夜這い
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕餉も終わり、自室でのんびり過ごす時間。
高校の宿題に今ひとつ集中できないので、畳の上に寝転がり、天井を見上げて思索に耽る。
茅女は卜部の一族に復讐心を抱いているが。
――それは、何故なのか。
寿命という概念の薄い妖怪とはいえ、400年も復讐心を抱き続けるなんて並じゃない。
途中で暴発することもなく、ただ淡々と、己の怪異を磨き続けてきた茅女。
その原動力が何なのか、気にならないと言えば嘘になる。
一応、瞳術のおかげで、今の茅女は無力化されている。
しかし、それは相性と不意打ちに依るところが大きく、次も通用するとは限らない。
現在、茅女はこちらに好意的な反応を示しているが、それが続く保証など何処にもない。
故に、大人しいうちに復讐心の出所を確かめ、それを何とかしなければならないのだが――
「だからって、“お前は何をそんなに恨んでるんだ?”なんて聞けねーっての」
ただ調伏されただけとも思えない。
茅女と過去の卜部家とは、絶対に何かあったはずだ。
400年も恨み続けて、その一族を根絶やしにしたいと思うほどの何か。
それを真っ正面から訊ねられるほどの胆力なんて、持ってない。
でも。
ひとつだけ、確信できることがある。
茅女は、悪い奴じゃない。
害意を掻き消された状態の茅女は、付喪神としては理想的とも言えるくらい、
純粋で、人間と共に在ることのできる妖怪だ。
桁外れな復讐心を考慮に入れなければ、何処かの小さな社で御神体として祀られてもおかしくない。
そんな茅女が、もうしばらくしたら、害意を取り戻し、復讐に走る悪鬼となるかもしれない。
――そんなのは、嫌だ。
「……やっぱ、覚悟を決めるしかないのかなあ」
いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。
こんな重要な問題、本当なら百戦錬磨の父親が担当すべきだと思うが、
茅女が最も懐いてるのが俺なのだから、ここはもう腹を括るしかない。
とりあえず、茅女と真面目な話をしよう。
そう思い、茅女の所に向かおうと起き上がったところで。
「失礼します」と、障子の向こうから声が届いた。
「……流?」
宿題中の俺に差し入れでも持ってきてくれたのだろうか。
しかし残念ながら、明日までの数学の課題は、一問たりとて解いていない。
根が真面目な流のことだ。ひょっとしたら、二三小言を頂くかもしれない。
ま、それは仕方ないか、と思ったが――
入ってきた流の手には、何も持たれていなかった。
あれ、と首を傾げてしまう。
夜も更けたこんな時間に流が俺の部屋に来るときは、
まず間違いなく、差し入れを持ってくるのが常である。
しかし、流の手に盆はなく、変わりにどこか思い詰めたような表情で。
流は、こちらに、歩み寄る。
心臓が一鼓動。
些細な違和感。
しかし、それが何なのかわからぬまま。
いつの間にか、俺は流の間合いの中にいた。
「……流?」
それは何故か訊ねるように。
足を伸ばした無防備な姿勢で、流を見上げて声をかけた。
「郁夫様」
聞き慣れた流の声。
込められている親愛の情も、乗せられた暖かみも、いつも通り。
鋭さとしなやかさを兼ね揃え、人肌の暖かみもある、そんな声。
少しだけ硬くなっているが、それは表情に釣られてのものだろうか。
「夜分遅くに申し訳ありません。ひとつ、伺いたいことがありまして」
「……ん。相談事か。別に構わないけど」
そう言って、とりあえずもてなそうと立ち上がり、
座布団を敷こうと、一瞬、探すために部屋の奥に視線を向け、
流から、目を、逸らした。
瞬間。
腕を取られ、振り向こうとしたときは既に遅く。
その場に押し倒され、顔を布のようなもので覆われた。
「な、流!?」
「申し訳ありません郁夫様。決して傷つけるつもりはありませんので、ご安心を」
淡々としたその口調は、流のものとは思えなかった。
――って、んなこと言われたって安心できるか!
