謝罪と受け入れ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
屋敷の一室。
内装は簡素で、しかし素朴ながらも丁寧に並べられた小物から。
住み手の暖かみを感じられる部屋。
そんな部屋のど真ん中で。
土下座をしている、くすんだ銀髪の少女。
「あ、あの、顔を上げてください……」
部屋の主である橘音さんが、恐る恐る、少女に向かって声をかける。
その声には、恐怖が多分に含まれていた。
無理もない。自分の体を操り、頸動脈を切り裂いた相手なのだ。
その傷は未だ癒えきらず、首筋に生々しい痕を残していた。
声をかけられるだけでも、その胆力に驚嘆できる。
「――申し訳ない。妾はヌシに、取り返しのつかぬことをしてしまった。
頭を垂れた程度では許して貰えぬことなど重々承知の上だが、
それでも、こうして謝罪することを許して欲しい。
……なにも、赦せ、と申しているわけではない。
妾がヌシに対して、この上なく謝罪の念を抱いていることを覚えておいて欲しいのじゃ」
頭を下げたまま、少女――茅女は、淡々と述べる。
その声は深く沈んでいて。
橘音さんに対して心の底から申し訳ないと思っていることが感じ取れた。
「妾にできることがあれば、何でも申しつけてくれ。
それで罪滅ぼしになるとは思わんが、
償うことに躊躇いはないことを知っておいて欲しい」
「えっと……あの……」
橘音さんはあたふたした後、何故か俺の方をちらちらと見た。
そして。
「――顔を上げてください。
赦す、だなんて烏滸がましいにも程がありますけど……。
貴女の事情は伺ってますし、
これから良い付き合いさえできれば、それで手打ちにしたいと思います」
そう、言った。
橘音さんの言葉を聞いて、茅女はゆっくりと顔を上げ、
「……ヌシは、良いおなごよの。郁夫の近くにヌシのような娘が居ると、妾も安心じゃ」
感心したように呟いた。
ナチュラル上から目線だが、直前までは真摯に反省していた証でもあるのだろう。
言われた橘音さんの方も、気を悪くすることもなく、素直に茅女の称賛?を受け止めていた。
「そ、そんな、褒めても何も出ませんよー」
「いや、これからもヌシのような人間が、郁夫の使用人として側付いていてくれると、
妾も伴侶として安心できるものよ。娘――いや、橘音。これからも郁夫を宜しく頼む」
「もう、そんなこと言ったって――って、え?」
橘音さんは、はてなと首を傾げて、
「……伴侶?」
「うむ。妾と郁夫は、これから良き夫婦として共にあるのでな」
「…………」
沈黙。
出てきた言葉の意味を受け止めきれず、ぽかん、と呆ける橘音さん。
そりゃそうですよね! こちらも同じ気持ちです。
「ん? どうした、橘音よ」
「やっぱ赦すの無しでお願いします」
「何故じゃー!?」
茅女が事件を起こしてから、はや一週間。
浦辺家お抱えの医師や、救急箱の付喪神のおかげで、
俺や橘音さんも傷が癒えてきて、元通りの生活に戻ろうとしていた。
ただひとつ変わったことがあるとすれば。
――茅女が、研修生として我が家に住み込むようになったこと。
あの日、研修生として浦辺家に住み込む予定だったのは、
まさしくこの茅女だったそうな。
本来なら、作られて百年足らずの付喪神のタマゴが研修に来るものなのだが、
茅女は妖怪側の地区頭領に話を通し、無理矢理自分を研修生としてねじ込ませたそうな。
理由は、復讐するにあたってその家に効率的に運ばれる手段を用意したかったからとのこと。
実際、大手の霊能者の本家は、隠れ里に近いところもあり、
何のコネもない者が出入りするのは難しい環境であることが多い。
茅女もそう思い、ウラベの家が付喪神の研修受け入れをしているとの話を聞き、
これを利用しようと考えたそうだ。
もっとも、口頭で聞いた話だったらしく、
浦辺と卜部の区別が付かなかったそうな。
……茅女は、妖怪としての格や偉そうな性格とは裏腹に、結構抜けている性格なのかもしれない。
まあそれはそれとして。
名目上は、研修生としてやってきた茅女。
しかしその目的は、関係ない一族に復讐するため。
その処遇をどうするべきか、浦辺家でも結構揉めた。
出張から帰ってきた両親や、先代である祖父も含めて、家族会議が行われた結果。
茅女は、俺に懐いてることから。
俺が、面倒を見ることになった。
確かに、人間に復讐しようとしている付喪神を、そのままにしておくなど言語道断。
しかも、一度茅女を制圧した俺なら、取り扱いも楽だろう、ということで。
俺が直接指導する立場となり、茅女は、我が家の研修生となった。
……確かに、瞳術はかかり癖が付きやすいため、
一度成功させた者が対応に当たるというのは間違ってはない。
しかし。
「郁夫よ。この分からず屋な使用人に言ってやるといい。
妾とヌシは相思相愛で、使用人無勢が入り込む隙間はないとな」
「郁夫さんっ! 郁夫さんはまだ童貞ですよね!?
