初体験
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す。
流と呼ばれる打刀が、心を持ち、人の形に変化できるようになったのはいつからか。
随分と昔のことのようでもあるし、つい最近とも思えてしまう。
流自身は、いつからの自分が自分なのかなんて、全く気にしていない。
憶えているのは、道場の風景。
弟子達が稽古を受け、強くなっていく様や。
師が自己を研鑽していく様を。
流は、長い間、眺めていた。
付喪神は、その本体に蓄積されし想念から意志を持つ。
染みついた想念は個体によってバラバラで、同じ道具でも全く別の心を持つこともざらである。
流の場合は、直接使われることがなく、ただずっと飾り付けられていたので。
――強くなりたい。
――強くしてやりたい。
道場で自他の技を磨き続ける者達の想念が、蓄積していた。
故に、流は“強くなりたい”という気持ちに共感しやすく、
そう思う者を“強くしてやりたい”と考える。
流に積み重ねられたのは百年余にも渡る、技の向上への試行錯誤。
一度も“刀として”使われたことがないのに、技術はこれ以上ないくらい詰め込まれている。
それは、とても歪なこと。
歪な有り様は、その魂をも歪めてしまう。
故に、流は付喪神としては“問題児”だった。
「――私に指図するな!」
「ふん、弱い奴の言うことなんか聞く気ないからね!」
「料理? 刀にそんなことやらせるな!」
何かあれば文句ばかり。
ずっと祭り上げられていたからか、自分は他の付喪神とは違う、特別なもの、と思い込んでいた。
ぎゃあぎゃあ喚く新参者は、他の付喪神には失笑の的であっただろう。
ただ、誰もそれを表立って非難しなかったのは、
――流が、こと武術においてのみ、かなりの腕前を有していたからだろう。
怪異の優れた妖怪なら兎も角、研修に来ているような成り立ての付喪神では流に対抗するのは難しい。
郁夫の両親――浦辺家の当代も、知人の道場から預かった奉納刀なので強く当たれず。
結果、まるで餓鬼大将のように、流はふんぞり返っていた。
郁夫と出会ったのは、そんなとき。
分家へ修業に出ていたため、流が来てからの数ヶ月は顔を合わせていなかった。
そのころの郁夫はまだ小学生で、あどけなさも多分に残っていた。
郁夫が家に帰ってきて、最初に目にしたのは、意味もなく強がってる流だった。
両親から状況を聞いていたため、郁夫はそれほど驚くこともなく。
とりあえず顔合わせを済ませ、その場は収まろうとしたのだが。
流の尊大な態度に少しばかり苛立った郁夫は。
修行を終えたばかりで、少なからず気が強くなっていたので。
――お前、チワワみたいだな。
――きゃんきゃん吠えて、疲れないのか?
などと、真っ正面から挑発していた。
そして。
郁夫は半殺しにされた。
退魔の術を学んでいたとはいえ、郁夫は当時小学生である。
単純な取っ組み合いでは、流の方が圧倒的に強かった。
しかも当時の流は、精一杯お山の大将を気取っていて、手加減する心の余裕など皆無だった。
郁夫は全身の骨を砕かれて。
最後の最後で、
瞳術を、使ってしまった。
命すら危ぶまれていた状況だったので、全力で。
浦辺の家に伝わる秘奥を、変化し始めたばかりの幼い付喪神に、叩き込んでいた。
郁夫自身が未熟だったこともあり。
また、こんな子どもが、と流は完全に油断していた。
結果、加減など皆無な眼力に晒され、流は半ば消滅しかけた。
最終的には。
郁夫も流も生死の境を彷徨う、研修制度始まって以来の大惨事となってしまった。
そして、再び顔を合わせたときから。
流の態度は、変化し始めていた。
回復に努めていた間は、自分を消しかけた童に対して恨み辛みを抱いていたが。
再び顔を合わせて、郁夫の瞳を見た瞬間。
流は、今までの流では、いられなくなっていた。
その瞳に消されかけた、という恐怖と。
瞳そのものの、吸い込まれそうな深さに。
どきどきした。
以後、まともに顔を合わせることができず。
会うたびに顔を真っ赤にして、そっぽを向いて会話していた。
