしげな顔が気持ち悪かったからです。
「失礼……。殺し続けて、それでどうなるんでしょう?」
木村B''さんはイラっとした様子でしたが、わたしは構わず質問を投げかけました。
彼らは蘇ってもすぐに、我が意を得たりと殺し合いを始めました。このミラーハウスにおいては常識なのでしょう。他の類似を殺し尽くすだけでなく、常に殺し尽くしたとして、それで、どうなるというのでしょうか。わたし'が、わたしに成れるとでもいうのでしょうか。
「イデアの鏡に入れるのは、ひとりだけなんです。だから、他の類似は殺すしかないんです。ほんとうの自分に成るために」
「なるほど。わかりませんが理解しました」
「なら、問題ないな。イデアの鏡はミラーハウス''にある。ここと同じだけど違う類似のミラーハウスだ。他の木村B群を殺し続けるのを手伝ってくれ。おれは他のお前を殺し続けるのを手伝う」
イデアの鏡というものに入れば、類似ではない完全無欠にして唯一無二の私に成れる。それはもう、そうだと思うほかないとして、試みるほかないとして、いったいどうやって他の類似を殺し続けるのでしょうか。
「吊り下げるには事欠かないだろ、このミラーハウスは」
木村B''さんの得意顔に呼応して、ぐええと奇声を発したのは、わたし'であったでしょうか、それとも、吊り下がるクビツリ人形であったでしょうか。
ともあれ、木村B''さんの案は、なかなかの名案に思えました。
◇
わたしたち類似の群れは、鏡張りの細い廊下に出ました。コンクリートの床にはペンキのようなもので、『「'」「''」』と記されています。わたしが立っているほうに「'」、向こう側に「''」。つまり、わたし'はいままで、「'」なる場所にいたのです。
廊下の向こうには、なんら変わらぬ鏡だらけの場所が見えます。あそこが、ミラーハウス''なのでしょう。
「ここまでで、他の人に遭遇しませんでしたね……」
「運が良いのか悪いのか、普段は腐るほど類似だらけなのにな」
佐藤C'''さんと木村B''さんの話を聞いていて、このミラーハウスには様々な人の類似がひしめいているのだと理解しました。おそらく、ミラーハウスも相応の数があるのでしょう。ところで――、
「どうして、入れ物は四つだけなんでしょうか?」
「知らん」
木村B''さんは、にべもなく答えました。
「このミラーハウスが許容できる人数が、ひとりあたり四人の類似までなんじゃないでしょうか」
佐藤C'''さんは、そう律儀に答えてくださいました。
「なんだそれ。わかりません、って言ってるようなもんじゃねえか。お前の感想なんざ聞いてねえよ、能無しが」
「こればかりは木村B''さんに同意します。佐藤C'''さんは、お馬鹿C'''と名乗ってください」
わたし'と木村B''さんがそれぞれに罵倒すると、「あっあっ」と気色悪い声を上げて佐藤C'''さんは赤面していきます。どうぞ、そのまま死んでください。
そうしているうちに、わたしたちは異臭に気が付きました。鼻をつんざくような悪臭です。これには、思わず全員えずいてしまいました。ミラーハウス''に入った直後でした。
「これから、我々はこれを量産しようというわけですね……」
わたし'の言葉には誰も反応せず、目前で醜態をさらしているそれを黙って見つめていました。
それは、延々と死に続け、汚物を垂れ流し続ける生きた屍でした。ぐええ、ぐええと奇妙な声を発し、首をかきむしり、くたっと静かになったかと思えば、糞尿を漏らす佐藤C群の入れ物が、首を吊っていたのです。
「うっ……。これは、自殺……ですか?」
佐藤C'''さんの台詞には根拠がありました。クビツリ佐藤Cの背後には、血液で書いたと思われる赤茶けた文字がありました。
“もういやだ いちぬけた”
気持ちは痛いほどに理解できました。同じ顔同士が殺し合うミラーハウスなど、悪い夢です。地獄です。しかし、知ってか知らずか、首を吊って自害したことにより、延々と死に続け、この地獄に醜悪な花を添えることになってしまったのです。
「くせえ……。手間が省けたろ。さっさと離れようぜ」
「これも、ここで自殺を選択した佐藤Cも、自分なんだと思うと、すこし……なんというか――」
佐藤C'''さんの言葉は途切れました。
