付喪神の想い
○ ○ ○ ○ ○
義父の肉をすべて片付け終えたところで。
さゆは、あることに気が付いた。
――少女が、いない。
この家はそんなに広くない。
隙間風が吹くくらいの造りなので、他者の気配を察することは容易いはず。
義父が連れてきたときは気絶していたので。
ことに及ぶ直前に、奥の間で寝かせていたはずなのだが。
いつの間にか、家から出ていったようだ。
逃げたのか。
それならいい。
おそらくは義父がどこかからさらってきた類だろう。
ならば、本来己がいるべきだった場所に戻るべきだ。
己がいるべき、場所
さゆにとって、それはどこなのか。
『……さゆ。きりおわったね』
「うん……ありがとう、包丁さま」
『つぎは、どうしたい? わらわ、てつだうよ?』
「……包丁さまは、やさしいね」
優しいものか。
本当に優しいのだったら。
持ち主の心を、ここまで空虚にさせないだろうに。
「ううん、やさしいよ」
そんな包丁の考えを、さゆは否定した。
「包丁さまをもってるとね。すこし、あたたかいよ」
『あたたかい?』
「うん。包丁さまがいてくれて、うれしい」
そう言うさゆは。
歯のない口をいっぱいに広げて。
嬉しそうに、笑っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
空気を伝い、茅女の過去が流れ込んでくる。
彼女の思念はだだ漏れ状態。
放っておけば、そのまま想いを出し尽くして、付喪神としての死を迎えるだろう。
そんなこと、許せるはずがなかった。
やるべきことははっきりしている。
一番の脅威であった流を制圧した今。
あとは、極度の錯乱状態に陥っている茅女を落ち着かせて。
その身と想いを安定させる処置をとる。
それだけだ。
それだけの、はずなのだが。
「――おい、茅女! 聞こえるか!?」
全身の痛みを無視しながら、茅女に向かって声を張り上げる。
しかし。
溢れる思念に鈍色の髪を逆立たせた少女は、
応じることなく、その場でどろどろと大事なものをこぼしていた。
「おい! 茅女!」
『…………』
既に無力化されていて、応じる気力もないということだろうか。
否。そんなはずはない。
だって。
『五月蠅い』
空気が裂けた。
風と風の間が切られ、乱れた風圧が荒れ狂う。
辛うじて立っていた身体が、強引に押し込まれた。
あらゆるものを切り裂く能力。
500年生きた大妖怪が、その怪異を発揮していた。
明らかな敵対行動。
錯乱しているわけではない。
今のは。
確実に「俺」を狙っていた。
「かや……め……?」
呆然とした呟きが漏れる。
だって。
ついさっきまでは。
こちらに対して無条件の好意を示していた。
その茅女が。
『……肉が妾を気易く呼ぶな』
初めて対峙した時のように。
敵意を滾らせ、立っていた。
「……っ!」
理由はわからない。
だが、対応しないわけにはいかない。
あらゆるものを切断できる付喪神。
それが敵意を持って向かってくるなら。
抵抗しなければ、殺されるだけだ。
ゆらり、と茅女が動き出す。
向かう先はこちら。
重傷とは思えない足取りで、間合いを詰めてくる。
瞳術をかけるべきか、一瞬迷った。
その迷いが、茅女の手を、こちらの身体に届かせた。
『――迷うか。やはり優しいの』
左手の前腕。
触れる暖かな感触。
そこから。
さくり、と軽い音が響き。
ぼたっ、と重い音が耳に届き。
遅れてやってきた雷光のような激痛が脳に響いた。
腕が、落とされた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
おかしい。
そんなはずはない。
半壊した廊下の床。
その上で無力に横たわりながら。
流は状況に驚愕していた。
郁夫の瞳術により、思考は鈍化させられていたが。
それでも、自分が為したことは、はっきりと覚えている。
斬った相手の感情を操る。
その能力を以て、茅女には一つの感情を植え付けていた。
たとえ流の攻撃に一命を取り留めようとも。
その感情があるならば、決して郁夫に対して害を為せないはずなのに。
――茅女は、郁夫を、攻撃した。
これは、どういうことか。
