嫌な予感
その後、先輩と一緒にスポーツドリンク用のプラスティックコップを洗って、人数分並べて用意し、選手達に休憩を伝えた。
「はあ~!生き返る!」
龍也は勢いよくコップを空にして汗をタオルでぬぐった。まだ春だというのに結構な量の汗をかいているところを見ると、名門サッカー部の練習はやはり相当ハードなのだろう。
「龍也大丈夫?もう一杯いる?……うわっ」
座り込んでいる龍也の顔を覗き込むと、突然しがみつかれた。龍也はコンクリートの段差に腰かけているので、僕のお腹のあたりに顔をうずめる格好になる。驚いてすぐに離れようとしたときに龍也の息が荒いことに気付いた。僕を抱きしめている腕も熱くて、かなり疲れているようだ。そんな様子の龍也を無理に引き剥がすのも躊躇われて、彼の肩にかかっているタオルで横顔を拭いてあげた。
「はあー、一応練習はしてきたつもりだったんだけど、やっぱりなまってたわ。さすがにいきなりこのメニューはきついよー」
確かに、少なからずブランクがあるのだ。急な激しい運動は相当堪えたのだろう。名門の厳しさはまだまだ序の口なのだろうから、本当に大変だ。
「やっぱりもう一杯持ってくるよ。水分補給は大事だからね」
そう言って満身創痍の龍也の腕を解くと、ジャグの方へ向かった。
飲み物を取りに来た俺は、ふと八尋の事を思い出した。龍也と一緒にいなかったのでまだ練習でもしているのだろうか、それとも先輩達と話してしるのだろうか、どちらにしろ龍也があのような調子なのだから、八尋もそれなりに疲れているはずだ。ちゃんと水分補給できているのだろうか…龍也に届けたら探しに行ってみよう。
龍也のあの様子を考えて、二杯くらい必要かもしれないと思い、二つ目のコップに手を伸ばした時、背後から衝撃を受けた。
「ホントだー!俺より小さい奴がいるー!」
衝撃の正体はこの学校で出逢った人の中で一番目線が近い人だった。後ろから抱きつかれていて動こうにも動けないでいると、
「タク、そいつが驚いているだろ。放してやれ」
黒髪のスポーツマンを絵にかいたような爽やかな人が、先ほどまで僕に抱きついていた人を引き剥がしてくれた。
「ごめんごめん、だって、まさかこの学園で僕より小さい子を見つけられるなんて思ってなかったから、つい興奮ちゃってさ」
小さく舌を出しながらそう言った先輩は、ふわふわの茶髪を靡かせながら、僕の目の前にやってくると
「君が新しく入ったマネージャでしょ!さっきグランドで挨拶してたよね!遠くてあんまり見えなかったんだけど、期待通りの大きさだよ!」
ポンポンと頭を撫でられながら、僕は首をかしげることしかできなかった。おそらく、先輩なのだろうが、対処の仕方が分からない。更に、いきなり抱きつかれたので、人見知りの僕はもう頭が真っ白だった。
「悪かったな、いきなり。一応止めはしたんだが、こいつがどうしても話しに行きたいと聞かなくてな」
オロオロとしている僕に見かねて、黒髪の先輩が話しかけてくれた。
「い、いいえ!先輩の方から来てくださるなんて、嬉しいです!」
「これから一緒に過ごす仲間だからな。それに、貴重なマネージャーだ。このままマネージャーが入らなければ、一・二年生が交代でやるという案も出ていたんだ。本当に助かったぜ」
「そうなんですか…えっと、森住悠先輩と、中川多久美先輩、ですよね?」
憶えたての情報で多少不安だが、間違えてはいないはずだ。
「もう名前憶えてくれたんだ!ねえねえ、俺のこと多久美先輩って呼んでみて!」
瞳をキラキラさせながら僕の手を握ってくる先輩を不思議に感じながらも、先輩の顔を見る。
「多久美、先輩…?」
これで合っているのか不安になり、首を傾げながら言ってみる。
「ぬあー!俺にもやっと後輩が!」
