EPISODE 09: SNEAKIN’ OUT THE HOSPITAL / C.R.E.A.M. PART 1
Fucked up, ダメだ、起き上がれねえ──やっぱあんな薬、飲むんじゃなかった。
全身に力が入らないだけじゃなくて、意識は途切れがちで頭もぐらぐらする。ビールを飲んだ時以上に世界が廻って見えるし、気分が良くなるどころか今はもうマジで最低最悪の気分だよ。薬って名前の皮を被ってるけど、中身は麻薬や覚醒剤みたいなもんなんだろ? こんなもんが一体、オレの何を治療するってんだよ!?
首を傾ければ枕元には銀色の包装シートの束と、水色の楕円形の薬剤がいくつか転がってる。一般名『トリアゾラム』、薬剤名『ハルシオン』、スラングだと『アップジョン』。
ニュースで見た事があんだよ、I know dudes, they takin’ up johns, 若者達の間で違法に流通してて、『アップジョンする』っていうスラングと共に乱用されてるっていう薬だよ。けどオレは別にこの薬を誰かから買った訳じゃねえし、先輩や知人にねだって譲ってもらった訳でもねえ。
行きたくもなかった病院で、絶対に信用しちゃいけない医者から、正規の手続きに従って中学生のオレに処方されて、飲みたくもねえのに飲んだもんなんだよ、shit, damn, fuck that doc for real, I’m done wit’ this, あのクソ医者、マジあいつ何なんだよ一体!!
布団の中でいくら毒づいてみても、もう遅かった。
胃の中で溶け出したトリアゾラムの成分は腸から吸収されて、血液に乗ってすでにオレの全身を駆け巡ってて、この世界を生きてくのに必要な五感と理性的な思考を、1つ残らずオレから奪い去ってった後だった。
それは数日前の事だった。
「一緒に病院に行きましょう」
学校から家に帰ってくると突然、クソ母親が真顔でそう言ってきた。
今オレ別に風邪引いてねーし? 熱も出てねーし? オレ自身が病院行く理由見当たんねーし?
—Ah, I got it, またクソ親父が入院でもしたのか、相変わらず懲りない男だよなぁ。
そういやぁ先日、クソ母親が外出で帰って来ないタイミングを見計らって、クソ親父が知らねえ女を家に連れ込んでた所に、オレ鉢合わせしちゃったんだよなぁ。オレが家に帰ると床には男女のド派手な服が脱ぎ捨てられてて、床には臭っせえ化粧品ポーチとハイブランドの口紅と財布とが転がってて、おまけに財布からは不用心にも ID まで見えてたんだよなぁ。
Fuck off, again, あいつまた在留者に手ェ出してんだよなぁ、already been a middleman in the underground, 解体業のチンピラから本格的に人身売買ブローカーにでも転職しやがったか?
Or got burned by this bitch, じゃああの時、あの女から何か病気うつされたのか? しかも自分の家でかよ? 他の女と宜しくやるのは今さら構わねえけどさ、中学生が住んでる家をモーテル代わりにしてんじゃねえよ、気持ち悪ィんだよ──見舞いに行くのマジ面倒だな、まぁあんなんでも一応父親で法律上は家族なんだから、仕方ねえか──下着ぐらいなら届けてやっても良いよ。
オレはため息混じりに応える。
「What happens, 何、親父がまた入院でもしたの」
「──違うの、お見舞いじゃないの」
目を細めてクソ母親が言う。
じゃあクソ母親の受診の付き添いか? けど子供のオレが付き添いで行く理由もないぞ、だってクソ母親の健康管理についてオレは何も知らないから、オレから説明出来る事なんて何もないじゃん──あ、耳の奥がキーンってしてきた、何か嫌な匂いもする。
オレは右の片眉を上げ、警戒心をあらわにしながら聞いた。
「じゃあ付き添いって事? Why me, 何でオレが行く必要あんの」
「大丈夫よ、一緒に来てくれればそれで良いの」
これ以上逆らったら、どうせ今晩の飯を抜かれんだろうな、そんでまた殴られて、ボロクソに言われんだろうな。中学生のオレに拒否権なんてものはハナからないって事だ、それを分かっててこいつはオレに言ってる──オレは受け入れるしかなかった。
電車を乗り継いで連れてこられた場所は、汚ったねえ都会の雑居ビルだった。
そのビルは交通量の多い街道沿いにあって、周辺一帯には常に濃い排気ガスが立ち込めてる。おまけに都会特有の、下水から漂う卵の腐った様な酷い匂いも流れてくるから、耳の奥も鼻の奥も同時にしびれてくる。こんな場所にある病院に来るってだけで、オレだったらますます調子悪くなりそうだけどな──ここに来る医者も患者も、y’all damn numb, huh, 皆んな鈍感って事か?
