F
目が覚めたらまずてのひらをゆっくりと握る。すこし汗ばんだ皮膚をすり合わせて、早朝部屋のなかにしのびこんでくる日差しとつめたい空気にさらされながら熱い息を吐く。かつて1日のはじまりには鳥の囀りが響いていたという。
私の仕事は、尚古趣味の老年層に過去の遺物である紙のレプリカを提供することだ。すべてのデータが電子化され質感というものを失った膨大な文字群を、定年を迎えた奇特な老人たちの希望により、再び紙の上に写し出し、製本して提供する。前世紀の終わりに、このあたりにあった島国の人間の寿命は規定され、定年後に3年の猶予を与えられたあとは人の手で永遠の眠りを迎えるようになった。明確な期限がついた余生を、老人たちの一部は過去を懐かしむことに充てる。たとえば、母親のあたたかな声で語られた物語とその絵本から香った匂い、薄い紙でふいに切った傷跡の記憶を、彼らは急に思い出すのだ。
シリアルに牛乳をそそぎこんで、つやのある木製の椅子に腰をおろす。私が生活する家は郊外の小高い場所にある。周囲は見渡すばかりの砂丘であり、もちろん人も住んでいない。ゆえに、私の日常に自分以外の人の気配は希薄である。この人家は政府に宛がわれたもので、170年前には本来の持ち主が住んでいた。私のように幼少期にテストでひっかかった人間の一部は、一定の年齢まで施設で育ったあとは、こういった政府がキープしている隔離された場所でささやかな仕事を任されることが多い。
朝食を済ませてからすぐに机に向かい、モニタの電源をいれる。書物を駆逐した時代に当時の印刷技術と機械の類は一度この世から消えた。その後テクノロジーはそれらの複製を作るだけの進化を遂げたが、デジタルな文字に慣れた時代はもはやそれを必要としなかった。私の仕事は3年前私が施設を出る際に、実験的に新設されたものである。紙を知る世代がこの世からいなくなるまで、もはやそれほどの時間はかからない。たった数十年のために大仰な機械を複製するのはためらわれたのか、もしくは上司の趣味だと思うが、私の仕事道具はタイプライターである。モニタに映し出されるアルファベットを、複雑な光沢のある紙に打ち込んでいく。紙が消えたはずの世界で、質のいい紙を触る。仕事に使う紙は定期的に支給されるもので、私はそれを黙って受け取るだけだった。
私がそれに気づいたのは数か月前の夕方のことである。昼寝のあとに水を口に含んで喉を潤していたとき、腕を伝い床に落ちる水滴をぼんやりと目で追っていた。なんとなく木目に染み込む水分をしゃがみこんで撫でたとき、急に床板が翻り、50㎝四方の正方形の穴が開いた。それこそ前時代の小説である。
地下には膨大な量の書物が並んでいた。
人格を疑うほどばらばらなジャンルの本が、常識を疑うほど乱雑に置かれている。驚くべきは半分近くが異なる言語で書かれた書物だったことだ。今それを読める人間は、この世にはいないだろう。少なくとも善良な民間人の中には。
地下の図書室に、政府が気づいているのかそうでないのかはわからない。普通に考えて、知らないことはないのだろうと思うが、私には一切そういった話はなかったし、2週間おきにこの家を訪れる上司も、今に至るまで何も言わない。当然私も、求められない話題で話をすることはなかった。
太陽が天頂近くに至るとき、私は昼寝を挟む。日光を遮るもののないこのあたりでは、いくらすべてを快適に調整された屋内とはいえ、作業するには集中力を欠く暑さがじりじりと肌をねぶる。日が沈んでから作業を再開するほうが作業効率はよい。額の汗を袖で拭ってから、私は硬いベッドに身を横たえた。
「F」
