復讐
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ッ!」
がばり、と跳ね起きた。
ぼんやりとした意識を必死で覚醒させ、状況の把握に集中する。
――暗い。
自室に敷かれた布団の上。
障子の向こうは真っ暗で、おそらくは深夜だろう。
ということは、12時間近く寝ていたのか。
ズキリ、と右腕が痛んだ。
顔をしかめて腕を上げると、包帯の白が闇に映えた。
指先を動かそうとして――激痛に目を瞑ってしまう。
「……痛むってことは、神経は生きてるってことだよな」
気絶した後、すぐに手当てしてもらえたのだろう。
おそらく、神経までしっかりと繋げてもらったはずだ。
浦辺家お抱えの医師は手足の縫合さえ独力でこなせる腕前だし、
治療器具の付喪神だって何体かこの家に住んでいる。
死にさえしなければ、回復できる可能性は高かった。
とはいえ、綺麗に真っ二つにされたのだ。
元通りに使えるようになるまでは、結構時間がかかるだろう。
「……それより、橘音さんと流は――」
2人とも重傷のはずだ。
自分と同じ理由で助かっているとは思うが、この目で見るまで安心は――
「――使用人も刀の小娘も、命に別状は無かろうて」
凛とした声が、部屋に響いた。
慌ててそちらに目を向けると、そこには。
「……何じゃ。まじまじと見つめおって。
其方の目は正に毒ゆえ、向けられると気が気でないわ」
俺の腕を真っ二つにしやがった、
包丁の付喪神が、ふて腐れた表情で、座っていた。
「お、おま、おまえ――」
ちょっとまて。
俺は確かに、瞳術でコイツの気力を半殺しにしたはず。
死にはしなくとも、数日はまともに動けないくらいに、“見つめた”はずだ。
「――たわけが。これでも五百は齢を重ねし変化ぞ。そこらの妖怪と同じに見るな。
……だが、まあ、動くだけで精一杯じゃ。暴れるどころか害意を抱くことすら困難よの」
はあ、と溜息をこぼしている。
……えっと、要するに、アレか?
「……降参、ってこと?」
「……推し測れ」
むくーと拗ねた顔で、少女は呟いた。
「随分と、潔いんだな」
むくれ顔にこちらも毒気を抜かれつつ、素直に感心の意を示した。
「ふん。害意すら抱けぬ身でどうしろと。
それよりヌシこそ、妾を消さなくていいのか?
先程の感触からして、消そうと思えば消せたろうに」
「……それは」
「限界だったとは言うまいな。数瞬ではあるが余裕はあったはずだ。
情けか? だとしたら、今のうちに調伏しておくことを勧めるぞ。
――元に戻り次第、刻み殺してしまうやもしれぬからな」
情けでは、ない。
でも……うまく言葉にできないので。
つい、どうでもいいことを言って誤魔化そうとしてしまう。
「――お前、綺麗な声なんだな」
「な――何を言うか、このたわけが!」
あわてふためき睨み付けてくる。が、目が合いそうになると慌てて目を逸らす。
やべ、ちょっと可愛いとか思ってしまった。だって外見は普通に女の子だし。
それに、実際、声の質が全然違う。今は外見相応の、鈴を鳴らしたような透き通った声である。
「いや、だってさ。さっきはあんなに嗄れた声だったし。怖かったし」
「……恨み辛みの思念だったから、当たり前じゃ。
むしろ、素の状態で声を出すなぞ、記憶の果てより久方よ」
もごもごと、そんなことを言ってきた。
……恨み、か。
こいつは、アレだけのことをしでかすくらい、浦辺の家を憎んでいた。
その原因は何なのか知らないが――ひとつだけ、気になることがある。
――それだけ浦辺の家を恨んでおきながら。
どうして、瞳術に対して、あそこまで無防備だったのか。
復讐する流派の得意技くらい、普通は把握しておくものだろう。
なのにこの付喪神は、浦辺流瞳術に対しては、完全に無警戒だった。
もし、何かしらの対策を立てられていたら、腕一本では済まなかった可能性も高い。
こいつは、それだけ格の高い妖怪だ。それは、目を合わせた俺がよくわかっている。
だというのに、何故――
そのことを質そうとしたが、その前に少女の方が、
「――しかし、卜部の連中は、いつの間に宗旨替えなぞしたのか?
