郁夫の想い
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一歩。
ほんの一歩が、踏み出せなかった。
ぎちぎちと脳が軋んでいる。
歯が上手く噛み合わず、顎が奥に引っ込んでいた。
それでも表情は崩さぬように、と必死になり、結局顔は歪んでしまう。
ぞわぞわと。
胸の裡を逆撫でする、黒い靄。
うっかり口を開いたら、思わず吐き出してしまいそうで。
言葉を発することすら難しい。
目の前には、驚きを隠せていない少女が一人。
その瞳は恐怖に染まり、震える子犬のように弱々しかった。
――なにか、声をかけてやらなければ。
彼女のことはよく知っている。
とても強いが、心はまだまだ不安定。己の在り方を上手く決められていない幼子だ。
本来の使われ方をされずに心を宿したのだから、有り様は歪んで当然である。
そんな彼女だからこそ、酷い目に遭わされても尚、信じてあげたい気持ちになった。
そう。俺はこいつのことを信じている。
なのに。
「……い、郁夫、さま……?」
一歩。
ほんの一歩、目の前の少女が踏み込んできた。
気付いたときには既に遅く。
俺は、一歩、退いていた。
瞬間。
その顔に刻まれたものを見て。
どうしようもないくらい――自分を殺したくなった。
初めて会ったときは、単に気の食わない奴だった。
しばらくしてからは、可愛いと思うようになり。
ついこの間までは、信頼できる師にして相棒だった。
――流。
お前が俺を刺して。
俺の心を弄った後でも。
お前のことは、どうしても憎めなかった。嫌いになれなかった。
親しみは色褪せることなく、気の迷いは笑って許してやろうとさえ思ってた。
はずなのに。
何故だろうか。
今は、お前のことが、とても――
――やめろ、それ以上考えるな。
頬の内側を強く噛む。
痺れる痛みと、鉄錆の味。口の中に鮮血が広がった。
今更遅いとは思いつつも、心を必死に押さえつけ、俺は流に一歩近付く。
笑ってみせる。今度こそ。今度こそ、自然な笑顔を浮かべられたはず。
目の前の少女は、謹慎をくらう前と何一つ変わっていない。
とても強くて、信頼できる、刀の付喪神だ。
だから。前のように接せられるはず。
「――悪い。いきなりすぎて、びっくりした。
今日、謹慎が解けたんだっけか。またこれからも、よろしくな」
流との距離を縮めるために。
一歩踏み込む。
それだけで、どうしてか背筋がじわりと湿る。
気にせずもう一歩。
いつの間にか、拳を握り込んでいた。
気付かないようにしてもう一歩。
流のいるところまで、あと十歩はかかりそうだ。
とても、遠い。
遠すぎる。
それでも何とかもう一歩を踏破しようとしたところで。
流がこちらに向かって、一歩詰めた。
耐えろ。
逃げるな。
後ろに下がる理由なんて何処にもない。
でも、
でも。
体は自然と身構えて。
目の前の、泣きそうな顔をしている少女を。
俺は――
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
流は、郁夫に向かって近付こうとした。
彼女が踏み込むたびに、愛しき相手は遠ざかろうとしてしまう。
それが、とても痛くて。
一歩踏み出すたびに、大事な何かがガリガリと削られていく。
それでも。
それでも、郁夫に近付きたくて。
流は、潤んだ瞳を郁夫に向けた。
と。
まるで、そんな流を嘲笑うかの如く。
流は、最も見たくないものを、目の当たりにすることに、なった。
「――おお、郁夫。帰っておったのか」
流の背後。
虫酸の走る声が、流を通り越して、郁夫に投げかけられた。
流は、振り返ることができなかった。
何故なら、前方を凝視していたから。
流の目の前。
久方ぶりに会う刀の付喪神を前にして、子犬のように怯えていた少年。
それだけでも、酷く心を傷つけられたのに。
郁夫は、流の後方より聞こえた声に。
救われたような顔をして。
流には見せてくれなかった、心からの笑顔を。
流ではない、後ろの輩に向けていた。
――郁夫様。それは、どういうことですか。
心がぎちぎちと軋みを上げている。
砕けてしまいそうなものを必死に押さえ込み、それでも隙間からこぼれてしまう。
おかしいな。
自分は、幸せになるはずだったのに。
郁夫は自分のことしか持てないはずなのに。
他のものなど、いらないはずなのに。
なのに。
どうして。
流の脇を、鈍色の長髪が通り過ぎた。
衝動的に、掴んで引き千切りたくなってしまう。
何故なら。
横を通り過ぎる一瞬。
その顔は――嗤っていたから。
「た、ただいま茅女」
「寄り道しないで帰ってきたようじゃの。ふふ、愛い奴め」
「べ、別にお前のために早く帰ってきたわけじゃ――」
「照れるでない。それとも、催促しているのか?」
艶めかしい笑顔を浮かべて。
包丁の付喪神が、郁夫にべったりと張り付いていた。
なんだこれは。
なんだこれは。
信じたくなかった
信じられなかった。
郁夫は自分のものなのに。
自分だけのものなのに。
そう、弄ったはずなのに……!
