01 鉄巨人
緑の地平と呼べる広い草原を、一人の少女は必死に走っていた。
幾重にも積み重なる耳障りな歯車の音が、背後から追いかけてくる。辺りに響き渡る、甲高く唸る駆動音。
(止まることのない、不死の鉄巨人。私を捕らえるためだけに、喚び出されたもの)
姿を見ている訳ではないというのに、追いかけているものが何であるかなんて、もう嫌になるくらいに理解していた。
荒い息を重ねて、オデットはドレスの裾を持ち上げて走っていた。
これまでに数え切れない程に脱走を繰り返してきたオデットにはどんなに走っても走っても、あの禍々しい鉄巨人からは自分は逃げられないことはわかっていた。
どんな仕組みなのか回転を続けている機械部分が覆われることもなく剥き出しになっている鉄巨人は、自動的に自らを喚び出した者の命に従う。
あれがどこの異世界から来ているかなんて、きっと喚び出した魔法使いも誰も知らない。ただ喚び出せて便利だから、使うだけ。まるで、もう考えることを放棄してしまった自我のない奴隷のように。
巨大な機械人間の一歩歩くごとの歩幅の大きさは、かなりの距離だ。
ただの人間であるオデットが、いくら頑張っても逃げることが出来ないことが一目ですぐにわかってしまう。
失敗する逃亡劇を幾度も繰り返した上でもう無駄だと理解しているというのに、オデットはどうしても囚われの身から逃れることを諦めたくなくて何の障害物も見当たらない草原の中を走っていた。
彼女にはどうしても、彼らから逃れられない理由があるというのに。
(逃げたい自由になりたい……人生の中でたった一度でも、一時だけでも構わない。私が私で居られる場所に、辿り着きたい!)
今走っている方向の丈の低い草が生えた草原の果てに、何があるかなんてわからない。
きっと、あの鉄巨人からは逃げられずに今日も終わってしまう。
逃げているこの瞬間だけは、夢を見ていたい。誰にも指図されることのない、自由を手にしたい。オデットを利用しようとする者など、誰もいない地平へ。
憧れの場所へいつの日か辿り着けると、強く思っていたい。
両手で持ち上げている高級なドレスの裾が、走る足に纏わり付いてうるさい。
見張りの隙をついて走り出した時に、すべて切り捨てられれば良かったのに、嫌がらせのように重ねられた生地を切れるような鋭いナイフも持っていない。
それを支える腕の力にも、もう限界が来ていた。
もうすぐ、オデットはあの恐ろしい大きな手にまるで小人のように捕まってしまうだろう。
また呆れ顔をしたオデット担当の見張りたちの待つあの場所へと、まるで玩具の人形のように運ばれる。
こんな事をしても無駄なのに早く諦めろと、嘲笑されて、とてつもなく屈辱的な絵面になることは目に見えていた。
どんなに足掻いても、変えられない現実をまざまと直視する事になるのだ。
(いやだ……どうしても、諦めたくない。こんな……こんな自由のない身分から、逃げ出したいの! もう誰かに利用されるだけの人生なんて、まっぴらなのよ!)
オデットは真っ直ぐに前を見つめて、強く願いながら走り続けた。もしかしたら、その時に神様はオデットの願いを聞き届けてくれたのかもしれない。
まだ明るい昼日中だというのに信じられないくらいの光量が輝き、つんざくような稲光が響き渡った。走っていたオデットは思わず足を留めて、後ろを振り返った。
「っえ」
驚いたオデットの目の前には、いつも逃げた自分を追いかけて連れ帰ってしまう鉄巨人が微動だにしない。
巨大な身体はしゅうしゅうと嫌な音を立てて、そこかしこから白くて細い煙が立ち昇る。
「逃げているのか」
低い声が聞こえたのは、頭上。
見上げればいつの間にか、日光にきらめく鱗を輝かせる銀竜が、手を伸ばせば触れそうな距離にまで来ていた。
声の持ち主は、逆光で黒い影になって見えない。ただ、彼は長身で立派な体躯を持っていた。
竜を駆る。
ただそれだけで、彼の正体は一目瞭然だった。かの有名な竜に守護された隣国ヴェリエフェンディを護る、最強の名を欲しいままにする竜騎士団の一人。
「……助けて! 逃げたい!」
オデットは彼に、手を伸ばしてそう言った。それは、短い言葉だった。腰に軽い衝撃を感じたと思えば、オデットはもう空の上に居た。
あんなにどう足掻いても逃げられないと嘆いていた鉄巨人を、その場に置き去りにして。
◇◆◇
「あの気持ち悪い機械で出来た巨人か……すげえな。あれは……俺も、初めて見た」
呆然としていたオデットを後ろから抱きかかえている彼がまた声を出したのは、あっという間にさっきの広大な草原が見えなくなってから。
走っても走っても終わらないと思っていたあの緑の海がもう、遠い。
竜の駆ける速度は、世界の中に生息する翼を持つ獣の内でも最速だ。
なんでも高速飛行という、常人には耐えられない速度で進むことも出来るらしい。
彼らにとって敵国とも言えるガヴェアに生まれ育ったオデットには、竜騎士だけが何故その速度を耐えることが出来るのかは知らない。
「あ……あの」
