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後悔

 


 ○ ○ ○ ○ ○


 

 さゆの日常は、季節が幾たび巡ろうとも、変わることはなかった。

 外に一度も出ないまま、垢と脂にまみれた風体で。

 毎日、まいにち、人肉を調理する。

 そこに疑問は挟まれない。

 骨からスジを引き剥がし、皮を剥いで脂身をこそぎ、内蔵は水抜きしたあと塩に漬ける。

 うまくやれば義父は何もしてこない。

 不手際があると、殴られるか犯される。

 痛いのは嫌いなさゆなので、失敗しないよう、とにかく頑張る。

 それでも、義父の機嫌が悪いときは、頑張りに関係なく罰を与えられるため。

 目を瞑って現実逃避するのにも、もう慣れた。

 手足の伸びも止まり、あとは娘を産むか、新しい娘がやってくるまで、人肉の調理を続けるだけ。

 

 そんな、ある日のこと。

 

 いつものように、義父の狩ってきた獲物を解体していたさゆに。

 ふと、声がかけられた。

 

『て、いたくないのか?』

 

 突然聞こえてきた声に、さゆは目を白黒させた。

 義父の声ではない。そもそも義父は狩りに出ているので、家にはさゆ一人のはず。

 なのに。

 

『いたくないのか? いつもかたくて、たいへんであろう?』

 

 声は、まるでさゆを気遣っているかの如く。

 優しく、少女の心に響いてきた。

 

 手元の、包丁から。

 

『てつだわせて』

 

 幼子のような純粋な声が。

 染み渡るように、想いを伝えてくる。

 

 そういえば、と。

 さゆは、母の言葉を思い出していた。

 

 ――この包丁は、うちの婆がお前くらいの頃からあったものでな。

 ――大事にせないと、あかんよ。

 ――きっと、ヌシ様が宿っておるからの。

 


『さゆのて、あたたかいから、すき』


 

 包丁に宿った神様は。

 暖かい想いを、さゆにくれた。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 

 苛々する。

 廊下を足音荒く突き進み、ようやく辿り着いた自分の部屋。

 研修中のがらくたどもが、騒々しく俺を迎えた。

 

 あまりに鬱陶しかったので、蹴り飛ばした。

 

 ――手に持つ道具を足蹴にしてはいけない。

 彼らは人の手に馴染むために作られた物。

 故に、それは存在を否定することにも繋がってしまう。

 積み重ねられた想いすら傷つけてしまう、蛮行だ。

 

 なのに。

 

 どうしてか、連中を蹴り飛ばした瞬間。

 脳に溶けた砂糖を流し込まれたかのような快感を覚えた。

 

 きもちいい。

 

 ああ、そうか。

 つまり。

 こいつらをぞんざいに扱えば。

 俺は、この不快感から解放されるのか。

 

 

 いや、まて。

 

 

 ひとつだけ。

 ひとりだけ、例外が存在した。

 

 包丁の付喪神、茅女。

 

 彼女だけは、俺に不快感を与えない。

 それどころか、幸せな気分にさえ、させてくれる。

 茅女さえいれば。

 俺は、俺を保っていられる。

 彼女の温もりが、彼女の想いが。

 俺にとっては、欠かせないものになっていた。

 

「そうだ」

 

 ふらり、と立ち上がる。

 部屋には自分一人。

 先程の狼藉に恐れを抱いたのか、付喪神は一匹たりとて残っていない。

 

「茅女。茅女はどこだ?」

 

 茅女に、会いたかった。






  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 

 包丁の付喪神は。

 ひとり、ほくそ笑んでいた。

 

 ――先程の、郁夫の流への対応。アレは出来過ぎた。

 

 自分でも驚くほどの仕込み具合。

 もはや、郁夫の心の中に、流はいない。

 ただの物――否、それ以下になっている。

 そして、茅女は――

 

「は、ははは、あはははははは……!」

 

 堪えきれなかった。

 茅女は、手に入れたのだ。

 

「今度こそ、今度こそ、手放すものか……!」

 

 

 最初は、気まぐれだった。

 房中術を施す直前までは。

 純粋に、郁夫のことを気遣い、元通りに戻すだけのつもりだった。

 

 だが。

 少しだけ、魔が差してしまった。

 

 ふと、浮かんでしまったのだ。

 物を持てなくなってしまった郁夫を見て。

 おそらく、流だけを持てる状態になってしまった様を見て。

 