額から柔らかなものが離れていく気配を感じながら、私は目を開けた。手のひらをゆっくりと握りこんで、数秒経ってから起き上がった。窓の外はすでに暗闇で、痩せた月が帳をわずかに裂いていた。机の上に小さな明かりを灯した上司は、勝手にコーヒーを淹れてくつろいでいる。
「アメリカの?」
「そう」
カーディガンを羽織り、彼の向かい側に座る。玄関の近くには眠る前にはなかった、2週間分の食品や水が置いてある。それが彼の仕事のひとつだ。
薄い味のコーヒーでくちびるを湿らせながら、彼は私の仕事の成果である紙の束をめくっている。私の客である老人たちにも増して尚古趣味をこじらせているのが、この男であった。彼に関しては名前も役職も、容姿と私の上司であるという事実以外は何も知らない。知る必要を感じないので、訊いたこともなかった。もちろんそれは今もそうで、おそらくこれからも私が彼の名前を知ることはないだろう。
「うん、じゃあこんなもんかな。だいぶタイピング早くなったね。使い心地はどう?」
「仕事ですので。これ以外を使ったことがないので、使い心地がいいか悪いかはわかりません。」
男は馬鹿にするように鼻で笑って立ち上がった。同時に懐から何かを取り出し、そのまま机の上に置く。封筒が2つ。
「それじゃ」
ほころぶように微笑んで、彼は夜の砂丘に消えていった。
大陸は形を変えたようだった。
少し褪せたグラデーションで塗られた表面には、幾本もの線が垂直に交差している。かろうじて方位記号でそれを地図だと認識したあと、そこに全く知らない世界があった。陸は広く、海には小さな島が点在し、引かれた点線がかつて存在していた「国家」の境だとすると、今では考えられないほど世界は複雑で広大だったらしい。
数日前上司が置いて行った封筒は、置かれたときのまま机の上に鎮座している。私は数日ぶりの生野菜を噛みながら、ひたすらそのなめらかな白い紙の表面をながめていた。施設にいたときは紙はデジタルの画面で見る歴史的な遺物にすぎなかったし、自分の寿命をはるかに超えた昔に存在していたものにすぎず、まさか自分の手に触れることがあろうとは思っていなかった。しかも、従来の用法を遵守した「紙」を。しかし、成人を迎えた私が政府の役人だという男の下についてから、そういった過去の歴史的な遺産に触れることは日常の一部となった。彼はかつて人類がそうしていたように紙を扱い、煙草(!)を吸い、はさみを使う。たまにメガネをかけているし、おもむろに時計を取り出すこともあった。
乾いた砂に足をとられながら、屋根の見えないところまで歩いて適当に座り込む。フードをかぶってそのまま寝ころんだ。星は空を埋め尽くすように広がり、文学的な流れを描く。仕事が捗った日はたまにこうして外に出る。静かな夜の隙間を風の音が走り抜けていく。はるか昔から青や白、赤に燃える星たち。
「Fか?」
唐突に声がかかる。同時にざくざくと足音がして、耳の近くで止まった。視界に男の顔が入る。数か月ぶりだ。
「帰ってたのか」
「昨日な」
Tは同じ施設で育った孤児だ。1つ年下で、たまにこうやって現れる。彼も仕事をしているが、具体的にどんな仕事内容なのかは知らない。ただ一定の期間どこかへ行き、そこで何らかの仕事をして、終わったら帰ってくる、というサイクルだけは理解している。それで十分だ。
「Jが死んだよ」
隣り合って座ってすぐ、足を延ばしながらTが言う。軽く笑いながら言うので、私も思わず微笑んでしまった。Jが死んだと聞かされるのはこれで何回目だったか。まだ就職して1年だというのに、それもおそらく、彼女のうつくしい金髪や白皙の美貌のせいだろう。私たちはお互いの仕事について知ることは少ないが、およそこの現代社会において「×」評価をつけられた人間の使い方はある程度予想できる。