自分の能力が至らなかった故か。
そんなはずはない。
先ほど茅女に攻撃を叩き込んだとき、流ははっきりと手応えを感じていた。
『自棄』という感情を、植え付けた、はず。
○ ○ ○ ○ ○
気付いたときには遅かった。
あの少女は、こちらの住処を明らかにするための餌だった。
理解はしても、既に遅く。
それだけ、彼らの動きは迅速だった。
神通力を操り、自然の摂理を自在に捻じ曲げる。
多少切れ味のいい刃物を持っていたところで、風や雷に対抗できるはずがない。
裏をかこうとしたところで、未来を正確に読み通されては、手も足も出ない。
為す術もなく、包丁一本持つだけの少女は、追いつめられていた。
最強の拝み屋連中。
卜部の一族が、さゆの家を急襲してきた。
おそらく、義父に捕まっていた少女は。
義父の所在を確かめるために、わざと捕らえられたのだろう。
少女が姿を消した直後に、拝み屋連中が乗り込んできた。
細々と人を攫って食してきた義父だったが。
里の人間達には、怪異以外の何者でもなかったようで。
偶然、近場まで勢力を伸ばしていた拝み屋一族の的となり。
囮捜査にて討伐される次第となったのだろう。
戦乱の世。
満足な蓄えもできず、飢えに苦しんだ末に人道を外れる者は少なからず存在した。
その中の一種、同種喰いという禁忌を犯した者たち。
「餓鬼」と呼ばれる妖怪に変化した者たちは、拝み屋連中に駆逐される対象となっていた。
さゆにとって不幸だったのは。
ちょうど、義父を殺すきっかけとなった少女が。
卜部の一族が送り込んだ、餌だったことだろう。
結果。
里を怯えさせていた餓鬼は。
殺された義父ではなく。
飼われていた、さゆとなってしまった。
卜部の一族に容赦はなかった。
乗り込むなり、全力で神通力を展開。
形式的な確認作業をした後、強引に制圧行動に移っていた。
さゆも、頭は働いていたようで。
襲ってきた拝み屋連中が、義父を討伐しに来ていたということは理解していた。
しかし。
義父の暴力から逃れるために培われた聡さは。
襲撃者たちが、自分を見逃す気など皆無だということを、察していた。
もとより、生に執着などしていなかった少女である。
流れに身を任せ、殺されることを受け入れるのも吝かではないと思っていた。
でも。
『さゆ。こやつらを切って、にげよう?』
少女の手に握られた包丁。
道具だけは、持ち主のために、最後まで諦めていなかった。
少女の考えは、手を通して容易に伝わった。
――包丁様にそう言ってもらえて。
嬉しかった。
でも。
それ以上に、辛かった。
ろくな人生ではなかった。
さらわれて。
人肉を調理させられて。
まともな人間の道を外されて。
そんなさゆに、温かみを与えてくれた。
「……包丁さま」
『さゆ。だいじょうぶ。こいつら切れるよ』
それが拙い励ましだということは明白だった。
さゆが何か企んでも、その前に、彼らはさゆを制することができるだろう。
だから。
「わたしは。さゆは。包丁さまが、だいすきです」
『? わらわも、さゆはすき』
「だから、ごめんなさい」
幽かな呟き。
それは、卜部の連中に聞かれていなかったのか。
空気の中に紛れるように。
「さゆは、うそをつきます」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
左腕が切断された。
そう理解した瞬間。
激痛が脳髄を焼き尽くした。
立っていることすら困難な灼熱。
意識を保つことすら難しい。
身を折って、その場に崩れ落ちる。
或いはこれが瞳術の最中であったならば。
この激痛にも耐えられたかもしれない。
しかし。
発動する前の気の緩み。
それに併せて、茅女の意識が混じり、集中しきれない現状で。
この激痛は、耐え難いものだった。
痛い。
熱い。
辛い。
苦しい。
白い。
黒い。
意識が明滅し、そのまま落ちる。
その直前。
茅女の表情が視界に入った。
瞬間。
気付いた。
気付いてしまった。
何故、茅女はこのような凶行に及んでいるのか。
瞳術が効いていたはずなのに。
否、瞳術で悪意のもとを断たれていたはずなのに。
俺の操作が露見したから?