建てられてからはそれなりに年数が経ってるって感じで、ビルの外壁には色んなとこヒビ入ってるし、汚れも相当に目立つ。入口は薄暗いしカビ臭い。え、ya sayin’ for real, この中入んの!?
入口の奥にはビルと同じだけ年数を経たっぽい、古びた1機のエレベーターがある。そのエレベーター横の立て看板には、小さな文字で『精神科・心療内科』って書かれてた。
エレベーターを降りた先は病院っていうよりも、そこは小さな診療所だった。
受付と、待合室と、診察室が2つに、採血等を行なう簡素な処置室が1つ。診療所の内装はビル入口の雰囲気そのままで、やっぱりちょっと薄暗くて汚い。エアコンが回ってる音はするから空気は入れ替わってんだろうけど、カビ臭くてちょっと息苦しい。待合室にいんのは患者──なんだよな? 皆んな、like creatures’ call and the dead start to walk in their lost souls, ‘cause this is thriller or ya ghosted, look checked out, huh, ゾンビみてーに目が死んでるけど。
Seriously!? ──何だよここ、what the hell for real, ここ本当に病院かよ!? 悪い所があるから皆んな病院に来てんだろ? だから病院の待合室で座ってる患者の表情が暗くても、それは仕方ない事なんだろうけどさ──けどここは何か違うぞ!?
ここの病院の患者の表情は暗いんじゃない、その患者に表情がないんだよ! どこかが痛くて苦しいから、助けを求めて病院に来てんだろ? なのにそれが表に出てねえよ! 痛いとか苦しいって顔が言ってねえぞ!? 何だこいつら、胸の奥がざわざわして、耳の奥がキーンってなる──。
受付の若い女の人は待合室の患者とは対照的に張りついた笑顔だったけど、like, dead inside, iron-hearted, オレは気味の悪いロボットを見てるみたいだって思った。
やがて受付から名前が呼ばれてクソ母親と一緒に診察室に入ると、ハゲ、白い顎髭、膝ぐらいまでの長い白衣を着た、かなり年をとったじーさんの医者が椅子に座ってた。クソ母親は初診じゃなかったっぽくて、前回の診察からどう過ごしてたかをじーさんの医者に説明し始めた。
医者はクソ母親やオレの方を見ようともしないで、その視線は机の上にある紙のカルテだけに向けられてる。そのカルテは、書いた本人以外には読めそうもない筆記体で書かれてる──ヘビかミミズでも這ったのかよ?
それにローマ字っぽいけど、英語じゃあなさそうなんだよな。前にどこかで、近代日本の医療はドイツが源流なんだって聞いた事がある。もしかしたらドイツ語で書かれてるのかもしれない。日本人相手に日本語で診察してんだから素直に日本語で書けば良いんじゃね? って思ったけど、that aside, I’m a young gun wit’ slang ‘n’ dirty words in English, even though born as Japanese, まぁこれが『人の振り見て我が振り直せ』ってヤツだろ? だから口には出さなかった。
「じゃあお母さんは席を外して、待合室でね」
そんなクッソどうでも良い事をオレが考えてると、医者はそう言ってクソ母親を退席させて診察室にオレひとりを残した。
え、何で? オレ、クソ母親の診察の付き添いでここに来たはずなんだけど? 何でオレ、1人で今このじーさんの医者と向き合ってんの? 意味分かんなくね? けどまぁ初対面だし、自己紹介でもしとくべきか? だったらこの場は、いっちょラップでかましてやるか?
医者はやっぱりオレの方を見る事もなく言った。
「お母さん、君が自分勝手ばかりで言う事を聞かないから心労で夜も眠れなくなった、とここに通っているんだよ。君はどうしてそんなにお母さんを困らせるんだい? 実の親なんだろう?」
医者からの諭 (さと) す様な口振りに、I’m stuck, no spits, オレは口を大きく開いて、ラップで自己紹介しようとしてたはずの言葉を全部失ってしまった。
Huh, ya for real, こいつ今一体何を言ってんだ?
勝手な事ばかりしてんのはクソ両親の方だろ? 言う事聞かせる為に、毎日殴って蹴ってボロクソ言って、いつでもオレを力でねじ伏せてんじゃねーか。この医者はクソ母親の一方的な言い分だけ信じて、ya tryna say it’s all on me, huh, 全部オレが悪いんだってハナから決めつけてんのか? 大体、実の親だから何だっつうんだよ、この女は実の息子に手ェ出す色狂いなんだぞ!?