振り向いたオデットは、彼の顔を見てすぐに言葉もなく絶句した。
「その格好からすると、どこかの……お姫様か? もしかして、誰かに命を狙われている? ……ん? さっき、少し声は出ていたよな? 大丈夫か? 痛むところはあるのか?」
まるで彼は畳み掛けるように、呆けている様子のオデットに質問を繰り返した。
(え……竜騎士って、美男子揃いだとは聞いていたけど……何この人……)
オデットは、幼い頃から訳あって上流階級の男性に接することが多かった。
上流階級、特に貴族は顔の造作が整っている事が多い。何故かというと、大いなる権力を手にしている彼らは、候補者の中から選りすぐりの美しい妻を娶ることが多い。
そして、美しく整った容貌の遺伝を凝縮したかのような後継となるのは、しごく当たり前のことだった。
だが、目の前の彼はそんなオデットが今まで見たこともないような、目の覚めるような造作に短い銀髪。磨き上げた宝石を嵌め込んだような、珍しい紫の瞳。
(なんて……綺麗な……)
「おいおい。大丈夫か……? 頭でも、打ったか?」
間近に居る彼の表情が眉を寄せどこか深刻な様子になり、見惚れていただけのオデットは意味もなく両手を上げて慌てふためいた。
「だっ……大丈夫です! ありがとうございました。あれは……鉄巨人。魔法使いの召喚の術により招かれた、遠い異世界の住人です」
オデットは、早鐘を打つ胸を押さえて出来るだけ平静を装って話した。
「鉄巨人……? そうか。あれはこの前の戦争でも、見なかったな。雷が効いたようだったが、俺のセドリックのような雷竜は希少でね。もし、敵対して争うことになれば、かなり厄介な敵になるだろう」
まだ見ぬ未来の戦いを想像するようにした彼は、眉を顰めつつそう言った。
彼の国ヴェリエフェンディとオデットの生まれ育った魔法大国ガヴェアは、この前に終戦したばかりだ。
領土を広げようと企んでいるガヴェアが周辺諸国に手を出すのは歴史的に言えば良くあることで、驚くことでもなかった。
武力を持って小国を併合したりと成功することもあるが、竜に守られたヴェリエフェンディに対しては手痛い敗戦を喫するのが常だった。
「……最近、開発された術だそうです。私は、いつも追い掛けられているだけですけど」
「いつも?」
目を見開き驚いた表情になった彼は、その言葉に引っ掛かったようだった。
あんな凶悪な見た目の鉄巨人に追いかけられることを、いつもの事だと動じることもないオデットに対して信じられない思いを抱いたに違いない。
「ええ……私は、幼い頃にガヴェアに売られ能力を利用され続けて来ました。それが嫌で、昔から何度も何度も逃げ出して……あの鉄巨人は、喚び出した魔法使いに私を追いかけるように命じられているんです。だから、私にとってはいつもの事だったんです。でも、逃げられたのは、これが……初めてです」
「……そうか。偉いな。普通なら、あれに追いかけられると思えば、恐怖を感じ逃げることすら諦める者も多いだろう。だが、そんなきつい状態でも諦めずに、尚逃げ出そうとした君に敬意を評する。俺の名は、キース。キース・スピアリットだ。見ての通り、竜騎士の一人で。とても不本意なことなんだが、国王より団長職も拝命している。俺がここに居たのは、ただの偶然だがあの恐ろしい存在から単独で逃げ出し草原を走る勇気を持つ、勇敢なお姫様を救出することが出来て良かったよ」
キースは安心させるように自らの身分を明らかにして、何の策もなく草原を走っていただけのオデットを労ってくれた。
(なんて、優しい人……私なんて、誰かもわからない。こうして、命を救ったとしても何も得もないかも……いいえ。むしろ厄介事しか連れてこないかもしれないのに)
「……竜騎士様。私は、オデット。オデット・ナイトレイ。月の女神の加護を生まれ付き受け月魔法を使うことが出来るので、幼い頃に国に売られガヴェアに今までずっと珍しい能力を利用され続けて来ました。優しい貴方を騙して、困らせたくない。どうか……私の存在が邪魔になるのなら、遠い場所に打ち捨ててください。私は人生での中で一回だけで良い。自由になりたかった。それを叶えることが出来て、本当に嬉しいんです」
オデットがじっと見つめてそう言えば、キースは一瞬だけ顔を強張らせ、ふっと微笑んだ。
「……君が、あの噂に聞くガヴェアの月姫か。俺も、女の子にどうか捨ててくれと言われて……真に受けて捨てるほど、自分で考えることを放棄したバカではない。俺は君が望めば、君を助けることも可能だろう。それだけの力を持ち、それなりの自由を許された役職にも就いていると自負している。オデット。それを聞いた上で、君は俺に何を望むんだ?」
オデットの願い事は、物心ついた頃からいつもひとつだった。これまでにただ一度も叶えられることはなく、いつも窓の外に見える自由に焦がれていた。
だから、迷うことなくその言葉は口から出た。
「竜騎士様……どうか。どうか、私を……私を意に沿わない身の上から、助けてください。どうか、お願いします。助けて」