新しい研修生
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝。
小鳥が囀り始める頃には、浦辺家の一日は始まっている。
「橘音ちゃーん、皮むき終わったー?」
「はーい、ジャガイモも食べやすい大きさにしてありますよー」
「んじゃ味噌汁始めちゃっていいよ。出汁はアマっちゃんが仕込み済みだから」
「了解しましたー」
厨房では、使用人がぱたぱたと忙しなく、朝の準備を進めていた。
普段はもう少し時間に余裕があるのだが。
今日は諸事情によりスケジュールが前倒しされ、慌ただしくなっていた。
「くそー、忙しくなるのは郁夫さんだけだと思ってたのに。油断したー」
『ま、新入りを持ってくる人の歓待とかもしなくちゃいけないしねえ。
頑張れ橘音。私ぁここから応援させてもらうわよ』
「ひーん、千茶ちゃんの外道ー! あとで苦瓜茶を淹れてやるー!」
人間と付喪神ながらも、気軽に会話する橘音と千茶。
付喪神研修制度によって、様々な霊能者のもとに付喪神のタマゴが赴くことになるが、
その待遇や修業内容は、担当の霊能者によって千差万別だったりする。
浦辺家では、妖怪の人間の同居を視野に入れた、環境への適応を重視している。
その方針から、使用人も付喪神とは気さくに接するように徹底され、
また付喪神の方も、使用人には害のある怪異を振るわないように教育されている。
結果、橘音と千茶のように、仲の良い組み合わせもできていた。
『そういや橘音やい』
味噌汁の鍋を丁寧にかき回していた橘音に、ふと千茶が思念を送る。
「ん? なーにー?」
『今日来る新入りってさ、何の道具なの? 食器だったら、私が面倒見てもいいけど』
「いや、それがよくわからないのよー。
何やら身近な道具みたいだけど、詳細は教えてもらってないなあ。
まあ、あとで郁夫さんが教えてくれるでしょ」
『そか。ふふふ、もし湯呑みだったら、私がここの掟を叩き込んでやろうじゃないの』
「掟って?」
『浦辺家研修生の心得・その壱。暇なときは郁夫で遊べ』
「……そんな掟があったんだ……。まあ、私もやってるけど」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝。
裏庭。
まだ日も昇りきらず、薄暗い時間ながらも。
既に修業は半ばを終えている。
剣術の鍛錬ではないので、流は側にいない。
光も差さぬ薄もやの中、立てられているのは一本の蝋燭。
大きな岩に乗せられて、赤い炎がゆらゆらと踊っていた。
それを、5間は離れたところから、じっと睨み付けている。
詞はない。動きもない。ただじっと見つめるのみ。
静寂は緊張に引き絞られ、霧は冷たく硬化していく。
近くに付喪神を置かないのには訳がある。
浦辺の退魔術はやや特殊なため、修練の場に紛れ込んでいたら邪魔になるのだ。
流あたりは、可能であるならば何かの手伝いをしたいとか考えているかもしれない。
剣術の師に飽きたらず、何から何まで手伝おうとするあのお節介は、
いつになったら落ち着いてくれるのかなあ、とついつい考えてしまう。
ふらり、と蝋燭の炎が一際強く揺れた。
「――あ、いかん」
流のことを考えたら、集中が途切れてしまった。
慌てて手元のストップウォッチを押し、時間を確認。
「……目標時間には、まだまだ足りないなあ」
はあ、と重い溜息を吐く。
流のせい、とは髪の毛先ほども考えてない。
どんな理由であれ、集中を途切れさせてはならないのが浦辺の術だ。
まだまだ修行が足りないなあ、と自省し、次のメニューへ進むことにする。
新入りが到着するのは正午過ぎ、と聞いている。
幸いにも今日は土曜日なため、学校は休みである。
修業にて精神を統一した後、新入りを迎えるつもりだった。
何せ相手は器物の変化。
