09
ひと月ほど前、出征していた者たちが帰還してからしばらくは国中がお祭り騒ぎだった。城内では日がな一日宴を催していたし、行商人からは国の端にある村でも祭りが開かれていると教えてもらうくらいだった。門番を務めるユーベルト達も非番の日に宴に招待された。兵士とは言え平民である班員達も同じように招待されたのだから異例な宴であるのが分かる。
宴では聖女について、あちらこちらで語られていた。今までに見たことのない巨大な魔物と淀みを一瞬にして浄化したと称賛され、なんて可憐な少女だと誉めそやされ。相手がいないのならぜひ我が家にと、どこの家長も必死に取り入っていた。
ようやく顔を見せた聖女はここぞとばかりに多くの貴族から挨拶を受けていて、戸惑う聖女の代わりにそれを捌いていたのはヘリオロスだった。
何故王子ではなくヘリオロスがそんなことをしているのだろうかと疑問に思っていると、ユーベルトの近くにいた文官がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて教えてくれた。
「ヘリオロス様と聖女様は師弟関係にあるそうですよ。だからか、聖女様は殊更ヘリオロス様のことを慕っているとか……」
聖女だけが使えるとされる浄化の力も、使える者が限定されているだけの魔術である。魔術士の中でも特に優秀であるヘリオロスが聖女の師となってもおかしなことではない。
教えてくれたことについて丁寧に礼を述べると、文官は面白くなさそうに顔を歪めて離れていった。あんなに感情が表に出てしまうなんて文官としてやっていけるのだろうかと逆に心配になってくる。
「聖女様も大変ですね。今まであまり表に出てこなかったのも納得がいくというか」
そう言うのは青年兵だ。彼の手には料理で山盛りになった皿が収まっている。
「聖女様が大変だと言うのには同意するが……そんなに盛るなんて不作法すぎるぞ……」
貴族の中でそんな盛り方をする者はいないし、彼は大店の息子なのである程度教育を受けているはずなのだ。そんな事をするなんてと少し驚いてしまったが、そんなユーベルトを気にする事なく彼はニヤリと笑った。
「俺、一回でいいからやってみたかったんですよ」
「何だそれ」
あははと笑っていると、背後から鋭い視線が向けられたのを感じた。誰からの視線だろうかと訝しんでいると、青年兵が片眉を上げて肩をすくめた。
「班長も大変ですね」
そう言われて、この視線はどこかの令嬢から向けられたものかと納得する。ここ最近はそういった視線に慣れ切って鈍くなっていたが、ヘリオロスからピアスを刺されて以来、ずっと向けられていたものだ。まだこんな苛烈な視線を向けてくる令嬢が残っていたなんてと感心してしまう。そんな視線を向けなくても、もう少ししたらヘリオロスは嫁探しを始めると言うのに。
「彼女達も私なんかを睨むよりヘリオロス様に微笑んでいればいいのになあ」
「あー……まあ、そうですね」
青年兵が苦笑する。そんなに変な事を言っただろうかと首を傾げていると、新兵を支えながら年配兵が近寄ってきた。どうやら新兵は酒を飲み過ぎて朦朧としているらしい。青年兵はそれを見て顔を顰めつつ、山盛りに盛ってきた料理を素早くかき込んで新兵を受け取った。
「こんな状態だといつ失態を起こすかわからないし、我々はお暇しようか」
ユーベルトが声をかけると、班員達は名残惜しそうにしつつも同意してくれた。ぞろぞろと兵士たちを引き連れて会場を出ると、涼しい風が頬にあたる。熱気に当てられて大分熱っていたみたいだ。それはユーベルトだけではなかったらしく、班員達もそれぞれが涼しいなと笑っていた。
そんな彼らを城門まで送り届けて解散する。ユーベルトも伸びて背中の凝りを解してから寮に足を向けた。
「暇だ……」
「そこは平和だって言っとけ」
気を抜く新兵の頭に、青年兵の拳骨が落ちた。仕事中だと言うのに痛い痛いと騒ぐ新兵を咎めないのは、彼の言った通り本当に暇だからである。