郁夫本人に「もう瞳術はかけねーよ。悪かったって」と言われることも多々あったが。
慣れるまで、流は郁夫と顔を合わせることすら困難だった。
そんな状態だから当然、前のように強がるのも難しくなり。
いつしか流は、浦辺家の中で適応していった。
それと同時に。
郁夫に対して、暖かい気持ちも覚えていった。
「――べ、別に手伝わないとは言ってないでしょ!」
「いや、でもお前の今日の仕事は洗濯だろ? 無理に付き合わせる気はないって」
「わ、私だってお菓子作りに興味あるのよ! わ、悪い!?」
「……おはよう、ございます」
「!? ……変なもん食ったのか?」
「私が敬語使って何が悪いのよ! これでも、その、研修生なんだから……」
「そっか。流は偉いなあ。頭を撫でてやろう」
「い、いらないわよ! ……あ、え、行っちゃうの……?」
「剣を教えて欲しい?」
「ああ。流って達人並みなんだろ? よければ教えてくれよ」
「わ、私としては……その……構いませんが」
「よっし! 手加減抜きで頼むぜ! 会った頃みたいに半殺しは勘弁だけど」
「…………それを、言わないでください」
後にして思えば。
きっと、初めて瞳術をかけられた瞬間。
あのときから、流は郁夫の瞳に惚れていた。
自分は郁夫の物なのだと、強く思うようになっていた。
それから五年かけて培われた関係は。
きっと、軽いものではなく。
両者にとって、とても大事なものなのだと、流は信じていた。
――そう。5年前からずっと、郁夫のことを想っていた。
その想いは、他の付喪神に負ける気など欠片もなく。
付喪神だけでなく、人間相手だって負けない自信が、あった。
郁夫のためなら何でもできる。
道理や禁忌など知ったことか。
何よりも勝るのは、5年前に見せられた、あの瞳。
あれを独占できるのであれば、他に何を捨てても構わない。
郁夫に剣術を教える時間は、流にとっては至福の時だった。
しかし、指導には少なからず遠慮が入ってしまい、思い切って技を伝えられない。
本当は郁夫と心置きなく訓練をしたかった。
自分の全てを郁夫に伝え、これ以上ないくらい強くしてあげたかった。
しかし、最初に半殺しにしてしまった記憶が邪魔をして、今ひとつ指導に熱が入らない。
あれさえなければ、きっと郁夫と自分はこれ以上ないくらい仲良くなれていたはず。
そう思うたび、過去の自分をへし折ってしまいたくなる。
でも、そんなことは、時間が解決してくれるはずだった。
ゆっくりと、ゆっくりと、拗れたものを解していき、
並ぶ者がいないくらいの、理想の相棒同士になっていたはず。
なのに。
最近になって、五月蠅い虫が現れた。
包丁の付喪神、茅女。
無駄に長生きし、怪異だけ突出している付喪神。
確かにその能力は特別だが、そんなものに、自分と郁夫の関係は揺るがない。
そう、流は信じていた。
――年増が醜く擦り寄ろうとも、郁夫様は歯牙にもかけないはず。
あんな輩は、郁夫の道具には相応しくない。
はずなのに。
何故か郁夫は彼女を気にかけている。
殺されかけたにもかかわらず、そのお人好しさには呆れ返る。
初めのうちは、心配していなかった。
あんな包丁、研修生として気遣っているだけで、それ以上の筈がないと。
しかし、茅女が浦辺家に溶け込んでいくにつれ、その自信は、確かなものではなくなっていった。
――私は、ひょっとしたら、要らないのかもしれない。
冷静になって考えてみれば。
自分も茅女と同じように、最初会ったときに酷いことをしているのだ。
それを棚に上げて、何の根拠もない確信を必死に抱き続けて。
徐々に大きくなっていく不安に、耐えていた。
実際、茅女の持つ技術は、流ほどではないものの、教える分に不足はない。
それに何より、茅女は、強い。
教わる者の心理として、何より強い者に教わる方が心強いに違いない。
考えれば考えるほど。
凍り付いてしまいそうな恐怖に連日晒されて。
それでも、郁夫の一番を諦めきれなくて。
郁夫がどう思っているのか、知りたかった。
やっぱり自分を一番と思ってくれているのか。
それとも、包丁に負けたなまくら刀なんて不要と思っているのか。
後者の筈がないと何度自分に言い聞かせても。
