ほしかったもの
○ ○ ○ ○ ○
あっけなかった。
ぽかん、と間抜けな表情を晒しながら。
頬を紅く濡らしたさゆは、見下ろしていた。
足下には、義父。
痙攣は既に止まっており、置物のように固まっている。
床に広がる紅は、留まるところを知らず、土間の隅にまで届いていた。
さゆの白い手は、今や真っ赤に染まっていて。
その根源である古びた包丁は、刃先をふるふると揺らしていた。
――なぜ、こうなったの?
さゆは思い出す。そう、新しい娘がやってきたのだ。
義父が連れてきた、幼き少女。今は奥の間で眠りに就いている。
新しい娘が来た意味を、さゆはうすうすと感じ取っていた。
動きの鈍くなってきた身体。折れやすくなった骨。残り少ない歯。
もう、さゆは。
……浮かんだ激情は、怒りだったのだろうか。
気付いたときには、使い慣れた包丁を手にして――
さゆが、死後間もない人間を捌くのは、初めてだった。
今まで捌いていたのは、どれも時間の経ったものばかり。
今、捌いているのは、ほんのりと温かみが残っている。
ある程度硬くなってはいるが、いつものに比べれば柔らかすぎるくらいだった。
いつものように、皮を剥ぎ、肉を刮げ落とし、塩漬けにする。
淡々と、黙々と、作業を進めていくさゆ。
その瞳に思考の色はなく、ただひたすら、無心になろうとしているようにも見えた。
とても、辛そうで。見ていられなくて。
いつものように――否、いつも以上に、“手伝った”。
“包丁”に込められた想いは、至って単純。
硬くて切れない肉を、女の細腕で切るのは難しい。
だが、難しくても許してくれないから、無理をするしかない。
歯を食いしばって、脂汗を流しながら、代々の持ち主は、願っていた。
『もっと簡単に、切りたい』
その想いの集大成が、“わらわ”だった。
人肉という、魂や思念が微かに残る物を切り続け、並みの器物より早く変化と成った包丁。
妾の手伝いもあって、さゆはいたく簡単に、義父の解体を成し遂げた。
紅い涙を流しながら。
最後の一欠片を、壷に仕舞い終える。
――今宵は調理する気になれなかった。食欲なんて皆無だった。
さゆがどうして泣いているのか、妾には理解できなかった。
でも、己を持つ手から、少女の思念は伝わってきた。
――怒鳴られたけど。殴られたけど。怖かったけど。
――それでも。それでも。おとうさんだったのに。
何を悲しむことがあるのだろうか。
義父はさゆを用無しと見て殺そうとしていた。
だから、殺される前に、さゆは殺そうとした。
それだけなのに。
幼い付喪神は、ただおろおろするばかりで。
さゆの嗚咽を聴くしかなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――確かに、伝わった。
断片的に見せられていたものが、頭の中で整理される。
見えたのは過去。古い器物が蓄えた想い、その中枢の濃い部分。
ドロドロに濃縮された想いが、今の彼女を形作っている。
だがしかし、今は彼女――茅女の過去に思いを馳せている場合ではない。
寝ているわけでもなければ繋がっているわけでもない。
此方の意識が覚醒している状態で、茅女の過去を鮮明に受け取れたということは。
それだけ、彼女の想いが、だだ漏れになっているということだ。
流の小刀に穿たれた茅女の本体。
そこから付喪神の魂とも言うべき“想い”が漏れている。
人間でいえば動脈を裂かれて大量出血しているようなものだ。
このまま放置すれば、茅女は付喪神としての己を保てなくなり、消滅する。
そうなる前に。
荒ぶる氣を鎮めさせ、器の修繕をして、
再び「想い」の定着を図らなければならない。
そこまでしても、茅女が元通りになるかどうか。
正直なところ、俺にはわからない。
ひょっとしたら、全く別の付喪神になってしまうかもしれない。
でも。
今、茅女が垂れ流している“想い”は。
彼女が、ずっと、長い間、本当に永い間。
大事に大事に抱えてきたものだということを。
今の自分は、知ってしまったのだから。
――これ以上、彼女から、失わせるわけにはいかない。
だから。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
うまくいった。
うまくいった。
うまくいった。
湧き上がる歓喜に哄笑は抑えきれず。
はしたなくも勝利を確信し。
流は、己を使用人から手放させ、人の身へと変化した。
予想した通り。
茅女の弱点は「同時に2つのものを切れない」ということだったようだ。
斬りつけるのはあくまで一振り。
だからこそ、あらゆる物質、あらゆる力を切断することができる。
よって、狙うのは機会を合わせた不意の一撃。
別のものを切ろうとした瞬間に、主目的の攻撃を叩き込む。
今回は、流自身を囮に使い。
流の意を通した懐刀を、茅女に叩き込むことができた。
正直な話、流は自分が切断されることも半ば覚悟していた。
憎き茅女を、この手で殺せるならと。
愛しき郁夫を、毒牙から守るために。