淀みが浄化されて強力な魔物が出なくなってからというもの、討伐の依頼もなくなって兵士や騎士の仕事は明らかに減っていた。逆に文官の仕事は増えている。外に主たる敵がいなくなったことで内政に力が入り始めたのだ。喜ばしい事だが、ユーベルトの兄は家に帰る暇もないと嘆いていた。
そういえばその兄が、これからしばらく地方都市の開発が活発になるだろうと言っていた。地方都市の開発ともなれば文官が足を運ぶ必要があるし、そのために護衛として騎士も動くはずである。暇なのは今に限る事だろうなと門の前に広がる街道を眺めていると、行商人の馬車が近づいてくるのが見えた。
「行商人ですよ」
「前まではもっと行き来があったのにな」
新兵と青年の会話にユーベルトは苦笑した。たしかに行商人の行き来も以前よりは少なくなっている。
以前は行商人の中にも敵情視察を主とした者が混ざっていたのだろうと思う。近年は不戦条約で大きな戦争は起きていないが、大国の座を虎視眈々と狙う国は山ほどあるのだ。淀みが浄化されるかどうかの確認か、あるいは聖女を攫おうとしていたのか。どちらにせよ全て解決しているので付け入る隙は無くなってしまった。他国の行商人は美味しい情報が得られない場所に足繁く通う理由を失ったのである。とはいえ、行商人の往来が少なくなった今は情報管理の緩みも出てくる可能性が高い。今の時期に立ち入る行商人にこそ警戒すべきだと言うのがユーベルトの考えだが、それを考えて実行するのは文官達の仕事なので口出しはしない。
行商人が門の前に馬車を止め、手続きを申請する。その間に門前を任されていたユーベルトの班が積み荷を改める。内容は食品だったので毒見も入ったが、何の問題もなく終わった。手続きを終えた行商人は丁寧に挨拶をして門を潜っていく。
ふと班員を見ると新兵がふらついているのが目に入った。気づいたのはユーベルトだけではなかったらしい。青年兵の拳骨がまたもや新兵の頭に炸裂した。
「お前はもう酒を飲むな!」
暇といえば、ユーベルト個人も暇になっていた。
あの宴からこっち、聖女の相手がヘリオロスだと実しやかに噂されているからだ。つまりユーベルトは捨てられたのだという噂も一緒に流れているのである。
ヘリオロスに懸想する令嬢達の嫉妬は聖女に向けられるようになって、ユーベルトは久しぶりに心穏やかな日々を過ごしている。憐れみの皮を被った見下しの視線が新たに向けられるようになったが、そんなものは令嬢達の嫉妬の視線に比べたら気にするのも時間の無駄だと思えるくらいだ。
「確かに暇だよなあ……」
今日は非番である。いつもよりのんびりと朝を迎えたユーベルトは、部屋に備え付けてある椅子に座りながら窓の向こうを眺めた。淀みが浄化されてからと言うもの、澄み渡った青空がずっと続いている。時には雨が降ったりもするが、そんな時でも空気が澄んでいるのだ。淀みの有無でこんなに違うものなのかと朝を迎えるたびに思ってしまう。聖女様々だなと彼女に感謝しながら、ユーベルトは机の上に置かれた袋を突いた。
帰還の凱旋があったあの日、イザベラの婚約者にと購入したものだ。渡すタイミングを逃してしまって、こうしてユーベルトの部屋の住人になっている。いい加減渡してしまいたいが、渡すにしても理由がつかない。いっそイザベラにも何か買って、前祝いとして渡そうか。
思い立ったが吉日ともいうので、ユーベルトはすぐに身支度を済ませて城下へ出た。
前祝いには何が妥当だろうかと雑貨屋を何軒か覗いてみる。声をかけてきた店員によればいくらあっても喜ばれるタオルや消え物と呼ばれる食品類が良いと勧められた。そうかと思って色々見てみるが、どれも二人分のセットになっている。これではイザベラ個人への贈り物にはならない。
悩んだ挙句イザベラには彼女の婚約者に用意したのと同じく、万年筆とインクを贈ることにした。イザベラは騎士で、婚約者の方は医療士だ。時として仕事の場所が離れるかもしれないのでそう言う時の文通に使ってもらうのもいいし、そうでなくても万年筆は公的な書類などを書く時に重宝する。喜んでくれたらいいなと思いながら文具屋を出た。