人間に作られた物といえども、その思考形態は人間のものとはかけ離れていることが少なくない。
少しでも隙を見せたら、制御しきれなくなるかもしれない。
しかも今は、両親が仕事で出払っている。
祖父母は在宅だが、既に引退した身なので、俺が最高責任者である。
気を抜かないためにも、朝の修業はきっちりとこなす心算だ。
研修に来る器物は“刃物”と聞いている。
鋏や剃刀のような日用品か、刀や鋸のような大型の物か。
詳細は不明だが、何にせよ扱い次第では、大きな被害の起きうる変化である。
妖怪となった器物は、それぞれ特異な能力を持つ。
それが悪意ある者の手に渡ると、何かしらの事件が起きてしまうし、
器物自身が意志を持っていた場合は、触れた人間が操られてしまう可能性もある。
妖怪を調伏したり退治したことは何度もあるが、だからといって気を抜けるものでもない。
特に浦辺の退魔術は自身の体が傷つけられる可能性も高いため、
刃物が相手では、一瞬の油断で絶命、なんてことも十分あり得る。
「さて、次は水行っと――」
冷たい水を被って精神統一。
夏の頃はあんなに楽しみだったものが、今の時期は涙が出そうになるんだよなあ、と。
修業メニューに対する愚痴をこぼしながら、禊場へと足を向けた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――その、背中を。
一対の瞳が、見つめていた。
『……彼奴が、当代か?』
誰にも届かない思念を、独りぽつりと漏らしていた。
何の修業をしているのかはよくわからなかったが、
人の身が行う業になぞ、興味なんて欠片もない。
重要なのは、己を調伏し得る器か否か。それだけだ。
見たところ、神通力もなければ符術に優れた様子もない。
纏う気が一般人のそれであったのは、隠しているからか、はたまた未熟なだけだろうか。
修業のときまで己の力を隠す、というのは考えにくいので、
今見たとおりの実力しか持ち合わせてない可能性も高い。
だとしたら――拍子抜けである。
あの少年を亡き者にするのは、赤子の手を捻るより簡単だろう。
かつての己とは比べものにならないほど、今の己はその怪異を強めている。
今、この場で――事を起こしてしまう手もある。
しかし、それでは長年の悲願を果たせない。
――やはり当初の予定通り、策を弄して事に当たろう。
その方が、きっとうまくいくだろうから。
「ふいー。いやはや、修羅場は何とか過ぎ去ったねー」
『橘音、お疲れ様。私でお茶を飲んでいいわよ』
「お、いいのん? 千茶ちゃんで飲むお茶は美味しいんだよねえ。
出涸らしが玉露になるんだもん。一家に一個欲しいところね」
『熱すぎるのは嫌よー』
「了解了解っと」
そろそろ正午に届こうかという頃合い。
客人の分の昼食も準備が完了し、あとはお持て成しの手はずを確認するだけである。
使用人の中で一番若手の橘音は、客人の直接のもてなしには関わらないため、現在は厨房で休憩中。
慣れた手つきで千茶にお茶を注ぎ、一服を楽しむことにした。
――と。
「あら?」
『? どしたの?』
「いや、片付け忘れたのかな……?」
首を傾げた橘音の視線。
その先に、一本の包丁が置かれていた。
普段は洗い終わったら、すぐに片付けるようにしていたが、
今日はいつもよりドタバタしていたから、片付けるのを忘れていたのかもしれない。
包丁を出しっぱなしにしておくと、ふとした拍子に落としてしまったりなど、
色々と危ないので、すぐにしまった方がいいだろう。
「誰がしまい忘れたのかな? 私じゃないと思うけど、危ないなあ……」
立ち上がり、調理台の上に手を伸ばし、
古式ゆかしい白木作りの柄を握り――
『……? 待って、きつ――』
千茶が違和感を覚えて思念を飛ばしたときには既に遅く。
橘音の体は、己の思い通りに動かなくなっていた。
