裏切り
○ ○ ○ ○ ○
外は命の芽吹く春。
しかし、さゆは外に出ることを許されず。
今日も今日とて、肉を切る。
さゆにとっての四季とは、過ごしやすいかどうか、それだけだ。
故に春は熱くもなければ寒くもなく、虫もそれほど湧いてこない時期なので、
さゆは四季の中では春が一番好きだった。
塩漬けにされた肉は時期を問わずして硬いのだが、
熟成されるのも早くなるので、鋸を使わずに包丁だけで済む日も多い。
今日も、包丁で済んだ日だった。
こりこり、と骨と筋を繋ぐ部分を刃元で断つ。
べり、と筋張った肉を引き剥がし、そのまま水を張った壷へ入れる。
塩抜きが済んだら、あとは切り刻んで薫製にするだけなので、
今の時期で一番大変なのは骨と肉を分離する作業だけである。
難しい作業が少ないので、失敗することも滅多になく、
義父に歯が折れるまで殴られることもない。
冬の終わり頃に殴られたとき、とうとう前歯が全部無くなってしまったので、
これ以上折れてしまっては食事すらままならなくなってしまう。
春はいいなあ、と。
さゆは肉を引き剥がしながら、そう思った。
そのとき。
背後の扉が、荒々しく引き開けられた。
義父だった。
食事の準備は既に半ばを終えている。
今日は折檻されずに済みそうだ、と気を抜いた瞬間、頬を張られた。
義父は、帰宅後すぐに食べたい気分だったらしい。運が悪かった。
頬に居座る痺れを我慢しながら、さゆは急いで夕餉の支度を進める。
と。
義父が、今日の“獲物”を手にぶら下げていた。
今回のは大物だな、とさゆは思った。
いつもは自分と同じくらいの大きさなのに、
今日のは義父と同じくらいの大きさだった。
これならしばらくは食料に困ることはなさそうだ、と。
さゆは、義父の担ぐ死体を見て、そう思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ッ!?」
跳ね起きた。
心臓が早鐘を打っている。
冷たい汗が止まらない。
夢の記憶は鮮明で、男が抱えていたものも即座に思い出せた。
――人間の、死体。
少女の置かれていた環境も、特殊と言って差し支えないが、
何より、少女が死体を“食料”だと認識していたことに、俺は驚きを隠せなかった。
……何なんだよ、この夢は……。
頭を抱えてそう思うが、実のところ、大体の想像は付いている。
この夢を見るとき、決まって、俺の隣に特定の奴が寝ているからだ。
茅女。
包丁の付喪神で、齢500に達する大妖怪。
その過去は一度も聞いたことはないが、
きっと、俺の見ている夢は、こいつの記憶が元になっているのだろう。
房中術で心を繋げた結果、茅女の想いも俺の中へと流れ込むようになっている。
その中に紛れ込むように、茅女の過去が見えているのかもしれない。
ということは、夢の少女が持っていた包丁が茅女なのかもしれない。
では、あの少女は、茅女と一体どんな関係なのか。
義父に虐げられ、人肉を調理する少女。
己の境遇に疑念を挟むことなく、ただひたすら作業をこなす。
その道具のひとつが、茅女ということなのだろうか。
しかし、その内容の鮮明さから鑑みるに、ただの持ち主と道具の関係だったとは思えない。
茅女から夢という形で伝わってきている想いは、とても強い。
数百年の時を経ても未だに薄まらない想い。
――憎き憎き卜部の家よ。
――ヌシ等に復讐せんが為に、
――妾は長き時を生き延びてきたのだからな!