天井裏に隠してあるエッチな本は、まだまだ現役ですよね!?」
こうもベタベタされると、嬉しいんだけど疲れるというか何というか。
ってか何故に橘音さんは知ってるんだ隠し場所を!?
……でも、まあ。
ぎゃいぎゃいと言い合う茅女と橘音さん。
そこに、思ったほどの硬さは見られず。
――茅女も、何とか上手くやっていけそうな気がしたので。
ついつい、やりとりを見ながら笑ってしまった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
白々しい、と流は唇の端を噛んだ。
なにが謝罪だ。どうせ郁夫への点数稼ぎだろうに。
郁夫は、茅女の様子を見て笑っている。
――騙されないで、郁夫様。
茅女は、流と橘音を切り裂いた凶悪な妖怪なのに。
郁夫だって、腕を真っ二つにされたのに。
取り繕うように媚びへつらうのは、こちらの寝首を掻くために決まっている。
だというのに。
郁夫は見事に上辺に騙され、情に絆されてしまっている。
……あんな風にベタベタして。
郁夫の純心に付け込むような真似をする包丁には、殺意すら覚えてしまう。
そう、郁夫は騙されているのだ。
だから、自分が守らなければ。
郁夫を守るのは、彼の刀である自分の役目。
それは何人にも譲らない。自分だけに許された、道具としての栄誉ある地位。
――郁夫様の隣は、私の場所。なのにあの婆ときたら、我が物顔で居座っている。
許せるはずが、なかった。
そういえば、郁夫とはしばらく話もしていない。
ここ一週間で、まともに顔を合わせたのは、茅女が流に謝罪しに来たときくらいか。
謝罪に来たとき、流は茅女の頭を踏み付けないように己を抑えるのに苦労した。
土下座なんて生ぬるい。
郁夫を傷つけたのだ。格下の妖怪であれば問答無用で細切れにしてやったのに。
無駄に長生きしている婆には、今の流程度では足元にも及ばないだろう。
――もっと、力があれば。
あんな包丁婆など問題にもならないくらいの力があれば。
郁夫にとって最高の退魔刀になれるし、彼の敵を皆殺しにできる。
否、敵だけではない。
彼に近付く全ての害虫を、己の刀身でズタズタに引き裂いてやれるのに。
そう、全てだ。
郁夫を惑わす輩、郁夫を苦しめる輩、郁夫を誑かす輩、
郁夫の優しさを貪ろうとする輩、郁夫の情けを得ようとする輩、
郁夫の隣にいようとする輩、郁夫の寵愛を受けようとする輩、
郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の――
――ぜんぶ、殺せる、力が欲しい。
あの包丁すら問題にならないような。
絶対的な力が欲しい。
何でも切り裂ける程度など生ぬるい。
全てを斬り殺せる――斬り滅ぼせるくらいが丁度良い。
そんな力を手に入れて、
郁夫の周りの全てを殺して。
――そして、私が、
「……馬鹿な。それこそ、世迷い言です」
がつん、と柱に頭を打ちつける。
……今、自分は、何を望んだ?
