恨めしい
「どうして助かっちゃったんだろう」
僕がそう言うと、母さんは泣きながら病室を出て行った。
――窓に目をやると、くすんだ空があった。鬱陶しいくらいに眩しくて、すぐに視線を戻す。
病室のベッドの上。気持ち悪いくらい真っ白で細い、僕の腕。……点滴の針が刺さっている。
冷房の低い駆動音と、蝉の声がやかましい。――僕は起こしていた上体を仰向けにベッドに倒し、目を瞑った。
――今日も、母さんの剥いたりんごは、食べなかった。
*
なんのために生きているのかわからなくて、道路に飛び出した。
瞬間、顔を横にやり、向かってくる車に目をやると、運転していた男は何やら叫んでいるようだった。
そして強い衝撃、痛み。身体がアスファルトの上を跳ね、あぁ……死んだ。死ねたんだ。そう思った。
――目を覚ますと、病室にいた。外は明るく、また病室中の“白”がそれを照らし返すもんだから、眩しくって僕は目をしばらく開けられなかった。
母さんは、泣いて喜んだ。父さんはいつもの仏頂面で、兄さんはいなかった。「あぁ……よかった……よかった……」母さんはそう言って、僕の手を握った。――よかった……? ……なにが……?
――あぁ、生き延びてしまった。死んだと思ったのに。……死んだら、楽になれると思ったのに。僕は噛みしめるように、苦い絶望を味わった。
どうせ退院したら、僕を待っているのはあの日常。朝起きたら学校に向かい、誰のためかもわからない“将来”のための勉強をし、身体を動かすために必要な食糧を摂り、また勉強。学校が終われば塾に行き、それが終われば家で勉強。そして眠り、また起きたら学校へ。
兄さんと父さんの唯一尊敬できるところといえば、そんな毎日に疑問すら持たず、生き抜いたというところだ。……僕のように、思わなかったのだろうか。なんのために生きているんだろう、って。
あの人たちは、何が楽しくて生きているんだろう。勉強? 仕事? ……人を使ったり、裏切ったり、蹴落としたり、利用したり。楽しい? そんな人生。――なんのために生きてるの? ……ほんと、教えて欲しいよ。とても僕には、楽しそうには見えないな。――死んじゃえばいいのに。
*
僕が意識を取り戻して、一週間が過ぎた。僕は必要以上に喋らず、動かず、食べず。目すら開けなかった。
毎日、母さんはやってきた。そして僕に話しかけ、りんごを剥いた。――僕は一度も、それを食べなかった。なのに、母さんはまた次の日もやってきて、またりんごを剥いた。
――相変わらず空は青くて、太陽は熱を帯びた光をさんさんと放射し続けていた。僕は冷房のリモコンを手に取ると設定温度を下げ、光を避けるように布団に潜った。
ひたすら考えていたのは、(次はどうすれば、確実に死ねるのだろう)――ということだった。
*
――深い眠りの中にいた僕は、突如胸にのしかかった重圧に目を覚ました。(重い……苦しい……)目を開けようとしても、身体を動かそうとしても、なかなかうまくいかない。
まるで何重にもマスクをしているかのような息苦しさの中、意識して深く呼吸をした。そして瞼に意識を集中し、ゆっくり目を開く。
真っ暗な室内。窓からは薄っすらと、月明かりが差す。
胸の上に、女が乗っかっていた。自分と同じような病衣を着ていて、髪が長く、表情は伺えない。
僕は不思議と、あまり怖くはなかった。――死のうと思っている人間からしたら、“幽霊”だなんて怖くはないのだ。
どうせなら、連れて行ってくれよ。そのくらいに、思った。
女はゆっくりと動き始め、その長い髪の下から、両腕を伸ばした。――右腕には、点滴の針が刺さっている。
両手はまさぐるように伸び、僕の喉を掴んだ。息苦しさが、先ほどよりも増す。
「グッ! ……フッ……!」
じわじわと喉を締められ、僕は急に、恐怖を感じ始めた。殺される……! ……ずっと望んでいたはずの、“死”なのに……! 全身の血液が滞留し、急激に体温が下がる。身体は思うように動かず、ぶるぶると震える。頭の中に急に霧が発生したように、思考がぼやける――。
女の貌が一瞬、髪の隙間から見えた。それを見た瞬間、ゾッとした。まさに、“恨めしい”といった表情。
女は徐々に、顔を近づけてくる。僕は逸らそうともがくも、身体が言うことを効かない。(怖い……怖い……怖いッ……!)思っていると、ふいに女の表情に変化が見えた。――泣いているのだ。
身体を細かく震わせ、悲痛に表情を歪ませる。目は涙でいっぱいになり、僕の顔の上に滴る。
――ワタシ……ハ…………
女が、口を動かした。
それは、音の振動となっては届かなかった。ただ、女の“心”が――。
漏れ出した、強い“感情”が――。僕の“心”を震わせて――理解した。
――イキタカッタノニ………………
ふと、母さんの顔が頭に浮かんだ。父さんや兄さんではなく、母さんだった。
学校には、友達はいない。僕なんて死んだって、世界になんの影響もないんだ。そう思っていた。――なのに、気付いてしまった。あの人は――あの人だけは、きっと悲しむ。きっと、涙を流す。
謝りたい。一度だけでいいから。“ごめん”、って言いたい。
未練が生まれてしまった。
死にたくない。そう、思った。
*
――目を覚ますと、そこは病室だった。
窓からは、夏の強い陽射しが降り注いでいる。
夢を――。気が付くと、顔が濡れていた。
(――ッ!)それを拭い、またもや気付く。それは、僕の流した涙だった。
濡れた指先を、手のひらをじっと見つめる。外からの光が当たって、微かに光った。
――外では蝉が、その短い生命を燃やしきるように、懸命に鳴いている。
僕はしばらくの間、そのままじっとそれに聞き入っていた。
そして――やがて近くのテーブルに手を伸ばし、カットされたりんごを一口、囓った。