終わりの始まり
○ ○ ○ ○ ○
その日もさゆは、人肉を調理していた。
塩漬けにされ鉛のように硬くなったそれを、ガリガリと骨から刮げ落とし、鍋に放り込む。
一刻ほど煮込み、ようやく柔らかくなってきたところで味付けをする。
その後はひたすら煮込むのみ。
歯がほとんど無くなってしまったさゆが食べられるくらいになるまで煮込まなければならない。
それに最近は、獲物がどれも痩せ細ってきているため、無駄遣いは厳禁である。
何処も余さず食せるように、さゆは念入りに煮込んでいた。
そんな、さゆの日常。
しかしそれは、この日限りだった。
義父の帰宅。
さゆはいつものように出迎えて。
いつもとは違うものに、気が付いた。
今日も義父は、“獲物”を抱えていた。
しかし、その獲物は、死んでいなかった。
瞼こそ落ちているが、その体は呼吸によって微かに動いている。
すうすうと寝入る獲物は、さゆより一回りは小さい娘だった。
既視感。
新しい娘。
ああ、そうか。
今度はこの子が、義父の新しい娘になるのか。
そして自分は。
さゆは、どうなるのだろうか。
料理を教えてくれた義母。
優しかった義母。
さゆが初めてこの家に訪れ、混乱と恐怖で頭が真っ白になっていたとき、
優しくて暖かい言葉をかけてくれた、女性。
包丁の使い方を、教えてくれた。
ここでの過ごし方を教えてくれた。
そして。
自分が初めて、捌いた。母。
――ああ、そうか。
母親のように。
自分も。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夕陽に赤く染まる裏庭で独り。
刀の付喪神は、立ち尽くしていた。
瞳は空虚。心は暗闇。
行く当てのない想いは、その重みで持ち主を潰そうとしている。
どうして。
立ち尽くし、考えるのはそのことだけ。
物を物と見ず、心を見てくれた郁夫が。
まるで心などないかのように、辛辣な言葉をぶつけてきた。
積み重ねられた想いが崩れて、滅びていてもおかしくなかった。
だが、流は踏みとどまった。
支えたのは、ひとつの疑念。
――どうして郁夫は、あのように変わってしまったのか。
郁夫に酷い言葉をかけられる直前。
そのときも、郁夫は正常ではなかった。
それはきっと、糞婆――茅女の仕業だと確信している。
郁夫に良くないことを吹き込んだか何か、小細工を仕掛けたに違いない。
でも、その後の豹変は。
小細工というには、かなり無理のある変化だった。
直前までは、嫌悪感を抱きながらも、それでも郁夫なりの気遣いが残っていた。
しかし――途中から、がらりと郁夫は変わってしまった。
それは、何故か。
何がきっかけで、郁夫は変わってしまったのか。
郁夫が変わる瞬間。
茅女が、郁夫に触れていた。
「……あれか」
ぽつり、と。
夕闇時の赤い空気に、流れの呟きがこぼれて消えた。
郁夫が変わる瞬間――確かに、茅女が郁夫に、触れていた。
さも恋人同士であるかのように、指を絡め、
がきん、と歯の砕ける音が響いた。
口の端から、鮮血が滴り落ちる。
――落ち着け。
怒り狂うのは後でいい。
それより今は、郁夫の変調について考えなければ。
郁夫は流の異能によって、流以外を持てない状態になっていたはず。
ならば、通学は勿論着替えにすら困難を来すはずだ。
なのに郁夫は先程、普通に制服を着て鞄を持っていた。
それに、使用人との雑談の中で、郁夫がそういった不調を訴えた話は終ぞ聞けなかった。
ということは――郁夫の状態は、元通りに改悪されたことになる。
異能によって変じられた状態は、異能によってしか崩せない。
ならば、それは誰の異能によるものか。
考えられるのは2つ。
まずは郁夫の瞳術だ。
全ての歪みを正させる、浦辺の家に伝わる凝視。
鏡か何かを用いて、自身の異常を直すことも、郁夫になら不可能ではないはずだ。
だが――この場合だと、郁夫の更なる変調の説明が付かない。
もうひとつは、茅女によって歪められた可能性。
茅女本来の異能は、『触れたものを切断する』というものだが、
無駄に歳を重ねているのだから、何か一つ二つ、小賢しい手を有しているのかもしれない。
先程の郁夫の瞳を思い出す。
本来の彼は、如何なるものも受け入れる、澄んだ瞳を持っていた。
物を物と思わない、綺麗な瞳が、あらゆる物を惹き付ける。
しかし。
流に瞳術を仕掛けた郁夫は。
元来の輝きを失い、濁っていた。
汚い泥が幾重にも塗り重ねられ、清澄さを覆い隠していた。
茅女が、その泥を、塗ったのだ。
「……してやる」
もう、己の感情を抑えることはできなかった。
流は激情を隠さぬまま、拳を木に叩き付ける。
「――殺してやる、あの糞婆……!」
どれだけ、郁夫を不幸にすれば気が済むのか。
奴さえ現れなければ、自分も郁夫も、幸せでいられたはずだ。
なのに、突然現れて、浦辺の家を踏み荒らしていった。
五百年級の大妖怪? そんなこと一切合切関係ない。
どんな手を使おうとも、確実にこの手で殺してやる。
「……正攻法は、駄目。あの糞婆には、厄介な能力がある」
郁夫をこの手に取り戻すため、流は茅女を屠る手段を考え始めた。
俯き気味に沈んだ顔は、夕闇の影を纏っていた。
口からは、ぽたぽたと朱がこぼれている。
「徒手では確実に掴まれる。
かといって得物を持っても触れられてしまったら意味がない――」
触れたものを切断するという能力は、これ以上ないくらいに厄介である。
単純であるが故に攻略しがたい。