油断したなどと言うつもりはないが、それにしても思い切った路線変更よの」
「は? いや、ウチは確か、開祖から瞳術一本だって聞いてるけど……」
「? そんなはずはなかろうて。
卜部といったら卜占と神通力ではないか。
こんなこと、成り立ての小物ですら知っておるわ」
「いや、浦辺の家は瞳術だぞ。
これ一本だったから、逆にここまで凄いものになったんだ。
それは、味わったお前もわかるよな」
「確かに――そうだが、しかし卜部の家は……四百年前も……」
まて。
なんか、今、聞き流せないことが。
「ちょっと待った。お前、昔に退治かなんかされて、それを恨んでるんだよな?」
「む――そうだが、どれがどうかしたのかえ?」
「で、それは大体何年前? ちょいと教えてくれないか?」
「……ふん。忘れもせん。あれは四百年前の――」
「あのさ。ウチ、それなりに長いけど、それでもせいぜい300年だぞ」
俺の言葉で。
深夜の和室が、絶対零度の氷室になった。
「…………」
「…………」
「……さん、びゃく、ねん?」
「ああ。親父の代で十五代目くらいだ。たしか」
「待て待て待て待て!
卜部の家が三百年だと!? 世迷い言を申すな!
神通力を授かって千年を遙かに超える一族が――」
「――なあ。ちょいと、思ったんだが」
ふと、ひとつの仮説が脳裏に浮かんだ。
それは至ってシンプルで。
なんか、色々言ってはいけないようなことの気もするが。
――思い切って、言ってみた。
「――お前さ。家、間違えてない?」
「…………」
「…………」
「……ここ、ウラベの家、よの?」
「うん。……あ、字は、浦島のウラに浜辺のベ」
「じ、字は違うのは、年月を経ればよくあることではないか。
……ちなみに、卜占のボクに部署のブ、と家伝書に書いてあったりはしないのけ?」
「うんにゃ。というか、それって日本史の教科書に載ってた名前だよな。
……あー、なんか、有名どころでそんな名字もあった気がするけど……。
ごめん、俺、他の流派のことについては詳しくないんだ」
「…………」
「…………」
「え、じゃあ、まことに、宗旨替えしたわけじゃなくて」
「ってか、ウチ、神通力なんて欠片もないぞ。悲しくなるくらいに」
深夜なのに。
どこからか、かこーん、と鹿威しの音が聞こえた気がした。
「…………っ」
わなわなと震えながら、少女はがっくり項垂れていた。
えーと。
こういう場合は、何と声をかければいいのだろうか。
とか何とか迷ってるうちに、気付けば少女は、俺の目の前まで歩み寄ってきていた。
……ちょ、なんか、迫力がおありになってぶっちゃけ怖いんですが……!
「…………えせ」
「え、なに?」
「――妾の、妾の復讐を返せえええええええええっっっ!!!」
襟首を鷲掴みにされ。
がっくんがっくんと揺らされた。
うお、マジ泣きしてる!?
「あらゆる妖怪を屠ると謳われた一族を血祭りに上げるために、
妾がどれだけ怪異を磨いたと思っておるのだっ!
どれだけ憎しみと年月を積み重ねてきたと思っておるのだ!
四百年じゃぞ、四百年! よんひゃくねんっ!
それを、それを、同じ名前の関係ない一族に無駄にされた妾の気持ち!
貴様にわかるというのか、わかるはずもあるまいて! うわーん!」
うわーんて。お前恥も外聞も捨て去ってるな。
橘音さんや流を血祭りに上げたのと同じ奴とは思えないのだが。
まあそれはそれとして。
とにかく落ち着いてもらわなければ。
「と、とにかく落ち着け!