せっかく城下に来たのだからと以前班員達を連れてきた事のある居酒屋に入った。今度は一人なのでカウンター席に案内される。以前とは違って貴族然とした格好だからだろうか、対応が丁寧に感じられた。
「ご注文は?」
カウンター越しに居酒屋の主人から尋ねられて、ユーベルトは酒と串料理を注文する。それほど時間を空けずに注文した品がユーベルトの前に並べられた。
串に刺さった肉を齧り抜く。こってりとした味付けは下町ならではのものだ。貴族街の料理店ではあっさりとした味付けのものが多くて、兵士のユーベルトからすると物足りなさがある。酒も鼻に抜けてカッとくる強さだ。下町のものはどれもこれも味が強い。青年兵から肉体労働者が多いからだと教えてもらったのはいつのことだったか。
仕事を終えたもの達が増えてきたのか、居酒屋が賑わい始めた。この賑やかしさも下町のいいところだなと思いながら、次の串を口に運んだ。
ユーベルトが居酒屋から出たのは、空がすっかり暗くなった後だった。火の精霊王と呼ばれる光源が十五個目の島に降り立ったのだろう。その島を縁取るように淡い光が空から降り注いでいる。
その光と街灯を頼りに道を歩き、城門を抜けて寮に向かう。すでに就寝時間を過ぎた後だったのか、廊下の灯りは消されていた。
薄暗い廊下を歩いていると、部屋の前に誰かが立っているのが見えた。こんな時間に誰だろうかと訝しみながら近づくと、それがヘリオロスだということに気づいた。
……顔を合わせたくない。
咄嗟に踵を返して来た道を走り出したユーベルトだったが、すぐに自分のそれよりも大きな手で腕を掴まれて部屋の方に引き摺られていく。もたつく足を必死に動かすが、そもそもの歩幅が違うために滑稽な動きになった。嫌だと踏ん張ったところで力づくで動かされる。段々と部屋に近づいていくに従い焦りが増していった。時間が時間なので何をするのかと騒ぎ立てることもできない。
そうこうしているうちに部屋の前にたどり着き、鍵を開けろと静かに命じられた。首を横に振って拒んだが、ヘリオロスは舌打ちを一つだけして何かを唱えると扉を開けてしまった。
解錠の魔術だと気づいた時には部屋に放り込まれていた。続くように入って来たヘリオロスは、いつかのキャレルの時のように後ろ手で鍵を閉めた。その時とは違って酒が入っていたユーベルトは足の踏ん張りが効かずに倒れ込んでいる。やばい、と慌てて立ち上がって部屋の奥に逃げ込む。いつも空けっぱなしの扉を閉めようとしたが、それは敵わなかった。
「こんな時間に、何の用ですか」
絞り出した声は震えていた。けれど、声と共に息を出したおかげか、ずっと詰まっていた呼吸が戻ってくる。
「何の用かだと?」
窓から差し込む夜の灯りに照らされたヘリオロスの顔は、ぞっとするほど冷たいものだった。
ひ、と喉が引き攣る。まるで喉元に剣を突きつけられているような気分だ。冷や汗をかきながらじりじりと後退すると、その倍の速さでにじり寄られる。
背中が壁に当たった時、ヘリオロスは息がかかるほどのところにいた。ともすれば、互いの鼻先があたりかねない距離だ。あまりの近さに気まずくなって下を向いたユーベルトに、ヘリオロスは淡々と言った。
「ユーベルト、君の最後の課題はすでに解いて来た」
「え……?」
どうやってあの課題を解いたというのだろうか。驚きのあまり顔を上げると、眉間に皺を刻んだヘリオロスの顔がそこにあった。
「だから君が何と言おうと、君はもう私のものだ」
そんなに嫌そうな顔をしながら言う言葉ではない。そんなに嫌なら課題を放り投げればよかったのに。
ぼろ、とユーベルトの目から涙が溢れた。
「泣くほど私との婚姻が嫌か」
ヘリオロスの顔がさらに険しくなる。
「そんなに私のことが嫌いなのか!」
胸ぐらを掴まれてベッドに押し倒された。服を剥ぎ取られて、ヘリオロスが何をしようとしているのか気付く。ユーベルトは抵抗しようとして、諦めた。
ここで抵抗したところで、ヘリオロスが言葉の通り課題を終えたのだとしたらユーベルトは既にヘリオロスから逃げることはできない。
観念すべきか、と思った時。口をついて出たのは純粋な気持ちだった。
「好きです」