医者はオレの心の動きとは関係なく話を続ける。
「君ぐらいの年齢ならね、若いからエネルギーがありあまって、それが行き場を失うのは良くある事なんだよ。学校に行かずに街をふらつくのは、きっとそのせいなんだ」
オレは全ての言葉の飲み込んで、ただその場で黙り続けていた。
オレは今の自分が置かれてる立場を充分過ぎるほどに分かってた。オレが今ここで何を言っても全部がムダだ、例え本当の事を言ったとしても、こいつはオレの話を絶対まともには聞かない。その耳を最初から持ってない。
この医者にとって『本当の事』なんて何の意味もない──だって医者の中ではすでにオレが悪者になってて、子育てに熱心な母親を困らせてばかりだから、今すぐ自分が間に入って何とかしてやらないといけない、悪さをする子供にはお仕置きをして、正しい道に導く事こそがこの世の正義だって!っていう、安っぽい時代劇みたいな物語が出来上がってるからだ。
この医者のじーさん、ego trippin’ out, no doubt for real, 今完全に自分に酔ってんだろ!
けどこのじーさんはこんなんでも医者だ、オレと違って社会的には信用されてる。対するオレは学校はサボりまくって咥えタバコで街をフラついてばっかの、社会から見たらただの不良少年でしかなくて、そんなオレの言う事なんて絶対に誰も信用なんかしてくれない。この場でこのじーさんとまともにやり合うには、あまりにもオレの分が悪過ぎる──ラップだったらこのじーさんにもまだ勝てそうな気すんだけど、否、今そんな事言ってる場合じゃねえ!
「だから、きっと夜も眠れてないんじゃない?」
What the hell ya sayin’, 医者からの突然の質問に面食らって、不用意にも応えちゃったのがオレの運の尽きだった。
「──そりゃまぁ、たまには寝つけない日ぐらい、ありますけど?」
「だよねぇ、夜はちゃんと寝ないとねぇ!」
まるでオレのその答えを待ちかねてたみたいに、それまで無表情だった医者は心底気持ち悪い笑顔を浮かべて、嬉しそうに机の上のカルテに何かの言葉を殴り書きし始めた。やっぱこれもドイツ語なんだよな? 何て書いてんだかマジで全然読めねえ。
ん? ──あれ、この医者の笑った口、こんな尖った歯してたっけか? Damn, it’s so real weird, ついさっきまでそんな風じゃなかった気がすんだけど、オレがちゃんと見てなかっただけか?
「薬を出すからね、それをきちんと飲んでね。飲んだと嘘をついても、血液検査をすれば君がきちんと薬を飲んでいるかどうかぐらいすぐに分かる。もし嘘をついて飲まないでいると、君を鍵のついた精神病院に入院させなくちゃならないんだ。本当はそんな事したくないからね」
医者の言葉にオレは耳を疑った。
What the hell this doc sayin’, 入院させるってどういう事だよ!?
Ya think I’m freakin’ nuts or outta my mind, つーか精神病院って何!?
It’s a nuthouse, for all the nuts, huh, この医者はオレが狂ってるって思ってんのか!?
Aight, 本当に狂ってんのはクソ母親の方だってのを、そうか、この医者は分かってなくて、この医者にとってオレは助けを求めてやって来たかわいそうな患者でしかなくて、そして今のオレはその役割を演じるしかない、って事なんだ──なんだよこの茶番、マジでクソだな──。
「なぁタイガ、オマエ体調ヤバいんじゃねえのか? 保健室行った方が良いんじゃねえか?」
「Shut the fuck up, my head’s poundin’, so zip it and stay dead quiet, huh?