ひょっとしたら。
夢の少女が、茅女の復讐心に何かしら関わっているのかもしれない。
だとすれば。
過去、茅女と少女の身に、一体何が起こったというのか。
「……って、茅女のことばっか考えてるな、最近」
横でこちらの想いなど気付いてなさそうに、安らかに眠る付喪神。
その穏やかな寝顔を見ると、何故だか心が温かくなってしまう。
茅女と初めて身体を重ねてから、俺はその身体に夢中になった。
猿とは言うなかれ。これでも健全な男子なのだ。
気持ちいいことを覚えてしまい、しかもその相手もそれを望んでいるのだから、
性欲の固まりのような青少年に、我慢しろというのは酷な話だろう。
っていうか我慢できねえよ。
茅女かわいいし。やわらかいし。
……やべ。また勃ってきた。
寝る前にあれほど酷使したというのにもかかわらず、息子のなんと元気なことか。
我ながら、ここまで深い仲になるとは思ってもいなかった。
流との固い信頼関係とは違う、なんというか、甘くて暖かい絆のような感覚だ。
もともとは、流が弄った俺の心を修正するために行われた睦事は。
今や毎晩茅女が寝室に侵入してきて、ただ純粋に楽しむためのものになっていた。
嫌というわけではない。
とても気持ちいいし、回数をこなすたびに、どんどん茅女のことが愛しくなっていく。
でも。
意識の多くが茅女のために費やされるようになってきて。
ふと、忘れそうになってしまうことがある。
そもそもこのような状況に至った原因。
――俺の心を弄った流は、今頃どうしているのだろうか。
聞いた話によると、離れで謹慎中とのことではあるが、
事件から既に一月近く経過しているのだから、そろそろ解放されてもおかしくない。
以前は毎日のように親しく接していた相手と、こうも長く離れてしまうとは。
流のやつ、今頃何をしてい――
きゅ、と指を掴まれた。
視線を落とすと、寝返りを打った茅女が、俺の腕に抱きついてきている。
その小さな手は、まるで凍えた子どもが暖かいものを離すまいと必死にしがみついているかのようで。
つい、頬が緩んで頭を撫でてしまう。
すやすやと寝息を立てている茅女を起こさぬように、起こした体を静かに戻し、目を閉じる。
誰かのことを考えていたような気もするが、
横の暖かさに眠気を誘われ、そのまま深い眠りへ落ちた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――今日で、謹慎が終わる。
先日、浦辺家当主である秋夫より伝えられ、流は今日という日を心待ちにしていた。
付喪神なので睡眠は要らず、昼夜問わず、常に一人のことを考えていた。
郁夫様。
――長い間、傍を離れて申し訳ありません。
――つい気を高ぶらせて襲ってしまい申し訳ありません。
――本能の赴くままに心を弄ってしまって申し訳ありません。
流は己の所行全てに反省していた。
その想いは秋夫にも伝わったようで、彼が謹慎終了を渋ることはなかった。
人にほとんど使われなかった付喪神特有の、一時的な気の迷いだと判断したようである。
確かに流は反省していたし、己が郁夫に対して不誠実な行いをしてしまったことも認識している。
しかし。
同時に、このようにも思っていた。
――もう、二度と離れません。
――これからは郁夫様に襲って頂きます。
――郁夫様の御心は私がしっかりと管理しますので、ご安心を。
己の刃で郁夫の心を操ることができるのだから。
郁夫がこの先、どのような泥棒猫に惑わされようとも。
脇目も振らぬよう、都合のいいように心を操作すればいい。
そうすれば、郁夫は永遠に自分のもの。
想像するだけで達してしまう。
流は、郁夫との“幸せな”生活を信じて疑わなかった。
謹慎終了といっても、ただ座っていただけで、特に何も課されていないので、
流は何事もなかったかのように立ち上がり、迎えに来た使用人に会釈をする。
顔見知りの使用人だったため、向こうも表だって怯えるということはなく、