息が荒れる。
胸が苦しくなる。
拳が握り締められて、爪が掌を破っていた。
ふと、振り返った茅女と、目が合った。
瞬間。
流は、悟った。
こいつのせいだ、と。
茅女は枯れかけの朝顔のように、醜く郁夫に絡みついている。
恥ずかしげもなく指を絡め、爪が掌を擦っていた。、
郁夫はそれに対し、特に嫌がる風もなく、茅女の行為に任せるまま。
有り得ない光景に、流の頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
これは異常だ、と流は思った。
茅女のせいで、こうなったのだ、と。
方法はわからない。
しかし、何らかの手段で、茅女は流の努力を踏みにじり。
血涙が出そうなほど羨ましいものを、手に入れていた。
許せない。
許せるはずが、なかった。
――茅女は、幸せを壊す害虫だ。
流の中で、その認識は確固たるものとなり。
謹慎明けだとか実力差だとか、些事は頭の中より消え去って。
目の前の妖怪を縊り殺すことに、欠片も躊躇いを覚えなかった。
もう、こんなやつ、いらない。
ころしてやる。
どう戦うか、どう殺すか。
そんなことすら全く考えずに、流はただ殺意のみで、一歩踏み出した。
その、瞬間。
「……ッ!?」
踏み出そうとした足が固まった。
指先がぴくりとも動かなくなる。
周囲の空間が歪められたかのような錯覚。
粘性の空気に全身を固められていた。
1ミリでも動かそうとすると、硬い電撃に焦がされそうな、そんな感覚。
――覚えのある、感覚だった。
殺気や敵意とは全く違う。
妖怪にすら不可解な、視線に特化された一点集中。
それに捕らわれたら、如何なる妖怪でも、逃れることは叶わない。
気付いたときには既に遅く、不可解の恐怖に絡め取られていた。
瞳が。
郁夫の瞳が、流を捕らえていた。
先程までの恐怖とは、比べものにならない、圧力。
郁夫の視線に射抜かれて、全身を押し潰されそうな圧迫感。
体の端から、ぎじぎじと引き千切られているような錯覚。
紛う方なき、浦辺流瞳術だった。
動き出そうとしていた流を。何の容赦もなく、制圧しようとしている視線だった。
――どうして。
それは、浦辺の家が、長い年月を掛けて完成させた異能の極み。
――どうして、郁夫様は、そんな目で。
対象を見つめ続けることのみで、あらゆる怪異にすら対抗しうるものへと昇華した。
――私を、見るのですか。
浦辺流瞳術が。
流をその場に、縫い止めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目の前には、驚きを隠せていない付喪神が一体。
その瞳は困惑に染まり、尻尾を巻いた野良犬のように惨めったらしい。
――こんな奴、この場で消し去ってしまいたい。
彼女のことはよく知っているが。
だからといって、情けをかけてやろうという気には、どうしてもなれなかった。
茅女に不躾な視線を送りやがったのだから、今すぐ殺されても仕方ないはず。
だか、腐っても長い付き合いである。今回だけは軽くお灸を据える程度に留めてやろう。
まったく。茅女と比べるにも値しない、腐りきった付喪神である。
なのに。
「――これ、郁夫。斯様な眼で其奴を見るでない。
妾は特に気にしておらぬ故、許してやれ」
「……まあ、茅女が、そう言うなら」
言われて、渋々、瞳術を解いた。
あんな殺気を向けられたのに。
茅女は気にすることなく、あっさり許してしまっていた。
器の違いがよくわかる。
流のような小者に今まで懐かれていたことが、今では恥としか感じられない。
見つめ続けるのも吐き気がする。早く視界から消えて欲しい。
しかし。
瞳術を解かれて自由になった付喪神は。
何故か目に涙を溜めて、必死そうにこちらに駆け寄ってくる。
「……郁夫様! どうして、どうして――」
「近付くなよ、なまくら」
汚らわしい手が触れようとしてきたので。
強引に振り払い、ありのままの気持ちをぶつけてやった。
すると、どうしたことだろうか。
付喪神は、その場に立ちつくし。
両の目から、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「――なんだよ。
刀として使われなかった出来損ないが。
今度はいっぱしに人間の真似か?
気持ち悪いから、さっさと消えてくれないか」
「い、いく、郁夫様、
ど、どうし、どうして、そんなこと」
「近寄るなよ。穢れる。
そもそもお前は、研修を終えてる身なんだから、この家にいる必要もないはずだろ?
なのに我が物顔で居座りやがって。迷惑なんだよ。さっさと出て行け」
「で、で、でも、わ、わたし、
郁夫様に、け、剣を――」
言いながら、再びこちらに縋り付こうとする。
ウザかったので、腹を蹴って突き放した。
そして、隣の茅女を抱き寄せる。
「――ああ。もう、お前に教わる必要なんかない。
これからは、茅女が俺に教えてくれるからな。
茅女の足元にも及ばないなまくらは、さっさと消えて野垂れ死ね」
そう言って、顔に唾を吐きかけた。
付喪神は、何故か傷ついたような表情を見せた。
――苛々する。
――頭の奥が、じんじんと疼いていた。
「郁夫。そう怒るでない。
とりあえず其奴も色々と考えることがあるだろうて。
今は放っておいてやれ」
茅女に言われて我に返る。
そうか、俺は怒っていたのか。
何故怒っていたのかはよくわからないが、頭の奥が疼くのは、そのせいだろう。
茅女と繋いだ手のひらで。
小さく柔らかな指先が、こちらの指の股を撫でてくる。
それだけで、気持ちよかった。
温かな感触が、手から全身に伝わっていく。
その温かみが、頭の中のノイズを綺麗に一掃してくれる。
刀の付喪神が。
未練がましそうな目で、こちらを見上げていた。
虫酸が走る。
目の前の、泣きそうな顔をしている付喪神を。
俺は、心の底から、殺してやりたいと思っていた。