感極まった様子の先輩が、再び抱きついてきて、僕と自分の頬を合わせてすりすりとしてくる。先輩の肌つるつるだ…って、僕変態みたいかな。
「こら、何をしているんだお前は。後輩が出来て嬉しいのは分かるが、その可愛い後輩を困らせたら元も子もないだろう」
二人の先輩とはちがう方向から声が聞こえたかと思うと、多久美先輩の顔が離れていった。どうやら誰かが助けてくれたらしい。声のした方を見ると、多久美先輩と背丈の変わらぬ、黒髪の美少年が立っていた。多久美先輩も可愛いけれど、この先輩は凛としていて日本男児の名にふさわしい出で立ちである。
「もう!なにすんだよ!お前も嬉しいんだろ、遠慮なく後輩とのスキンシップを楽しめよー」
口をすぼめてブーブーと文句を言う多久美先輩に、
「距離の縮め方というものがあるだろう、せめて自己紹介から始めろ馬鹿もの」
まるで武士のような日本語をしゃべる先輩に、外面とのギャップを感じるが礼儀正しい感じがとても好印象である。助けてくれたしね。
「悠、お前も見ていないで多久美を止めろ。何のために一緒に行動させていると思っているんだ。僕の目の届かないところに多久美がいるときは、お前の管轄だろう」
「わりいわりい、目の前で戯れる小動物どもが可愛くてさ、つい」
「小動物ってなんだよ!」
僕の存在を忘れているかのように、頭上で繰り広げられる攻防にオロオロしていると
「そう言えば、自己紹介がまだだったな、僕は林拓真だ」
「拓真先輩…ですね。多久美先輩と一文字違いなんですよね」
「ああ、そうなんだ。だからよくセットにされるんだ。何かと一緒にいることが多いからって、先輩が僕をこのわがまま坊ちゃんの監視役にしたんだ。一人にしておくと何をするか分からないからな」
溜め息をつきながら頭を押さえる多久馬先輩に、ぷりぷりという効果音がつきそうに怒っている多久美先輩が反論する。
「ホントに心外だよね!監視役なんかいらないって言ってるのに、崇矢先輩も幸多先輩も笑って相手にしてくれないし!」
再び僕に抱きつこうとする多久美先輩の首根っこを、悠先輩が引っ張って僕から遠ざける。するとようやく諦めたのか、多久美先輩は大人しくなった。
その後、先輩達と軽く自己紹介をしていたが、龍也に飲み物を持って行こうとしていたことを思い出し、それを告げると
「他の新入生のとこ行くの?じゃあ俺も行きたい!練習のときは全然話せなかったからさ」
結局、多久美先輩を野放しにはできないということで、悠先輩達も付いてくることになった。龍也のところに戻ると、先ほどよりも幾分和らいだ顔で座っていた。僕を見つけるとゆっくりと立ち上がり近付いてきた。僕は手に持っていたコップを一つ差し出すと、サンキューと言って半分ほど飲みほした。
「飲み物取りに行くだけなのに、どんだけ時間かかってんだよーとか思ってたけど、なるほど、そういうことね…」
僕の後ろにいる三人を見ると、納得したようだった。
「遼ちゃんと違ってでかい一年だな…可愛くない…」
ポツリと多久美先輩がつぶやく。自分の身長に相当なコンプレックスがあるらしい。龍也はなんかすいません、と笑いながら挨拶をした。
「そう言えば八尋は?」
五人の挨拶が終わると、いまだに姿が見えない八尋の事を龍也に尋ねてみた。すると龍也はあー…と歯切れの悪い返事をよこした。
「俺はGKだから途中から別メニューだったんだよ。と言っても、GK以外は人数多いからいくつかのグループに分かれて練習してたみたいだけど、なんか嫌な予感がするんだよなあ…」
言いながら龍也が向ける方向に目をやると、休憩時間の筈なのにグランドに人が集まっている。まさか…
「絡まれてる…とか…?」
龍也の嫌な予感は当たっていそうだ。