のんびりと世間話をしながら、流は母屋の方へ進んでいった。
時刻は昼を少し回ったところである。
郁夫の怪我は完治したとのことだから、今は学校のため不在だろう。
流は逸る気持ちを抑えながら、とりあえず普段通りに戻れるように、使用人の手伝いをした。
流が得意なのは水回りと掃除全般。
女性の使用人が多いこの屋敷、力仕事のできる流は、特に掃除で頼られていた。
元が道具の身としては、刀本来の用途ではなくとも、頼られるというのは純粋に嬉しくなる。
故に、一月の謹慎で少なからず凝り固まっていた感情が、徐々に柔らかくなっていく。
自然と、他の使用人との雑談も楽しくなっていた。
――ふと。
一緒に掃き掃除をしていた女性が、こんなことを言った。
「最近は、茅女さんも手伝ってくれるのよ」
箒の柄を握り潰しそうになってしまうのを、必死で抑えた。
――また、私の居場所を。
奥歯を噛みしめ、しかし表情は普段のまま。
――大丈夫。もう郁夫様には私だけなのだから、それ以外は糞婆に譲ってやっても構わない。
茅女は流の乱心の際、郁夫を発見した功績がある。
そのことから、初日の流血沙汰から忌避されていた空気が薄まり、
この一ヶ月で多くの人間の信用を得てきていた。
みんな騙されている、と流は思った。
茅女はそんな殊勝な輩ではない。
腹の中はどす黒く、郁夫やその周囲への点数稼ぎしか考えてないに違いない。
そもそも茅女さえいなければ、自分と郁夫の幸せな生活が邪魔されることなどなかったはずだ。
もし茅女が自分より年下の弱々しい器物だったら、迷うことなく叩き壊すが。
生憎なことに、相手は五百年物の付喪神。
今の流では対抗するには力不足である。
しかし、無理に力で対抗する必要はない。
今の流には、“刺した者の心を操作する”という能力がある。
これを上手く活用すれば、あんな切ることしかできない包丁なんて、邪魔者以外の何ものでもない。
茅女に対する歪んだ優越感を抱きながら、
流は、一月前と同じように、使用人の家事を手伝っていた。
そして、流れるように時間は過ぎ。
そろそろ郁夫が帰宅するであろう頃合いになると、流は落ち着かなくなってきた。
そわそわする流を微笑ましいと思った使用人は、流に玄関周りの片付けを頼んでくれた。
足取りも軽く、玄関に向かう流。
郁夫が帰ってきたら何と声をかけようか。
久しぶりに流を見た郁夫は、どのような表情をするか。
酷いことをしてしまった自分だが、絶対に郁夫には嫌われていない自信があった。
何故なら、郁夫は平等だから。
人にも者にも全て等しく接する彼は、たとえどのような悪行を働かれようとも、
それが悪意に基づくものでない限り、必ず許してしまうところがある。
故に、流は安心して、郁夫を出迎えることができた。
はずなのに。
「ただいまー」
流が玄関に辿り着く直前、引き戸の開く音が響き、愛しき相手の声が聞こえた。
思わず駆け足になり玄関に向かってしまう。
逸る心は抑えきれず、一月の間会えなかった人の姿を、一秒でも早く見たかった。
そして、玄関へと辿り着く。
そこには、靴を脱いでいる学生服の郁夫がいた。
「郁夫様っ!」
こちらに背を向け、上がり框に腰を下ろしていた少年は、
流の声に、ゆっくりと振り向いた。
そして、郁夫が、流を、見た。
瞬間、流の身体は氷となる。
感情も思考も凍り付き、指先まで硬直する。
それは、想像すらしていなかったことだった。
それは、ありえないはずのことだった。
今見ているものが信じられなかった。
「…………ぅ……ぁ……」
驚愕に全身を支配され、流は何も言うことができない。
やがて、郁夫が口を開く。
「……ひ、久しぶりだな、流」
その表情は、紛う方なき作り笑い。
ある感情を必死に押し込めているのが容易にわかる。
それを、流は信じたくなかった。
郁夫が今、必死に押し隠している感情。
郁夫が先程、露わにした感情。
それは、流の喜びを打ち砕くには十分すぎた。
嫌悪。
郁夫から初めて向けられたそれに、流は立ち竦み、震えていた。