 ――郁夫が、妾だけを大事にしてくれたら。

 

 だから、少しだけ。

 郁夫と気持ちを合わせながら。

 茅女は、心の片隅で、願ってしまった。

 

 

 ――妾を、一番に。

 

 

 それは、劇的なまでに効果があった。

 目覚めた朝、郁夫が茅女を見つめる瞳は。

 茅女を真っ直ぐ、見据えていた。

 

 妖怪を狂わせる魔性の瞳が。

 茅女を大事にする想いで、満ちていたのだ。


 一度その味を知ってしまうと。

 もう、茅女は戻れなかった。

 

 体を重ねるたび。

 郁夫の心に、一塗り、一塗りと、重ねていき。

 気付いたときには、自分の色に、染めてしまった。

 

 房中術は、性交を通じて心を重ね合わせ、その内実を弄るもの。

 最初の頃こそ、性交は男根と女陰を触れさせることのみが性交と思っていた茅女だったが。

 回数を重ねるごとに、行為の幅は広がっていき。

 現時点では、指を絡めるだけで術を為し得るまでなった。

 

 つまり。

 

 今の茅女は、郁夫と手を絡めるだけで。

 自在に、その心を、操作できるということだ。

 

 

 先程の流の顔。

 アレは、傑作だった。

 郁夫が自分のものだと信じていたのに。

 それが裏切られ、己の世界を崩しかけていた。

 

 幼い心を露わにして。

 信じていた者に報われず。

 絶望に身を浸していた。

 

 

 ――何故か、吐き気がした。

 

 

「……ッ!

 今度こそしくじらぬぞ! 郁夫はあれとは違う!

 あの心の強さならば、一度決まったことは外圧さえなければ歪まぬはずだ!

 ――小娘が失敗したのは、その力が己だけのものと想い違えた故じゃ。

 妾は二の轍は踏まぬ。細かな修正を重ね、大幅な書き換えはこの身で防ぐ。

 幸いなことに、小娘の能力は直接的なもののようだ。

 ――郁夫に近付いた瞬間、細切れにしてやれば事足りる」

 

 

 流の能力にさえ気を付ければ。

 郁夫の瞳は茅女だけのもの。

 

 ――そう、信じていた。






 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


「……茅女……茅女……」

 

 ふらふらと。

 裸足で廊下を、彷徨い歩く。

 足下が覚束ない。視界が歪んでいる。

 茅女に会いたかった。

 彼女がいないと、狂ってしまいそうだ。

 早く会って、言葉を、身体を、交わしたかった。

 きっとそれだけで、楽になれる。きもちよくなれる。

 

 茅女さえいれば。

 あとはいらない。

 

 他は全部邪魔なだけ。

 茅女以外の全ての存在は死ねばいい。消えればいい。殺してやる。

 ――殺す。

 ああ、そんな簡単な方法があったんだっけ。

 全部ぜんぶ、睨み殺してやればいい。

 茅女以外の全てが消滅すれば、世界はきっと素敵になる。

 今のような不快感は消え、ずっとずっと、気持ちいいまま。

 

 いいな、それ。

 

 じゃあ、殺すか。

 

「――ひ、ひひひ、きひひひひヒヒヒッ!」

 

 いけない。

 あまりに素晴らしすぎる妄想をしてしまったため、すっかり昂っていた。

 そうだ。

 殺そう。

 俺には瞳術がある。

 ただ見つめることに集中した、全ての存在を揺るがす異端。

 逃れられるものはない。

 浦辺の瞳に捕らえられたが最後、如何なる怪異も霞と消える。

 

 そうだな。

 まずはこの屋敷にいるやつらを、皆殺しにするか。

 殺す。

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す睨み殺してやる――!

 

「ヒヒヒヒヒヒィィィイイイイイアアアアアッッッ!!!」

 

 殺した後のことを考えて、ハイになってしまった。

 手足を滅茶苦茶に振り回す。

 右手に鋭い痛み。ガラスの割れる音。

 いけない。どうやら窓を叩き割ってしまったようだ。

 硝子で切れた手の甲から、真っ赤な鮮血が滴り落ちる。


 怪我は大したことない。

 舐めておけば治るような、小さなものだ。

 ――そうだ、それなら茅女に舐めてもらおう。

 逆に興奮して出血量が増えてしまうかもしれないが。

 茅女の小さな舌が、ちろちろと傷口の周りを這う。

 ……想像するだけで、イッてしまいそうだった。

 