お前、今、瞳術で殆どの気を殺がれてるんだから、
下手に興奮して暴れたら、そのまま死にかねないぞ!?」
「更に気に食わないのが、関係ないはずのヌシが、ここまでの力を持っていることじゃ!」
「え、俺!?」
「そうじゃ! 何なのだ、その瞳は! 反則以外の何者でもないわ!
下手したら仙狐すら調伏しうる眼力じゃぞ!?
責任を取れ! 責任を! さもなくば泣いてやる! うわーん!」
「待て、落ち着け! お前言ってることが無茶苦茶だぞ!?」
「責任を取って、ヌシが妾の復讐を手伝え! ――っと、おおっ!?」
かくん、と。
少女から、力が抜けて。
俺の襟首を掴みながら、こちらにもたれかかって――
ぷにゅ、と。
唇に、柔らかい、感触。
目の前に、少女の瞳。
髪と同じ鈍色の瞳は、少女の重ねてきた年月を表しているかのようで。
――怨恨に疲れて、しかし真っ直ぐ、純粋な色。
それを、口づけながら見つめてしまった。
正直に言おう。
くらくらした。
陶酔から体は動かず、そのまま十数秒、少女と唇を重ねてしまう。
やがて息が苦しくなって、どちらからともなく、顔を離した。
だが、目は合わされたまま。
顔を逸らすことなどできず、互いの瞳を見つめていた。
「――妾を、くれてやる」
至近距離で、少女の唇が、艶めかしく動いた。
「ヌシ――郁夫といったか。
……郁夫、妾の伴侶となれ。それで責任を果たしたと見なしてやろう」
「は? なんだそれ――んむっ!?」
「……ちゅく……ぷは。妾の全てをくれてやる。
変化としても、女としても、好きに妾を扱うといい。
五百年ものの付喪神じゃぞ。そこらの妖怪を式にするのとは訳が違う。
女としても――ふふ、心ゆくまで尽くしてやろうではないか」
な、何言ってるんだコイツ……!
というか、襤褸一枚しか纏ってない少女が、こうもぴったり体をくっつけてきてると、
何というか未知の感触があちこちに押しつけられて……うああ、ちょっとピンチ!?
柔らかくてすんごく気持ちいいし!
いやいや騙されるな俺! コイツは橘音さんや流に重傷を負わせたんだぞ!
だってのに乳や太股を押しつけられた程度で……程度で……柔らかいなあ……。
――それに、悪い奴じゃなさそうなんだよなあ……。
「ヌシの瞳は……妖魔を狂わせるのだ。
それは妾も例外ではない。先程の瞳術、かけられた瞬間から、体の芯が甘く痺れたぞ。
間近で見たら、もう我慢できぬ。今は愛しさすら覚える始末じゃ。
……だから、のう、郁夫。妾の伴侶に――」
少女の瞳は、甘くとろけきっていて。
瞳術が、効き過ぎてしまっていたようで。
過去に一度、似たようなことがあったのを思い出した。
――と。
どたどたどた、と。
荒々しい足音が聞こえてきて。
すぱん、と障子が開け放たれた。
「――申し訳ありません、郁夫様!
包丁の付喪神が、私たちの目をかいくぐり、どこかに逃げ出してしま……」
相当に慌てた声は、しかし途中で詰まったかのように止められた。
声の主は、こちらを見下ろし、あんぐりと口を開いている。
……呆気にとられる気持ちはわかる。
なんせ、重傷を負っていた少年の上に、消えたはずの少女が乗っかっているのだから。
しかもその様子は、どう贔屓目に見ても睦事のような甘い空気で。
更に、だめ押しとばかりに、
「郁夫……ん……ちゅ……ぷはっ。ふふ、おなごを抱くのは始めてか?
愛い奴よのう。たっぷり可愛がってやるからな……。
……ん?
なんじゃ、刀の小娘。
今、ヌシの主は取り込み中じゃ。一刻ほどしてから、再び参れ」
とか何とか、挑発しちゃってますよこの包丁ー!?
「……な」
「――何してるんですか、貴方達はっっっ!!!?」
深夜の浦辺邸に。
流の大絶叫が、響き渡った。