「え――」
『娘。声を出すことを許そう。
――助けを呼べ。この家の当代に届くようにな』
ぎしり、と空気が黒く歪んだかのような。
禍々しい思念が、橘音の脳髄を揺さぶった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「郁夫様、そろそろ時間ですね」
居間の時計を見上げて、流はそう声をかけてきた。
「そだな。……なあ流、襟のところ曲がってないかな?」
「大丈夫ですよ。郁夫様は当主代行なのですから、どしりと構えていらっしゃれば」
「うーむ、それはわかってるんだが……」
相手が目の前に来れば肝も据わるのだが、こうやって待つ時間が一番苦手である。
ここらへんの精神修養も未熟なんだよなあ、とちょっぴり悲しくなってしまう。
服装は、一応正装の学生服。
最初は袴でも履こうと思ったが、着られる印象が拭えないので、こちらにした。
親父みたいな貫禄が出てくるのはずっと先だろう。がっくり。
「しかし、刃物の変化か……。刀だったら、じゃじゃ馬を相手にした経験があるんだけど」
「……誰のことだか、てんで見当が付きませんね」
「剃刀だったらちょうどいないから、髭剃りに協力願えるんだけどなあ」
「郁夫様、そんなに髭濃くないですよね」
「……ん? なんだその目。ひょっとして、俺が他の刃物を使うこと、嫉妬してるのか?」
「――そ、そんなことありませんよ!?」
少しからかっただけなのに、真っ赤な顔で怒られた。
冗談がわからない奴だなあ。
まあでも、実際問題大降りの刃物が来た場合は、流が面倒を見る可能性が高い。
だから流自身、結構真剣に初顔合わせに望んでいるのだろう。
――しかし、だからといって。
同じ部屋でこちらの独り言にいちいちツッコミ入れることもなかろうに。
客が着くまでこんな調子なのかなあ、と溜息を吐きたくなった。
瞬間。
絹を裂くような悲鳴が、屋敷に響き渡った。
この声は――
「――橘音さん!?」「黒間様!?」
尋常な叫び声ではない。
何か、異常事態が起こった模様。
一瞬の間も空けず、居間を飛び出し、声の聞こえた方へと向かった。
声の聞こえた方向や時間から考えて、おそらく厨房だろう。
妖怪がたくさんいる屋敷だ。異常事態は日常茶飯事ともいえる。
その上での、先の悲鳴。
――嫌な、予感がした。
厨房へ駆け込むと。
そこには。
『――来たか』
「…………い……く、お……さん……すみ、ません……」
厨房に立つ橘音と。
――その手に握られた、禍々しい包丁。
切っ先は橘音の喉元に突き付けられ、既に一寸、刺し込まれていた。
『ヌシが、この家の当代かい?』
嗄れた老婆のような思念が、郁夫の脳を軋ませた。
事態は緊急。下手な対応をしたら橘音は危ないだろう。
浦辺家の正式な代表は親父だが、この場にはいない。
そういう場合は、自分が代表を名乗ることが許されているので、静かに「そうだ」と頷いた。
『……ふん、この家も随分と落ちぶれたものよのう。
まさか当代がこんな神通力の欠片もない男とはな』
「……っ!」
こちらを嘲る思念に、何故か流が反応した。
諫めようとしたが、その前に向こうが思念を発してくる。
『まあいい。――のう、当代よ。妾はヌシに、ひとつだけ願いたいことがある』
「……何だ」
『なに、そう難しいことではない。妾を調伏して欲しいのじゃ』
「…………は?」
『全力で、調伏しにかかってくれ。余計なモノは要らぬ。
憎しみと義憤に駆られて、妾に全力で当たってくれればいい
――それを、虫螻のように踏み潰してみたいのでな』
空間が、軋んだ。
間違いなく、包丁の発する妖気によるものだ。
――付喪神になりかけの妖怪じゃ、こんな空気を作り上げることはできないだろう。
間違いなく、数百年を生きる古株の変化だ。
そんな奴が、何故ここに?