目の前で脱力していたクビツリ佐藤Cが、長髪の奥の瞳に生気を宿したのです。びくんと体に力が入り、わけもわからぬまま、地に着かぬ足をバタつかせて暴れ始めました。ぐええ、ぐええという奇声が、もはや悲しみを誘う歌にさえ聞こえてきます。
「行きましょう。イデアの鏡へ」
「はい」
「おう」
わたし'は二人を促し、先を急ぎます。佐藤C群はあと二人。木村B群はあと三人。吊らねばならぬ首が多すぎます。
わたしはこんなにも冷酷に誰かを殺そうと決意できるものだったのでしょうか。不意にそんなことを思いました。これもまた、わたしの知らないわたし――わたしの類似であるのでしょう。それらすべてを包括した最強のわたし。わたし'は、わたしを求めます。
決意も新たに、クビツリ佐藤Cを捨て置き、先へと進もうとした我ら類似パーティ。しかし、ぬるっと木村B''さんの鏡像が動きました。クビツリ佐藤Cの前で突っ立っていて気付くことができなかったのです。
木村B''さんの鏡像だと思っていたそれは、木村B'''さんでした。尻ポケットから鏡の破片を取り出した木村B'''さんは、瞬く間に木村B''さんの眼孔に破片を差し入れました。
木村B''さんは絶叫を上げ、木村B'''さんに掴みかかりました。二人はもつれ合いながら転がっていきます。切れの悪い老人の尿のように、木村B''さんの眼孔から血が噴出しています。獣のような声を上げて木村B''さんは木村B'''さんに噛みつき、血みどろの乱闘が始まってしまいました。もはや、どちらかが股間をかじり取るまで終わりそうにありません。
「木村B''さんには申し訳ないですが、先を急ぎましょう」
「え。あ……。は、はい!」
わたし'は佐藤C'''さんの腕を引き、不意の衝突を和らげるため、腕を前方に掲げながら足早にその場を去りました。
あとひとり。あとひとつです。
あとひとつの佐藤C群の入れ物を見つけることができれば、わたし'はわたしに成ることができるのです。完全無欠にして唯一のわたし。数多のわたしの雛形。わたしの根源。すべてのわたしを包括した最強のわたし。イデアのわたし。
便宜上、それをイデアの佐藤Cとでも呼びましょうか。わたし'は、類似の佐藤Cをこのミラーハウスで殺し続け、イデアの佐藤Cとなるのです。
木村B群など、知ったことではありません。また股間をかじり合って死ねばいいのです。
◇
あのとき逃げた佐藤C''を吊り下げ、いまわたし'を先導している被虐趣味のヘンタイ佐藤C'''を吊り下げ、わたし'――佐藤C''''は、イデアの佐藤Cとなるのです。
「着きました。これが、イデアの鏡です」
「これ、ですか。ガラスに見えますけど……」
佐藤C'''が、イデアの鏡だと指し示したガラス。その向こう側に、月明かりに照らされた遊園地のような場所が、かすかに見てとれました。
「知識として与えられてるだけだと思うので、自信を持って言えるわけではないんですけど、これがイデアの鏡だと思います。向こう側からは、鏡に見えるんです」
「マジックミラーというやつでしょうか」
イデアの鏡に入れるのは群の中でひとりだけ。
入れ物のひとつは、首尾よく首吊り自殺。
もうひとつは、被虐面を引っさげてここに。
さらにもうひとつは、加虐面を引っさげてここに。
問題は、最後のひとつです。わたし'が入れ物に入ったとき、佐藤C''''となったとき、佐藤C'の頭を割った佐藤C''です。
ひとまず、彼女を探し出して天井に括らねばなりません。
「あ、あの……」
佐藤C'''さんが、もじもじと赤面し始めました。
「どうしました? 声が小さいですよ」
「す、すみません。ずっと気付いていたことがあって、でも……その、言い出すタイミングを計りかねて……」
「いけない子ですね。もしかして、怒られたくてわざとそうしたんですか? さあ、怒りませんから言ってみてください」
「あっ……、そんな。は、はい。ありがとうございます。その……、こいつ――」
言うが否か、佐藤C'''さんは鏡の中に腕を突き入れました。くぐもった声が漏れ聞こえ、あちこちで鏡像が一斉に動きました。数多の反射でいくつもの鏡像があるミラーハウスとはいえ、元である佐藤C群は二人なのです。ゆえに、三種類の鏡像が入り乱れるというのは、有り得ないことです。