流の攻撃に我を失ったから?
そんなはずなはい。
少し前に見た焦りと縋りは、嘘ではない。
意識が混ざっている今ならわかる。
茅女は、流に意識を操作されている。
それはどのようなものか。
無力化するためなら、決して悪意や狂気の類ではない。
単純に、流が茅女に全てを諦めさせようとしたのなら。
おそらく植え付けたのは自棄や諦念といったもののはず。
普通に考えたら、そんな状態で暴れるなんて不可能だ。
しかし。
それが茅女の凶行の原点だった。
そう考えれば、納得のいくことがある。
それは、一番最初。
茅女が、浦辺家に襲撃をかけたとき。
どうして茅女は、あのようなことをしたのか。
○ ○ ○ ○ ○
「こんな包丁、いらない」
信じられない言葉が、さゆの口から飛び出していた。
そのまま、放り投げられる。
からから、と本体が床を滑った。
「おまえらなど、わたしだけでくいころしてやる」
そう言って。
さゆは。
殺された。
その後どうなったかは、実のところ曖昧だった。
気付けば、一匹の怪異として存在していた。
卜部の連中の狙いはあくまで「餓鬼」で。
その持ち物であった包丁には、大して興味がなかったのかもしれない。
何せ、現代と違い、多くの器物が怪異と化していた時代だ。
小物一本に、いちいち構うはずもない。
小物。
そう。小物。
だから、さゆはあのようなことをしたのか。
取るに足りない小物だから。
庇い、自分だけで逝ったのか。
もし。
妾が、小物でなければ。
さゆが頼れるような、大妖怪であったならば。
こうはならなかったのだろうか。
でも。
現実は残酷だった。
こうして。
妾は、持ち主に。
――捨てられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
機会は一瞬だった。
地面の血だまり。
そこに己の姿が映っていた。
全力で瞳術を叩き込み、意識を保つ楔とした。
注視への恐怖が激痛を上回る。
前後不覚になりながらも、気絶だけは免れた。
あとは何とか首を動かして。
目前に立つ、付喪神を視界に入れた。
瞳術をかけられる体勢。
腕を切断されたギリギリの状況。
ここで、瞳術をかけない手はない。
手加減する余裕もない。
存在を消滅させる勢いで、茅女を見るしかない。
――ひとつだけ、確信できることがある。
――茅女は、悪い奴じゃない。
その想いから、茅女についてずっと考えてきた。
害意を掻き消された状態の茅女は、付喪神としては理想的とも言えるくらい、
純粋で、人間と共に在ることのできる妖怪だ。
桁外れな復讐心を考慮に入れなければ、何処かの小さな社で御神体として祀られてもおかしくない。
そんな茅女が、復讐心に駆られ、悪鬼となって襲撃してきた。
本当に、そうなのだろうか。
そうなのならば。何故。
茅女は、最初の襲撃で、己の能力を自分から明かしたのだろうか。
強力な怪異を警戒させ、一斉に襲撃されることを避けるため?
そんなはずはない。
復讐相手は『一族』なのだ。
あの場にいる者を片付けても、次が来る。
その都度、能力を説明し、警戒させる?
情報が先に伝わり、先程の流のように対策されるかもしれないのに?
復讐を確実にしたいのであれば。
能力は伏せ、奇襲の形で各個撃破するのが最善だろう。
あれでは、復讐も半ばに挫折するしかないだろう。
中途半端に痛撃を与え。
復讐は成らず。
四百年生きた付喪神は、殺される。
そんな結末が、若輩者の自分でも想像できる。
つまりは、そういうことなのだろう。
茅女は。
最初から。
抱いていたのは復讐心などではなく。
『――漸く、さゆのもとへ逝ける』
手加減抜きの瞳術を受けた付喪神は。
憑き物が落ちたかのように。
成し遂げた顔で、笑っていた。
そこまで見て。
俺の視界は黒く塗りつぶされた。