『――なに。無償とは言わぬよ。……この娘』
くい、と橘音さんの顔が上げられる。
おそらく、彼女の意志ではない。体を操られて、顔を上げさせられたのだろう。
『此奴、存外に意志が強くての。悲鳴を上げろと言っても、うんともすんとも言わなんだ。
仕方ないから、妾が強引に上げさせたが、抵抗が強い強い』
……何が、言いたい?
『操ってみるとわかるものでな、この娘、この家――とくにヌシに忠誠を誓ってるようでの。
ヌシの不利益にならぬように、己の命すら張りおった。
それほどまでに使用人に好かれ、悪い気分ではないだろう?』
「……それが、お前を調伏することと、どう関係してるんだ」
『なに。つまりこうしてやるから、本気でかかってきておくれ、ということよ』
言うなり。
橘音さんの手にある包丁は、そのまま上へと押し上げられ――
まて。
おまえ。
それは――
ぷつり、と筋の引き千切れる音がして。
――鮮血が、舞った。
『どうだ当代、己を慕う娘を殺される気分は?
なに、遠慮することなどない。今覚えた気持ちをそのまま、妾にぶつけるといい。
――それとも、これでは足りぬか?』
首筋を切り裂かれ、鮮血を大量に零している橘音さんの体。
それを無理矢理に操り、包丁は、己をこちらに向かって投擲させた。
速い――が、狙いは俺ではなく、流。
隣にいるから、という理由だけで狙ったのなら迂闊すぎる。
流の技術なら、ただ投げられただけの包丁など、脅威でも何でもない。
流が素手を一閃させた。
側面を叩いて弾き落とす――その瞬間。
刃の向きが変わり、そのまま流の手を迎え撃つ。
ざくり、と刃が肉に埋まる。
しかしそれだけ。包丁の薄く軽い刃では、骨を切断するには至らない。
流はそのまま払い落とそうとする。
しかし。
『――ふん、未通女が、妾に敵うと思い上がるか』
瞬間。
包丁が肉を纏い、変化した。
現れたのは襤褸を纏った少女。
腰まである長髪は刃を表すかのような銀色で、鈍く禍々しく輝いている。
刺さった状態から一瞬で変化したため、
流の手の肉が、無惨にも飛び散った。
「……っあっ!」
しかし、流も流石に付喪神。
痛みも気にせず、無事な方の手で少女の腕を取る。
流は柔も一級品。そのまま投げ飛ばすのも容易だろう。
だが、それが為されることはなく。
『だから、思い上がるなというのに。小娘が』
嘲るような思念と同時に。
掴んでいた手が、裂けた。
一瞬だった。
少女の腕を掴んでいた流。
その手が、まっすぐ。ぱっくりと。
骨も腱も筋肉も脂肪も。
綺麗な断面図を晒していた。
『永く刃物をやっているのでな。
粗方のものは、触れただけで切り刻めるようになったのよ。
符や念力も、軽々とな。
――さて、それではヌシも、疾くと去ね』
少女の手が、流の体に伸ばされる。
手を――変化の一部を切断された衝撃で、対応が遅れる流。
手が、胴に、触れた。
ざくり、と。
流の中心から木の裂けるような音がして。
そのまま流は、倒れ込んだ。
『これで残るは、ヌシのみぞ。当代よ』
少女が嗤う。
それは如何なる感情によるものか。
ただ楽しいだけで、こうはいくまい。
『――本気を出せ。全てを賭けて妾を調伏せよ。
妾はそれを踏みにじり、思うが侭に切り刻んでやるからの。
…………。
……ああ、この瞬間をずっと待っていたぞ……!』
少女の目がこちらを見据える。
目の奥で、感情の炎が揺れていた。
『憎き憎き卜部の家よ。
ヌシ等に復讐せんが為に、
妾は長き時を生き延びてきたのだからな!』