驚くわたし'の鏡像。血を吐いてくず折れる佐藤Cの鏡像。いつから隠し持っていたのか、木村B'''さん同様に鏡の破片を握り締め、なんどもなんども佐藤Cに突き入れる佐藤C'''さんの鏡像。
ミラーハウスに満たされる佐藤Cの類似どもによる狂乱。わたし'は笑っていたでしょうか。わかりません。いやらしく口角を上げて笑っている鏡像は、わたし'なのか佐藤C'''さんなのか。
いずれにせよ、佐藤C'''さんも、やはり、わたし'の類似でありました。なんの躊躇もなく、佐藤Cさんをめった刺しにしたのです。自分の手が破片で傷つくことなどお構いなしに、ちからいっぱいの凶刃をふるっていました。
「こいつ、ずっと付いて来てました。こっそり、なにかを窺うように。たぶん、わたしのことが羨ましかったんだと思います」
佐藤C'''さんは、こぼれ落ちた内臓を引っ張り、佐藤C''さんを床に転がしました。バケツをひっくり返したような血だまりで、佐藤C''さんは血の泡を吹いてヒクついています。
もはや、イデアの佐藤Cは目前です。
「いい子ね。偉いですよ。あとでご褒美をあげましょう。ですが、もうすこしだけ頑張ってもらえますか?」
「はい! はい、もちろんです! ありがとうございます!」
それから、わたし'と佐藤C'''さんは、天井からぶら下がっているクビツリ人形を下ろし、代わりに佐藤C''さんを括り付けました。痩せぎすの女とはいえ、人ひとりの体重を抱えて吊るすのは重労働でした。けれど、その達成感たるや格別なものがありました。
血液やら内臓やら肉片やら、なんだかよくわからない分泌液やらにまみれ、わたしたちは悪魔のような様相で、互いに微笑み合いました。
「やりましたね、佐藤C''''さん」
「ええ、あとすこしですね、佐藤C'''さん」
わたし'は、佐藤C'''さんの頭をやさしく撫でながら、彼女の首に縄をかけました。解放されたクビツリ人形は、足元で球体間接をぐりぐりと動かして、奇声を発しています。
「ありがとうございます。ありがとうございます……!」
佐藤C'''さんは感謝の言葉を垂れ流し、むせび泣きました。なんて可愛らしいのでしょう。惜しむべきは、これもわたしであるということでしょう。同じ顔を見ていると、なんだか複雑な気分になって完全に没頭することができません。
いえ、いまは贅沢なことを言うときではありません。わたし'がイデアの佐藤Cとなるために、佐藤C'''さんが惜しみなく注いでくれた労力に報いるときです。
「さあ、佐藤C'''さん。どうぞ、首を吊って死んでください。ここで見ていてあげますね」
「はい……! わたしが死ぬところ、見ていてください! で、では、失礼します」
健気にも謝罪をして、佐藤C'''さんはわたし'の肩を踏み台にして、天井に縄を括りつけました。いま思えば、あのとき見つけたクビツリ佐藤Cも、こうして誰かに手伝ってもらったのでしょう。
「いいですか? 佐藤C'''さん」
「はい。お願いします!」
わたし'は佐藤C'''さんの返事を聞き、するりと体を外しました。ぴんと突っ張った縄と、ぴんと伸びたつま先。みしみしと軋む骨と肉の音。文字にできぬ嬌声をあげて、佐藤C'''さんの顔はうっ血していきました。
血走った目でわたし'を見つめながら、精一杯の微笑を浮かべた佐藤C'''さんは、なにごとか言葉を発しようとしていました。
「ぐええ……」
「なんですか? ちゃんと言ってください」
わたし'は、ヒクついている佐藤C'''さんのふくらはぎをさすり、末期の言葉を促します。彼女は白目をむき、涙と鼻水と涎を滝のように流していました。
「頑張りなさい。ほら。なんですか?」
「ぎ……っ! ぎ、ぎもぢいい、でず……!」
「わー。最悪の辞世ですね。素敵です」
飛び切りの笑顔で見送ったわたし'は、同じく飛び切りの笑顔で吊り下がる佐藤C'''さんに別れを告げ、イデアの鏡に向き直りました。
わたし'が、佐藤C群の最後の生き残り。佐藤C'''はすでに事切れ、その隣でぶら下がる別の佐藤C群の入れ物は、損傷が激しすぎるのか未だ息を吹き返しません。もうひとつは、ここから離れた場所に下がっているので、確認のしようはありませんが、なんとかなるでしょう。だって、ずっと死に続けるのですから、そのうちタイミングは訪れます。