かつ、こちらの被害は甚大なので、迂闊に戦闘を仕掛けるわけにもいかない。
だいたい、触れたものを全て切断できるだなんて、反則以外の何物でもない。
近接格闘で、相手に触れられずに倒すことなど、よほど実力差がない限り不可能である。
もし、茅女の能力を知っていなかったらと思うと、ぞっとする。
わけもわからぬまま、切断されて――
「――待て。どうして、あいつは、自分の能力を明かした?」
ふと浮かんだ疑念を、流は無視できなかった。
茅女がその能力を明かしたときの状況を思い返す。
――あのときは、流が切断されて、郁夫と茅女が向かい合っていた。
流に使った後なのだから、隠す必要がないと考えたのだろうか。
否。たとえ目の前で見せられたところで、その能力に確信を覚えられる者は少ない。
その詳細に対して少なかず考え込むのが常であろう。
それだけでも、十分以上に効果はある。
なのに、自分からその詳細を明かしてしまったら、その僅かな効果すら失ってしまう。
あのとき、本命である郁夫は健在だったのだ。
しかも、茅女は郁夫の能力を知らなかった。
だとすれば――どう考えても、己の能力を明かすのは、不自然である。
郁夫に未知の能力を少しでも警戒させるべきだ。なのに、そうしなかった。
「……そういえば、私を切ったときも、郁夫様のときも……」
ある可能性が、流の脳裏に閃いた。
だとすれば。ひょっとしたら。
「――試す価値は十分にある。いや、きっと、間違いない……!」
逢魔が刻に、ひとつ。
紅と影に彩られ、鬼が笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目の前には、鈍色の髪の少女。
長き時を経てなお、その想いと形を保ってきた、包丁の化身。
時折脳裏に浮かぶのは、きっと彼女の記憶に違いない。
睦事を通じて流れた想いが、こちらの脳内で再生されているのだろう。
そこまで、俺と茅女は深く関わってしまっていた。
「郁夫、どうし――」
先程の叫びを聞いたのか、やや心配げな表情で、茅女は俺の方に近付こうとした。
瞬間。
茅女は動きを止め、信じられないものを見るかのように、表情を歪ませていた。
「――な、なにゆえ、そのような瞳で、妾を、見る?」
きっと、彼女が期待していたのは、先程までの俺。
茅女のことだけを想い、他の全てを蔑ろにする。
そんな一途な俺を、彼女は求めていたのだろう。
……でも、そんな幻想は崩れてしまった。
「……茅女」
できるだけ、優しい声を出したつもりだった。
しかし、小さな付喪神は、びくりと大きく体を震わせ硬直した。
「あのな、」
「い、郁夫は!」
こちらが声をかけようとするのを妨げるように。
大きな声を、茅女は張り上げた。
「わ、わ、妾を、どうするつもりなのだ!?」
「え?」
「妾がしたことは、わかっておるのだろう?
そ、それを咎めるのか?
とが、咎めるならそれは構わない。ど、どんな罰でも甘んじて受ける!」
必死の形相で詰め寄る茅女。
その剣幕に余裕はなく、何かに追い立てられるかのように言葉を紡いでいた。
だから、と。茅女は想いを口にする。
「妾を、す、捨てないで……!」
その想いは、あまりにも切実で。
こちらの心を締め付けるような哀しみを纏っていた。
「な、何でもする! 郁夫が望むことなら如何なる事も拒まぬ!
罵倒だって甘んじて受けよう! ヌシにはその権利がある!
口汚く罵ってくれて構わない。壊れる寸前まで妾のことを痛めつけても文句は言わぬ!
だから、だから……妾を、捨てないで……もう捨てられるのは、嫌ぁ……」
どうして、茅女は。
こんなにも、必死に許しを乞うのだろうか。
俺は正直なところ、今回の件に関して、誰にも怒りを覚えていない。
流に対しても、茅女に対しても。
そんなことより、俺自身がしでかしたことの方が、どう考えても悪質だろう。
心を操られていただなんて、ただの言い訳に過ぎない。
生まれたばかりの、幼い付喪神の不安を解消してやれなかった。
何かを長年抱え続けてきた付喪神の、負い目に気付いてやれなかった。
そして、その結果が、今だ。
流には口汚い罵倒を投げかけてしまい、茅女には今のような悲痛な表情をさせてしまっている。
流や茅女が俺にしたことなんて、可愛いものだ。
誰にだって、魔が差すことくらい、ある。
それを許してやれなくて、どうする。
過ぎてしまったことは仕方ない。
それより、まずは目の前で震える茅女に対して何か言わなければ――
そう思い、口を開きかけた、瞬間。
茅女が、こちらに手を伸ばした。
それは、縋りたくて無意識に伸ばしたのか。
それとも、再び俺の意識を弄ろうとしたためか。
わからないが、俺は茅女の指が、こちらの意識を自由に操れることを知っていたので。
意識はそちらに集中し、それ以外が目に入らなくなってしまった。
きっと茅女も、俺のことで気持ちが一杯で、他のことなんか気にする余裕もなかったのだろう。
だから。
二人とも、反応することができなかった。
手を伸ばした茅女。
その後ろに、一振りの刀を持った女性が。
得物を、大きく振りかぶって。
一閃。
神速とも呼べる一撃。
このような斬撃、出せる者は限られている。
刀を持つ女性は、年配の使用人。
この屋敷に長く勤めている彼女だが、剣術を修めていたという話は聞かない。
手に持つ刀は、見覚えのあるものだった。
「……流……」
俺が刀の名前を呟いた瞬間。
ごろり、と。
鈍色の頭が、床に落ちた。