弱虫の心はそれに頷かず、ただひたすら、震えて怯えるばかりだった。
だから。
郁夫は絶対に自分を見捨てない、という確信が欲しかった。
郁夫にとって自分は大事な物なのだという、証拠が欲しかった。
そこで思い出したのが、茅女の言葉。
初めて浦辺家に訪れて、とんでもない事件を起こした際に。
茅女は、黒間橘音の体を操りながら、こう言っていた。
『操ってみるとわかるものでな、この娘、この家――とくにヌシに忠誠を誓ってるようでの』
――操ってみると、わかる。
確かに、持ち手と自身の意志を直接繋ぐのだから、相手の考えていることも丸分かりになるだろう。
このまま悶々とし続けるより。
郁夫が何を望んでいるかを知った方がいいのかもしれない。
武器として一番が無理なら、他の一番を目指せばいい。
確かに刀として郁夫の側にずっといるのは、とろけそうなくらい魅力的だが。
それ以外で一番になるのも――悪くない。
そう。
たとえば、
許されるのなら、
人として、郁夫の一番を目指すのも。
どうするかは、郁夫の心次第だった。
道具として流を一番に思ってくれているのなら、それで良し。
でなければ、他の道を探ればいい。
大事なのは、郁夫とずっと一緒にいること。
刀の器に収まりきれないくらいの、溢れる想い。
それを受け止めてもらうのが、一番重要なのだから。
だから、確かめてみることにした。
邪魔の入らないよう、誰も来なさそうな場所に郁夫を連れ込んで。
郁夫の心を、確かめようと、した。
そして、郁夫の体を操って、心と心を繋げようとした。
瞬間。
付喪神として、持ち手を直接操るのが初めてだった流は。
見様見真似――というよりは、完全な手探り状態で。
郁夫と自分の心と心を、ダイレクトに、繋げてしまった。
結果、流の溢れんばかりの郁夫への想いが。
抑えつけられていた濁流の如く、郁夫に向かって流れ込んだ。
己が武器であることすら放棄させてしまう、膨大な流の想い。
精神制御の訓練を受けていた郁夫でも、悪意ではなく、純粋な好意の波なんて初めてだったので。
それは、耐えきれるレベルを明らかに逸脱していたため。
郁夫は、発狂した。
手に持つ流を滅茶苦茶に振り回し、
心が繋がっているため手放すこともできず、
兎に角楽になりたかった郁夫は、
躊躇無く、流の刀身を、己の胸に、突き立てようとした。
咄嗟に、郁夫の手元を操って、急所を外すことができたのは、奇跡以外の何物でもなかった。
それでも、突き刺す行動そのものを止めるのは難しく。
ずぶり、と。
流の刀身が、郁夫の胸に沈んでいった。
切先が胸の皮膚と筋肉を切り裂き。
肋骨の合間をすり抜けて。
奇跡的に、動脈や肺臓は傷つけず。
そのまま、半ばまで押し込められた。
隙間から鮮血が溢れ、下手に動かせば傷口が開いてしまう状況。
引き抜くだけでも、大惨事になりかねない。
また、上手く郁夫の体を操作することもできないので、流は動くことすらままならなかった。
冷たい刃先が、郁夫の肉に埋もれていた。
刀身に絡みつく血潮からは、郁夫の“命”を直接伝わってくる。
初めて味わう感触だった。
刺さってから、どれだけ時間が経ったのだろうか。
どうやってこの場所を察知したのか、茅女が小屋に訪れていた。
不思議なことに、その表情は怯えに染まっており、いつもの強気ななりは完全に隠れていた。
顔は青ざめ、ぶるぶると震えながら、郁夫と流を呆然と見つめていた。
しかし、流はその様子に訝しむことはなかった。
それどころではなかったのだ。
正直、茅女のことなど、この瞬間、流にとってはどうでもいいことだった。
郁夫の体を操っていたときより。
刀身を郁夫に埋め込んでいる今の方が。
明らかに、郁夫と、“繋がって”いた。
心と心が互いに触れるというより。
もはや、一方的な蹂躙だった。
裡より犯し、全てを飲み込む。
郁夫の方は、押し寄せる濁流に耐えきれず、完全に意識を途絶えさせていた。
故に、流の強姦はいつまでも続けられてしまった。
その快感は、幼い付喪神に耐えられるものではなく。
流は、初めて人を刺した感触に、陶酔していた。
とても、気持ちよかった。