心配事があるとすれば、縄にどれほどの耐久力があるのか不明だということくらいでしょうか。しかし、それもわたし'がイデアの鏡に入るまで、余裕で持ちこたえてくれるでしょう。根拠などないですが、いまは最高の気分ですので、仕方がないのです。
「ああ、ついにわたし'は、わたしと成るんです!」
いまとなっては、雑音だらけの陽気な音楽も、奇声をあげるクビツリ人形も、明るすぎる青白い照明も、すべてが、わたし'がイデアの佐藤Cと成ることを賛美しているように思えてきます。
さようなら、グロテスクな万華鏡。ありがとう。わたし'は、わたしに成ります。これより、わたし'は、イデアの佐藤Cと相成りましょう。
◇
正直に言いますと、がっかりしました。
先ほどまでの万華鏡もかくやというミラーハウスは、もうありません。割れたガラスや鏡が散乱する、暗く朽ち果てた廃屋です。わたし'は、イデアの鏡に飛び込み、あのミラーハウスをついに脱出したのです。
「佐藤さん、大丈夫?」
「はい、平気です。多少の落ち込みはありますが、気分はよいほうです」
見知らぬ女の子二人に声をかけられました。邪険にする理由もなく、わたし'は微笑んだのですが、二人は怪訝な顔をします。
「え……、ホントに佐藤さんだよね?」
「はい、そうです」
わたし'は、紛う方なし佐藤です。
「え。うそだ。おまえ誰だ……!」
ずっと沈黙してわたし'を観察していたもうひとりが、つばを飛ばして罵倒してきました。お前は佐藤ではないと。
しかしながら、わたし'は思うのです。この二人に、佐藤のなにがわかるのだろうかと。前の佐藤のことも、二人はちゃんと理解していたと自信を持って言えるのでしょうか。
たとえば、二人と佐藤の間柄が、薄いガラス一枚隔てただけの至近距離にあったとして。そこに顔を引っ付けて瞳の奥を覗き込むほどの間柄であったとして。それでも、佐藤と二人の間には、薄いガラス一枚の隔たりがあるのです。
わたし'ですら、わたしを完璧に理解しているとは言いがたいのです。これほどまでに、わたしが加虐的であったとは。あれほどまでに、わたしが被虐的であったとは。つゆ知らず。お恥ずかしい。
わたし'でさえ、こんな有様であるにもかかわらず、お前は佐藤じゃないなどと、自信を持って言えるのでしょうか。わたしの知っている佐藤はそんなんじゃない、などと。
いえ――。
「ま、待って……。やっぱ変だよね?」
「うん。やばい。絶対やばいよ、これ!」
――そうです。彼女たちは、間違いなく佐藤を理解しているのです。いまここにいる佐藤は、佐藤ではないと、完璧に理解しているのです。その確固たる根拠でもって、わたし'を否定しているのです。
つまり、二人の頭の中にだけ存在する佐藤なのです。言うなれば、類似の佐藤です。佐藤''と、佐藤'''です。それらとわたし'を比べて、違うのだと主張しているのです。
二人の主張を、否定できるはずもありませんでした。わたし'は見てきたのです。多くの佐藤Cの類似たちの、その多彩さを。
ああ。ほんとうに、がっかりしました。
だって、このわたしは、やはり佐藤'なのですから。完全無欠にして唯一無二の佐藤は、ここにも存在しません。そこにも、あそこにも、いるのは類似の佐藤ばかり。あの地獄のようなミラーハウスとなんら変わりなかったのです。
戻るも地獄。進むも地獄。同じミラーハウスです。したらば、わたしは進みましょう。このミラーハウスのごとき世間を歩みましょう。完全無欠の唯一無二を探しながら。無理だと知ってなお近付こうと足掻きながら。イデアのわたしに対して譲歩と妥協を繰り返し、わたしは生きましょう。
「あの噂。ミラーハウスに入ったら別人になって出てくるってやつ。マジだったんじゃ」
「あんたが行ってみようなんていうから……。佐藤がおかしくなっちゃったよ!」
混乱している様子の二人を見すえ、わたしは、まるでミラーハウスを慎重に進むがごとく、言葉を投げかけました。ガラスの迷路を進むように、鏡合わせの互いを見るように、届きそうで絶対に届かない関係を築きましょう。薄いガラス越しのあつい友情でさえ、はじまりの一言があるのです。
「はじめまして。佐藤と申します」
――おわり――