あまりに突然のことすぎて、まともに思考が働かない。
そんな俺の混乱に乗じるように、流は手際よくこちらの動きを封じていく。
見えないので断言はできないが、おそらく帯か何かでこちらの手足を縛っている。
しかも、関節を外しても抜けられない角度だ。その念の入れように、背筋が冷たくなる。
狙いはわからない。
しかし、流は確実に。
俺を、拘束しようとしていた。
元々の技量差に加え、完全な不意打ちである。
こちらの抵抗などものともせず、僅か十数秒で、俺は完全に無力化されていた。
そして。
混乱も冷めぬまま、とにかく声を出そうとしたが。
とん、と後頭部に衝撃が走り。
意識はそのまま、闇の中へ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜もとっぷりと更けてきた頃。
鈍色の長髪が、気分よさげにひょこひょこと揺れていた。
――さて、郁夫は今頃、明日の準備も終えて寝るところかの。
廊下をひたひたと歩きながら。
茅女は向かう先にいるはずの少年へ、思いを馳せていた。
最近は、寝る前に郁夫をからかうのが、茅女の日課になっていた。
付喪神研修生としての日々にも慣れ、屋敷の他の存在とも、それなりに打ち解けてきた。
が、やはり茅女にとって一番大きな存在は、郁夫だった。
瞳術の縛りは、実のところほとんど抜けきっている。
その気になれば、好き勝手動くことも容易だろう。
それこそ、今すぐに復讐に走るのだって不可能じゃない。
しかし。
何故か茅女はその気になれず。
今日も今日とて、郁夫の部屋に向かっていた。
郁夫に見つめられたあの瞬間。
きっと、復讐に駆られた包丁の付喪神は、殺されたのだ。
残ったのは、人と共に在りたいと思っていた、無垢な日用品の心だけ。
無駄に歳ばかり食っているせいで、なかなか素直になれないが、
道具故の心――誰かのためになりたい、という気持ちが、茅女の中で強く灯っていた。
郁夫に使われたい。
郁夫のそばにいたい。
郁夫に頼られたい。
郁夫の助けになりたい。
ドロドロに濃縮された、妖怪としての復讐心より。
遙か昔に持っていた、道具としての素直な気持ちが、今の茅女の原動力。
――真に、郁夫の瞳は魔性の瞳よの。
己の心変わりに呆れながら、茅女は深夜の廊下を歩く。
抜き足、差し足、忍び足。
完全に気配を消しながら、茅女は郁夫の部屋へと向かっていた。
(今宵はどうからかってやろうかのう。
妾としては一線を越えたいところだが、郁夫は意気地がないのが悲しいところよ。
睨む力の万分の一でも彼奴に度胸があれば、今頃は毎晩……)
茅女の読みでは、郁夫は彼女の悪戯をそれほど嫌悪はしていない。
むしろ、青少年特有の気恥ずかしさで、つい避けてしまっているのが実情だろう。
少女の体躯とはいえ、妖怪に対してもそのような心理を抱ける、
そんな郁夫のことを、茅女は好ましく思っている。
故に、知識としてしか知らない性行為を以て、人間と妖怪の一線を越えるのも、
実はこの上なく楽しみだったりする。
初めては上手くいかないとまことしやかに囁かれているが、それは人間に限った話である。
五百年以上も生きた大妖の己なら、破瓜の痛みなんて恐れるに足らず。
しかも今晩は、橘音より得た貴重な情報により、強力装備でコトに当たる所存である。
ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。
とか何とか考えながら、気付けば、郁夫の部屋の前に辿り着いていた。
――む?
いざ部屋に突貫しようとしたところで。
茅女は、違和感に首を傾げた。
――気配が皆無よの。用足しにでも出向いておるのか?
部屋の中に、郁夫の気配は感じられなかった。
まあ、留守なら留守で仕方ない。すぐに戻ってくるだろう、と。
特に深く考えずに、待ち伏せするため部屋に忍び込もうと障子を開ける。
「…………ふむ」
暗闇に包まれた郁夫の部屋。
特におかしな様子は見られない。
誰が見ても、少し部屋を留守にしている、と捉えるだろう。
しかし。
「……匂うな」
鼻をすんすんさせて、茅女は訝しげに眉をひそめた。
誰が見ても、何の異常もない、郁夫の部屋。
しかし、茅女はずかずかと部屋に入り込み、何度も鼻をひくつかせる。
「――殺気の残り香とはな。穏やかでないの」
言うなり、茅女は全ての感覚を研ぎ澄ませる。
それは、長くはかからなかった。
「……ふん。この青臭い殺気は、あの刀娘か。
しかし腑に落ちぬわ。彼奴、郁夫を慕っておった筈……」
しばし悩んで首を傾げる茅女だったが、結局答えは出なかった。
そんなことより今は郁夫だ。
部屋にこんな殺気が残されて、かつ姿が見えないとなると、最悪の可能性すら思い浮かぶ。
「……屋敷の中に気配はないのう。郁夫も刀娘も、かなり離れた所に居るようじゃな」
できるだけ落ち着いた声を出すつもりだったが、
……出てきたのは、緊張に掠れた弱々しい声。
――何を恐れているのか。
――余計なことを考える暇があったら、殺気を辿って追うべきだろうに。
決心したら後は早く。
窓を開け放ち、茅女は猟犬の如く、残された気配を辿っていった。
辿り着いたのは、屋敷の裏手にある藪の奥。
遙か昔に使われていたであろう、崩れかけた物置小屋。
その奥まで、殺気は続いていた。
じくじくと、嫌な感触が茅女の内側で疼いていた。
殺されたはずの黒い感情が、何故か今、蠢いている。
気が満足に巡っていないのか、どことなく歩みがふらついてしまう。
少しだけ、記憶の端を刺激される。
既視感。
思い出したくない、されど忘れられない。複雑な記憶。
似ている。あのときと。
――これじゃあ、まるで。
――否、そんなはずはない。
――郁夫は強い。あれとは、違う。
鉄錆の匂いが漂っている。
夜霧と共に、鈍色の髪へと張り付いてくる。
茅女にとっては嗅ぎ慣れていた匂い。
少し前にも、一度嗅いだ匂い。
嫌な想像が脳裏を掠める。
「…………ッ!」
それを打ち消すために、引き剥がすようにして物置小屋の扉を開け放つ。
そこには。
「――郁夫ッ!」
茅女の口から悲鳴のような叫びが漏れる。
その視線は、小屋の奥に固定されていた。
ペンキ缶をぶちまけたかのように。
赤黒い液体があちこちにこびりついている。
その中央。
まるで失敗作の木像のように。
いた。
その顔は黒い布で覆われて。
手足は無造作に投げ出されて。
右手だけ、あるものをしっかり握り締めていた。
まるで、奇妙な立体芸術。
己の胸に突き立った刀、その柄を、握り締めていた。