浦辺の術
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
橘音さんは首筋を引き裂かれ、未だ出血は止まらない。
流は床に倒れ伏している。その両腕は原形を留めておらず、
根幹である刀身にも、多大な損傷を受けている可能性が高い。
目の前で、2人が。
無惨にも、切り裂かれた。
でも、動かなかった。
助けに走りたかった。
自分の体を盾にしたかった。
怒りのままに飛び掛かりたかった。
――でも、我慢した。
この場で重要なのは、感情に流されることではない。
ことの元凶である、包丁の付喪神をどうにかする。それだけだ。
でなければ、きっと俺はこの付喪神に殺されて。
重傷を負った2人も、助けることができないだろうから。
だから、我慢した。
浦辺の退魔術は、他の流派のように神通力や術符を使ったものではないので、即効性に欠ける。
条件さえ満たせば、すぐに効果が発現するが――今はそれが整っていない。
だから、耐える。歯を食いしばって。頬の内側を噛み千切って。
なあ、名前も知らない包丁の付喪神。
お前がどんな理由で、この家に仕掛けてきたのかはわからない。
でもな。
からかいながらも俺を慕ってくれる橘音さん。
俺に懐いてくれてる付喪神の流。
この2人を傷つけた代償は。
――絶対に、安くないぞ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――仕掛けてくる様子はない。
包丁の付喪神――茅女は、訝しげに眉をひそめた。
使用人や身近な付喪神を傷つけたのには、苦しめる以外にも理由があった。
それは、当代の反応を見ること。
身近な者を助けようと、当代が能力を使うことを期待していたのだが、
見たところ元服を少し過ぎた程度の少年は、特に目立った動きは見せず、
蛇に睨まれた蛙のように、ただその場に固まっていた。
(……此奴が、当代ではないのか?)
だとしたら、とんだ茶番である。
しかし、先程の問いには肯定を示した。
その様子に嘘は見受けられなかったので、本当にこの少年が当代なのだろう。
眉目秀麗とまでは言わないが、それなりに肝の据わった良い面構えの少年だ。
何か少女たちを助ける術があったならば、迷わず振るっていただろう。
それが――何も無し。
ひょっとしたら、茅女が復讐しようとしていた家は、想像以上に弱体化していたのかもしれない。
「…………」
少年は、ただこちらを見つめるのみ。
目は合わせずとも、何をしているかは常に意識していた。
使用人の首を切るときも、刀の付喪神を切り裂くときも。
意識は常に、少年へと向けていた。
何かしらの術を使おうとしたら、即座に対応できるように。
触れたものは何でも切り裂ける茅女だが、油断は欠片もしていなかった。
振る舞いはあくまで当代を激昂させるため。
隙は一度も晒していない。
それを見抜いて動かないのか、はたまた、何もできないから動かないのか。
まあ、どちらでも構わない。
一連の動きで、少年は神通力や念力の類が秀でているわけではないと判断できた。
ここまでの非常事態で、己の特殊能力を欠片も出さずに見過ごせる者は、まず存在しないだろう。
おそらくは、体術やそれに関わる術者と見た。
ならば、茅女の敵ではない。
触れたものを全て切り裂ける茅女には、どんな打突も掴みも通用しない。
そして、茅女は、少年の――郁夫の瞳を、見据える。
これから復讐を果たす対象として。
その全てを蹂躙し、切り刻むために。
瞳に映るのは、怒りか、憎しみか、恐怖か、虚勢か。
何にせよ、これからの虐殺に花を添えるものであって欲しい。
そう思って。
郁夫の、目を、見た。
『…………ッ!?』
瞬間。
得も言われぬ悪寒に苛まれた。
なんだ、これは。
瞳はただ真っ直ぐに、茅女のことを見据えている。
そう、ただ“見ているだけ”である。
なのに。
なのに。
どうしてだろう。
とても、嫌な、感じがした。
――浄眼の類か、と慌てて瞳の色を見る。
しかし、瞳の色は綺麗な焦茶。
妖魔を滅ぼす碧の瞳ではなさそうだ。
しかし、その瞳は、まるで浄眼のように――否、それ以上に、茅女を捉えて離さない。
特異な能力が働いているのか。
そう思い、己の能力を発動させる。
神通力や念力によるものなら、己の刃で切り刻めるはず。
しかし、特殊な手応えはなく、周囲の空気が切断されるだけだった。
ぱしん、と荒れ狂う空気が郁夫の頬を引き裂いた。
一筋の鮮血が顎へと伝う。
(な!? こ、こいつ――)
茅女の目が、驚愕に見開かれる。
頬を裂かれた郁夫は。
瞬きひとつせず、茅女のことを、見つめ続けていたのだ。
顔を切られるということは、表情筋を切られるということだ。
ゴムが切れた反動で、他の部位が変化するのは至極当然のことなのに。
あろうことか、この少年は表情が全く変わらなかった。
今まで数多の人間を切り裂いてきた茅女だからわかる。
――こいつは、異常だ。