 下着の内側を我慢汁でベトベトにしながら。

 とにかく誰かを睨み殺そうと。

 血走った目で視線を巡らせ――

 

 

 ふと。

 

 あるものが。

 

 視界の端に。

 

 

「……ッ!?」

 

 その場で盛大にすっ転んだ。

 ガンガンと頭が内側から叩かれている。

 ミキサーの回転刃でも仕込まれたか、脳がぐちゃぐちゃにかき回されていた。

 

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 

 茅女。

 茅女に会えば、きっと。

 

「――う、げええええええええええっ……!」

 

 胃の中のものを全て、その場にぶちまけてしまう。

 何度も胃がひっくり返り、喉も灼けるように痛かった。

 

 まただ。また、苛々する。

 体の内側からガリガリと引っ掻かれていた。

 気色悪い痛痒さが、いつまでも外に出られず燻っている。

 

「……ぐ……が……!」

 

 ぶるぶると全身が震えてしまう。

 なんだこれは。

 なんだこれは。

 わからない。

 わからない。

 

 なんで。こんなにも。

 

 こわいのか。


 ふらふらと。

 

 何もかもが曖昧なまま。

 

 怖くて。何かが怖くて。

 

 あまりにも怖くて。

 何でもいいから睨み殺そうと。

 一切制御のかかっていない瞳術を垂れ流しにして。

 

 ふらふらと。

 

 廊下をひとり。

 彷徨い歩いていた。

 

 そして。

 

 

 それを、見た。

 

 

 体格は自分と同じくらい。

 服装もそっくり。

 顔つきも、よく知る者だった。

 

 よく知る者なのに。

 今は――とても、怖かった。

 

 

「……う」

 

 がたがたと全身が震えている。

 内側から激しく掻きむしられている。

 このままでは。

 内側から、得体の知れない何かが。

 俺を、破って――

 

 

「うああああああああああああああっっっ!!!」

 

 

 絶叫が喉から捻り出された。

 

 怖かった。

 何よりも怖かった。

 

 

 ――“鏡”に映る自分の瞳が。

 

 

 とても、怖い――



 パキン、と。

 なにかが、壊れた気が、した。

 

 瞬間。

 

 ――世界が、変わった。

 

 

 ただ見つめられているだけ。

 しかしそれは、あらゆる事象を優先しての行為。

 たとえ己が殺されようとも、決して逸らされることのない凝視は。

 あらゆる不可解すら超越し、全ての歪みを正させる。

 

 

 めきめきと頭蓋が歪む錯覚。

 幾重にも塗りたくられた怪異が、べりべりと引き剥がされていく。

 一枚剥ぐごとに、心は元の様相を取り戻し。

 何度も瘡蓋を剥がしているかの如く、鋭痛を繰り返し刻み込まれる。

 

 

 そして。

 

 自分が、狂っていたことに、気が付いた。

 

 

 何をしていたのか思い出す。

 それは主観的な記憶ではなく。

 客観的に、自分が何をしていたのか、考えた。

 

 

「うわあああああああああああっっっ!!!」

 

 

 衝動的に。

 自分の頬を、全力で殴った。

 

 奥歯が折れ、頬の内側が裂ける。

 口いっぱいに鉄錆の味が広がった。

 

 

 俺は。

 

 何てことを。

 

 してたんだ……!



「――流……っ!」

 

 記憶に、はっきりと残っている。

 

 捨てられた子犬のように。

 ぶるぶると震える、付喪神の幼子。

 信じていた者に裏切られ。

 絶望に、身を浸していた。

 

「……馬鹿野郎……ッ!」

 

 そんな流に。俺は。何をした!?

 蹴り飛ばし、罵倒し、睨み付けた。

 ふざけるな。

 ただ純粋なだけの、俺を慕う、付喪神。

 俺はアイツを、この上なく、傷つけた――

 

「畜生ッ!」

 

 自省は後だ。

 大馬鹿野郎を痛めつけるのは、後で好きなだけやればいい。

 今はとにかく。

 想いをズタズタに引き裂かれたであろう付喪神の所へ……!

 

 

 そう思い。

 居ても立ってもいられず、駆け出そうとしたところで。

 

 

「……郁夫? 今の叫びは如何なることか――」

 

 

 背中にかけられた声は。

 聞き覚えのあるものだった。


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