Tは夜空を仰いでうつろに目をさまよわせた。一瞬のち、数日前よりすこしだけ太った月のひかりをその目の中できらめかせて、薄くほほえんだ。
「前Fが教えてくれたのって、あれだよね」
細く節くれだった指を踊らせて、Tはかなたを指差した。
「そうだよ。」
私がにっこり笑うと、満腹の子供のような顔をしてTは目を細める。そのまま私の手を取って、てのひらのまんなかにくちびるを寄せた。
「F、」
「あいしてる」
お母さんが私を抱きしめながらそう言った。強い力で背中を引き寄せられて、私はなすがままだった。まだ私がテストを受ける前の幼い日のことであり、世界のすべてが母親だった頃の記憶である。
全身を汗でびしょ濡れにさせながら、私は浅い呼吸を繰り返し、てのひらをゆっくりと握る。ひといき大きな深呼吸をして、体を起こした。タオルを取り出して首筋にあてがいながら、椅子に座る。数分瞑目してから、私はシリアルに牛乳を注ぐ準備をはじめた。
まるみを帯びた文字をゆっくりなぞる。途中でわけがわからなくなってからは、声に出しながら読みすすめた。甘い匂いのする日に焼けた書物の表面は、少しざらざらしている。
「mi・wo・tsu・ku・shi・no・re・tsu・wo」
詩集と思われる。真っ青な装幀につつまれたその一冊を、厚手の紙を片手に膝に置く。
「yo・mo・su・ga・ra・mi・na・mi・ju・ji・e」
上司が置いていった封筒の1つ目を開封すると、中からは表のかかれた紙が出てきた。また紙の無駄遣いである。はじめは意匠かなんかの一覧かと思い、意味のわからないものを置いて行ってくれたなぁとぼんやり思っていた。しかし、なんだかよくわからないものをもらうのはこれが初めてではないし、これまでにもらったそれらのうち、本当にいまだによくわからないものは適当に飾り棚に並べている。上司はそれを見てもやはり何も言わないし、そのくせどんどんものをよこす。必然的に飾り棚はどんどんにぎやかになってきている。また今回も棚を整理しなければならないようだ。
しかし、その日地下室で独特のにおいを吸いこみながら、私ははっとした。背表紙に見覚えのある形を見つけたのだ。つまり、かつて存在した「異国」の言葉を。
上司のそれは、表音文字の対応表のようだった。気づいてからは、たまにこうやって蔵書を読み進めるようになった。もちろん意味はわからない。それでも不思議にも文字が縦に並ぶ文章を目で追うのは、それだけで新鮮だった。
Tが3回目の告白を私にした夜、掌を石鹸で洗いながら、私は青ざめていた。母親の体温、胸のやわらかさ、私の名前を呼ぶ声。指と指を絡ませて泡を滑らせる。手首まで洗ってから水ですすいでいるとき、左目からなみだがぽつりとこぼれた。
まぶたを持ち上げると、私はてのひらをゆっくりと握りこんだ。そうして背中を起こし、布団から足を引き抜く。牛乳にひたしたシリアルをぽりぽり食べて、朝食を終えたあと作業台に向かう。モニタをつけると、昨晩の続きが表示された。画面をひと撫でして、私は仕事を始めた。複雑な光沢の紙に、黒いインクでアルファベットが並んでいく。昼時になり、作業を中断した私は、顔を洗って硬いベッドに身体を載せた。
私が施設を出るまで残り1年となった頃、私とJは1度だけ一緒にご飯を食べ、星を眺めて、同じベッドで眠った。ありがとうと私にほほえんだJは友達が多く、毎日誰かのとなりで花開くように笑っていた。
「F、おはよう。」
くちびるからやわらかい感触が離れて行く気配を感じながら、私は目を開ける。ゆっくりとてのひらを握りこんで、起き上がる。夜の濃い空には、私が10数年前に気づいたときからずっと変わらず、星が文学的に散らばっていた。
(130714)