神通力や念力といった、特殊な力こそ知覚できないが。
それと同等……否、ひょっとしたらそれ以上の何かを秘めている――
だが、それは一体何か。
相手は、ただ見つめているだけなのだ。
ならば今すぐ近寄って、切り裂いてしまえばいい。
あくまで郁夫は見つめているだけ。
だから、近付いて手を伸ばすことなんて、簡単なはず。
ゆっくりと。
ゆっくりと、郁夫のもとへと歩み寄る。
万全のときならば、柔の達人の如く動ける茅女が。
今は幼子よりゆっくりとしか、動けない。
だが――じりじりと、郁夫の方へ近付いていく。
郁夫は変わらず、茅女の瞳を見つめている。
そこから何故か、目を逸らすことができない。
体の奥が、熱く溶けるような感触。
変化が解けかかっているのだろうか、甘い痺れが全身を襲っていた。
じわり。
じわりと距離が縮まる。
まだ届かない。
まだ届かない。
やっと、届く。
そして。
手を必死に伸ばし。
郁夫の腕に――触れた。
ばきり、と骨の裂ける音。
郁夫の腕が、掌から肘まで、真っ二つに裂けていた。
肉も、骨も、筋も、血管も、脂肪も、皮膚も。
綺麗に、切断されていた。
水差しを落としたかのように、床に鮮血がぶちまけられる。
でも。
それでも。
――郁夫は、茅女を、見つめていた。
なんだ、こいつは。
なんで、まだこっちをみる。
なんだ、なんだ、なんだ、なんだ。
わからない、わからない、わからない。
見られているだけ。
見られているだけなのに。
どうして、こいつは――
こんなにも、こわいのか。
茅女が動くのを止めたところで。
流は、郁夫の勝利を確信した。
もう、あの付喪神には、抵抗する気はないだろう。
そんな気勢など、完全に殺がれてしまったのが容易に見て取れた。
――流も、あれを味わったことがある。
抵抗などできるはずもない。
一度捉えられてしまえば、如何なる妖怪でも脱することは不可能だ。
あとはそのまま封印するも良し、調伏するも良し。
そう、あの付喪神は、堕ちた。
郁夫ならばそれができると信じていた。
だから――使わせたくなかったのに。
あの付喪神も――あの“女”も――自分と同じように。
堕ちてしまった。間違いなく。一片の疑いもなく。
自分がもう少ししっかりしていれば。
こうして倒れ伏すこともなく、あの女、あの婆を縊り殺せたのに。
悔しさに身を浸されながら、流は睨み付けるかの如く、郁夫と茅女を見つめていた。
――ずるい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
神通力でも、念力でもない。
ただ“見つめる”だけ。
――視線を以て機先を制する。
俗に“瞳術”と呼ばれる技術を、とことんまで突き詰めた。
それが、浦辺流退魔術の、真髄である。
たとえ親兄弟を殺されようと。
たとえ己の体を切り刻まれようと。
あらゆる刺激を受けてなお、“目を逸らさない”ことを徹底する。
人外の力は、不明への恐怖が根源となっている。
理解できないもの、それに対抗するには、こちらも相手に理解できないものになる必要がある。
その手段が流派によっては様々だが、浦辺の家では“視線”に特化された。
妖怪ですら不可解と思えるほどの眼力で、その怪異を脅かし、気勢を殺ぐ。
――それが、浦辺流瞳術だ。
見つめるだけで為される術は、しかし危険も大きかった。
目を合わせれば、十中八九術に落とせるが、
言い換えれば、目を合わせられなければ、効かないのだ。
しかも、瞳術の最中は“見ること”に集中してしまうため、
状況も掴めないまま出会い頭にかけることも難しい。
使いどころの難しい、かなりマイナーな術である。
先程も危なかった。
流石は流を一蹴した付喪神というべきか。
術がかかるまで、相当な時間を要してしまった。
結果、頬は裂け、右腕は真っ二つだ。
しかも、橘音や流が傷ついてしまった。
これは――自分以上に、痛かった。
まあいい。自省は後だ。
今はこの包丁娘をどうするか考えなくては。
瞳術は永遠に効くわけではない。
こちらが目を合わせている間だけだ。
その気になれば、相手の気勢を完全に殺し、そのまま消滅させることも可能だが。
先程の言葉が、引っかかっていた。
――憎き憎き卜部の家よ。
――ヌシ等に復讐せんが為に、
――妾は長き時を生き延びてきたのだからな!
……どうしてだろう。
俺には、この言葉が。
涙を堪えながら、捻りだしたものに、聞こえていた。
「…………ちっ」
どちらにしろ、この怪我ではこれ以上瞳術を続けられない。
一際強く眼力を送る。
びくり、と鈍色の髪の少女が痙攣した。
――これで、しばらく動く気力は奪ったはず。
乱暴はできなくなっただろう。
……もう、限界だ。
瞳術を解く。
少女はへなへなと、力無くその場にへたり込んだ。
それを確認してから、近くの付喪神に2、3頼み事をして。
あとは、集中を解いたことにより。
襲いかかってきた腕の激痛で。
――俺は、あっさり、気絶した。