道具としてじゃ飽きたらず、それ以上の何かを望んでしまった。
馬鹿め。
馬鹿め。
刀のくせに。
それ以上のことを望み、あまつさえ、他者を害しても構わないだなんて考えを。
……研修を終えた身のくせに、これでは成り立ての理性無き妖怪ではないか。
自分は刀。分を弁えた刀。
人間と共存できる理想的な付喪神で、だからこそ郁夫の側にいられるのだ。
(……いけない。先の負傷で、考え方が不安定になってるみたいですね。
郁夫様の完治も少し先ですし、私も養生に努めなければ……)
茅女に根幹を切り裂かれたとき。
少なからず、刀身に傷を負ってしまった模様。
変化の身であるため、時間が経てば治るだろうが、
それまでは先程のように思考が不安定になってしまう可能性が高い。
心が不安定なときは、大人しくしているに限る。
幸い、郁夫の方からも、しばらくは休んでいていいと許しを得ている。
その間しっかり休み、完全に元に戻ってから、以前と同じ生活を送ればいい。
浦辺家の家事を手伝って。
研修生の監督をして。
郁夫に剣術の教練を施す。
そんな、幸せな生活を――
ふと、郁夫たちの会話が聞こえてきた。
橘音の部屋から出て、他の場所へ向かおうとしているようだ。
流は慌てて身を隠す。
……隠れる必要なんてないのに、何故か空き部屋に飛び込んでしまった。
そしてそのまま、こっそりと2人の気配を窺ってしまう。
何やら楽しそうに話ながら、廊下を2人で歩いている。
――なんで、あんな、仲良さそうに。
ぎりり、と奥歯が鳴ってしまった。
「――ふむ、郁夫は強くなりたいのか」
「まあ、瞳術だけじゃ、この先不安だしな。
それなりに動けるようにしておかないと、仕事で不覚を負いかねない。
だからまあ、流にも剣術習ってるし」
「………………ふむ。…………。
……聞いて驚け、郁夫よ。妾は結構強いのじゃぞ」
「それは、まあ。茅女がそこらの妖怪より強いなんて、対峙した俺がよくわかってる」
「いやいや、妖怪の格としてだけではなくての。
これでもそれなりに長生きしているのじゃ。
――戦の術理も少なからず心得ておるぞ」
「と、いうと?」
「なに、柔と杖をそれなりにな。並みの達人程度には心得ておる」
「へー。それは凄いな」
「……で、だ。その……ヌシが良ければ、稽古を付けてやっても……いいぞ?」
「――マジで? 俺としてはありがたいんだが……いいの?」
「気にするな。……むしろ、ヌシには短杖――特に短刀の使い方を覚えてもらわねばな」
「へ? なんで?」
「――みなまで言わせるな! ほれ、道場に行くぞ。
やるからにはみっちり仕込んでやるからの。覚悟するがいい!」
「うっへ……。こちとら病み上がりだっつうのに。
――まあいいや、望むところだ! ビシバシ来い!」
楽しそうな2人の声が、ゆっくりと遠ざかっていった。
「…………ッ!」
バキン、と拳が柱に叩き付けられる。
ギリギリギリ、と歯ぎしりの音が誰もいない部屋に響く。
――ふざけるな。
「……あの糞婆、こともあろうに、私の居場所を奪う気か……!」
絞り出すような声は、怨嗟にどす黒くまみれていた。
――ふざけるな。
――ふざけるな。
――ふざけるな……ッ!
「……郁夫様に戦いを教えるのは私だ。
……郁夫様に使って頂くのは、私だ……!」
だから。
――あんな、包丁は、要らない。
暗い部屋で独り。
流は、ぶるぶると震えていた。
怒りに歪められたその貌は、
人と共存できる付喪神というよりは。
まるで、悪鬼そのものだった。