一度口にすると、堰を切ったように溢れ出した。
「どれだけ長い間好きでいるかも知らないくせに勝手に決めつけないでくださいよ!好きだよ!めっちゃくちゃ好き!学生の頃からいままでずーっと!でも最初から諦めてたんですよ!男同士なんて無くはないけどどう考えたって不毛じゃん!しかもあんた功績立てて爵位もらってるし家興して結婚するに決まってるでしょ!美人で気立のいい嫁さんもらって子供たくさんこさえて幸せに暮らすんだなーって傍観決め込んでたのに!記憶のない間にあんたにピアスつけられてるし!拒否ったら食い下がられるし!断るために嫁取りの課題だしたら次々に催促されるし!これで愛想尽かすだろと思ったのに精霊王の宝集め切っちゃうし!こうなったら絶対に解けない課題出してやるって意気込んでも解いたっていうし!でも俺知ってんですよ、聖女様と結婚するんでしょ!なのに襲おうとしやがって!でもさあ!こんな酷い目にあっててさえ嫌いになれないんだよ!いっそ嫌いになってしまえば楽だってわかってるんですよ!でもできないんですよ!どうやってあんたを嫌いになればいいんですか?!やり方教えてくださいよ!」
わあわあと喚きながら溢れてくる涙も止めずに垂れ流す。涙と鼻水で顔がとんでもないことになってるんだろうなと頭の片隅に少しだけ残ってる冷静な部分がぼやいているが、そんなことお構いなしだ。これだけやれば向こうも手を止めるだろう。
思った通りヘリオロスは目を見開いて挙動不審になっている。その手はまだユーベルトの腰を掴んだままだったが、彼は部屋の隅々まで視線を巡らせていた。この部屋にはヘリオロスとユーベルトしかいないのに何を確認しているのだろうか。そんなに周囲が気になるならユーベルトの上から退くべきである。そのちぐはぐ具合に堪らず吹き出してしまった。一度感情が溢れると、他の感情も抑えるのが難しくなるのだろうか。からからと笑っていると、ヘリオロスは戸惑いながらユーベルトに尋ねてきた。
「……その、私のことを好きって本当なのか?」
「好きですよ、だーいすき」
もう自棄である。一回言ってしまったことだ、今更取り繕う必要もあるまい。
「じゃあどうして……」
「好きだからに決まってるでしょ。さっきの話聞いてました?ヘリオロス様は爵位を持ってて家を興して女性と結婚して子供をこさえて幸せに暮らす必要があるんですよ。こんな特筆すべきところもない一兵士の男のことが好きなんてそんなことあっちゃいけないんです!」
「……なかなか傲慢だな」
「それはそうでしょう。イザベラも俺よりヘリオロス様に同情するくらいですからね。幻滅したなら婚姻をとりやっ、痛い!」
腰を掴むヘリオロスの手に力が込められた。音が鳴るのではと思うくらいの力に顔を顰めて呻くユーベルトとは相反して、ヘリオロスはこれ以上ないくらいに満面の笑みを浮かべていた。
「なんのために僕が死に物狂いで宝を集めたと思っているんだ?」
ヘリオロスが僕という一人称を使うのを初めて聞いた。相変わらず腰を掴む力は強いままで痛みはあるが、それよりも私的な一人称を口にしたヘリオロスをまじまじと見てしまう。
「君はなんらかの幻想を抱いているようだが、僕だってただの人間で欲まみれの男なんだ。自分の望みがすぐそこにあるのに、君の戯言に付き合ってる暇はないんだよ」
腰から手が離れたと思ったら、一瞬でパンツを剥ぎ取られてしまった。ぎゃあ!と色気のない声がユーベルトの喉をついて上がって来たが、ヘリオロスはどこ吹く風でユーベルトの脚を掴んだ。
「それで、イザベラというのは?医務室にいた娘だろう?凱旋の日に隣にいたけれどどういう関係なんだ?」
「ゆ、友人です」
「嘘じゃないだろうな?」
「嘘なんてつく必要こんな状況でありますか?!イザベラは医務室に勤務している婚約者がいるんですよ!ほら、机の上にあるでしょ、前祝い!」
先ほど落としてしまったイザベラ用の前祝いの袋も一緒に指さすと、ヘリオロスはようやく微笑んだ。
「なら、遠慮はいらないわけだ」
こんなのってあんまりだ!というユーベルトの叫びはヘリオロスの口の中に吸い込まれてしまった。