自己犠牲精神のもと、己を囮にする決断を下した。
しかし。
実行してみたら、ことは思いの外うまく進み。
流自身も切断されることなく。
茅女に、致命的な一撃を叩き込むことができた。
勿論、攻撃の際に、茅女の意識は弄ってある。
叩き込んだのは「自棄」。
今の茅女は、全てがどうでもよくなっていて。
自身を守ろうという気概すら起きていないはず。
もう、あの包丁は戦力外。
これで、笑わずにはいられようか。
やはり、正義は勝つのだ。
邪魔者は消える。
あとは、瀕死の婆にとどめを刺して。
郁夫の意識を「正しい」状態に上書きして。
一件落着である。
はずなのに。
「……どうして」
ぽつり、と流の口から呟きが漏れる。
「どうして、そこに立つんですか、郁夫様」
まるで茅女をかばうかのように。
郁夫が、流の前に立ちふさがっていた。
ただ立ちふさがるだけならまだいい。
どうせ今の郁夫は、茅女によって弄られた歪な状態なのだから。
そんな郁夫が何をしようとも、今の流には響かない。
でも。
違うのだ。
立ちふさがる、郁夫の『瞳』が。
先ほどまでの、濁った紛い物ではなく。
流が求めていた、あの、まっすぐな瞳に見え――
――違う。そんなはずはない。
郁夫が流に辛く当たったのは、茅女に歪められていたからだ。
郁夫の本心は、自分を嫌っているはずがない。
だから、正常な状態の郁夫が、敵対するはずなどなく。
こんなこと、あってはならないことなのだ。
可能性を考慮することすら許されない。
正常な郁夫が、自分と敵対しようなどということは。
絶対に、ありえないことなのだ。
考えをまとめた流は、立ちふさがる郁夫に対し、そのまま距離を詰めていく。
郁夫は後だ。
まずは、あの包丁にとどめを刺さなければ。
「郁夫様」
声をかける。
表情は笑顔。
優しげな微笑みを張り付けて。
「邪魔です」
手刀を一閃。
狙いは頸。
その一撃は急所に吸い込まれ、そのまま意識を刈り取る、
はずなのに。
手が止まる。
躰が震える。
この感覚は知っている。
その原因もわかっている。
まっすぐな瞳が、こちらを見つめ続けていた。
不可解に感じてしまったら、既に遅い。
妖怪から見ても、異様としか思えない凝視。
その恐怖が、流の動きを止めていた。
だが。
その恐怖を上回る激情が。
瞬時に流の内側から湧き出てきた。
――ふざけるな。
恐怖は怒りに掻き消され。
激情の赴くままに、流は躰を動かした。
手刀を出したままの腕。
そのまま距離を詰め、肘を郁夫のこめかみに叩き込む。
当然、その程度で目を逸らす郁夫ではない。
が、頭を揺らされた影響で、視線がぶれる。
その隙に反対側の手で、胸ぐらを掴み。
重心を崩して、地面に叩きつけた。
「ふざけるな!」
攻撃と共に、気持ちが本音が口からこぼれていた。
納得できなかった。
正常に戻っているということは。
茅女に操作されていたことも理解しているはずなのに。
それでもなお。
茅女の味方をするだなんて。
そんなこと、受け入れられるはずが、ない。
だって。
ずるい。
確かに自分は悪いことをした。
焦燥に駆られ、我を失って。
郁夫に危害を加えてしまった。
でも。
それは、あの包丁も同じはずなのに。
人も物も等しく大切に扱ってくれる郁夫が。
正常な状態で。
片方に与し、片方に抗う。
それはつまり、片方のことを『特別』だと――
――そんなこと、認められるはずがない。
郁夫にとっての『特別』は自分だ。
彼とずっと一緒にいるのは自分だ。
道具として大切にされるのも自分だ。
あるいは。
――人として。郁夫の、一番に。
それだけは、譲れない。
だから、こんな現実を認めるわけにはいかず。
流は、倒れた郁夫の顔面を、何度も殴りつけた。
鮮血や折れた歯があちこちに飛び散る。
滅多打ちにされた郁夫の顔面は、もはや原型を留めていない。
それでも。
郁夫の瞳は、流を捉え続けていた。
――ああ、だめだ。
この瞳。
ずっと、独占したかった。
見つめられるのは、こわい。
怖くて怖くて、存在すら掻き消されてしまいそう。
怒りも気付けば消えていた。
恐怖に全てが塗り潰されていき、最後に残ったのは。
今。
今だけは。
私だけを、見てくれているのですね。
それだけが、嬉しかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
感触から、流が落ちたことを確認できた。
何とか、収めることができた。
こちらの怪我は尋常ではないが。
それでも、流を止めることは、できた。
顎は砕けた。
頭蓋骨にヒビも入っているだろう。
出血も大量。
でも、目だけは無事だった。
瞳術の仕組みを理解していたはずの流だったが。
どうしてか、こちらの目には手を出せなかったようだ。
理由はわからないが。
そのおかげで、止めることができた。
ならば、これで良しとすべきだろう。
それに。
今は。
『……図に乗るなや、小娘が』
いつしか聞いた。
嗄れた思念が。
夕闇を黒く染めるように、漏れ出ていた。
まだ、終わっていない。