(うるせえ頭に響く死ぬまでそこで黙ってろ)」
学級委員長が心配して、机の上に突っ伏したオレに声をかけてくれる。
今は身体がしんどいだけじゃなくて頭で考える事だってキッツいから、普段だったら退屈な授業をやり過ごす為に楽しみながら書く学級日誌も、今日のページはまだ空白のままだ。I’m done wit’ that, straight-up for real, ain’t no cap ‘n’ nothing deadass, 何も浮かばねえ、身体を起こしてらんねえ、今は寝てるしか出来ねえ、もう全部無理、何も出来ねえ。
授業中に寝てたりだるそうにしてんのはいつもだから、それは今さらもう気にもされねえけど、今日登校してからいつもの日誌を書かないままずっとこんな調子でいりゃあ、きっと体調悪そうに見えんだろうし、だから委員長だってこうして心配してんだろうな── そういやオレ朝、鏡で髪の毛セットしてくんの忘れたよな、まぁ良いか、今それどころじゃねえし。
あの薬を飲み始めてから、世界の音とリズムが大きく乱れ始めた。
目に映るもの、耳に届くもの、鼻につくもの、どれもがいつも以上に強い刺激として感じられる様になった。それと同時に、この世界の全てが不協和音として『聴こえ』始めた。
朝はますます起きられなくなった。頭痛ぇし、吐きそうだし、めまいするし、身体に力も全然入んねえし、ギンガの散歩に行くんだってひと苦労だ。今日だってやっとの思いで登校したんだ──午後からだったけど。頭も身体も、持ち主であるはずのオレの言う事を全然聞いちゃくれねえんだよ、あーイラつく、今すぐタバコ吸いてえ、けど起き上がれねえ。
学級委員長は心配して声をかけてくれてんだって理屈じゃ分かってても、今は自分の感情を上手く制御出来ない。どんな人の声でも、今のオレには不快に感じてしまう。他の級友達は遠巻きに今のオレを眺めるだけで、積極的に関わってこようとはしなかった。そりゃそうだよな、不用意にオレに近づいたら噛み殺されるかもしれないもんな、まぁそれで正解だ。
担任のウマちゃんの粋な計らいで、国語と美術以外で出席日数や点数の足りない教科は補習や課題提出、そして学校近隣のゴミ清掃ボランティアに参加する事で、内申書を卒業可能かつ高校入試に必要な評定まで引き上げてもらえる事になった。
叔父さんの組のエイジさんの言葉もあって、オレはとりあえずでも良いから高校受験をしようと心に決めた。もっと上手く英語でラップしたい、だからもっと英語の勉強がしたい、動機はたったのそれだけだ。今はそれしか思い浮かばない── this ain’t much, better than nothin’, こんなのでも、ないよりはまだマシってもんだろ?
国語と美術の成績だけはほぼ満点だったから、オレがどんな進路を選ぶにしても、赤点だらけの他の科目と比べてそこそこの点数が取れてる英語さえ上げれば、ギリどっかの高校にワンチャン受かるかも、ってウマちゃんが言ってくれたから、オレは今の自分に出来る事、英語の受験勉強を始めていた──え、ここ省略したらダメなの? フルで書く時、スペルこれで合ってたっけ? “You” は “Ya” で良くね? 意味一緒じゃん? つーか過去分詞って何? マジで意味分かんねぇ。
学級委員長がため息をつきながら、声を落として話を続ける。
「もともと目つきも態度も悪いのに、最近イラついててますます怖くなったから、何かヤバい薬でもやってんじゃねーかって、女子が噂してんぞ?」
「Bullshit, くっだらねぇ、好きに言わせとけ。そいつらはどうせ死ぬまでその程度だ」
オレは幼い頃から、back-stabs, thrown-shades, grapevines ‘n’ any scores more, ain’t my vibes, nothin’ worth my times, 周りの人間が日常的にする他人の噂話には、出来るだけ関わらない様にしてきた。もしそれが始まりそうだったらすぐにその場から離れて会話を抜けるか、例え話を振られても「オレは全然興味ねえ」とか「オレはそいつの事をそこまで深く知らねえ」って返して、会話を途中でぶった斬る。オレとはまるで話がはずまないから、他人の噂話を好む人種は自然とオレから離れてく。
他人の噂話なんかして一体何が楽しいのか、オレには良く分からない。テレビのワイドショーが話題になったり、スキャンダルを扱う週刊誌が売れる理由も、オレには同じ様に分からない。いくつかの断片的な情報だけで相手の全部を知ったつもりになれるほど、オレは傲慢 (ごうまん) じゃない。
別に、正義感とかそんなんじゃねえ、自分がされたら嫌な事は自分でもしない、ってだけだ。他人の噂話が好きなヤツほど、自分が噂された時にはすっげえキレてたりするだろ? そういうのって、日本語だと『因果応報 (いんがおうほう)』って言うんだろ? ──知らんけど。
けど今のオレの噂に関してだけ言えば、的を得ている部分も確かにある。オレは薄目を開けて、小さな声で言った。
「それに、別に間違ってもねえよ」
「──え?」
学級委員長が眉間 (みけん) に皺 (しわ) を寄せてオレの顔を覗き込んだ。
確かに、これはヤバい薬だ。
入手経路が違法じゃくてなく合法で、自分が飲みたくて飲んでんじゃない、ニュースで聞く話との違いはたったのその2つだけだ。10代前半の中学生にとって、それが危険な薬物だって事に変わりはない。
As the world turns I learned life is hell, living in the world, no different from a cell, everyday I escape from Jakes givin’ chase, sellin’ base, smokin’ bones in the staircase, though I don't know why I chose to smoke sess, I guess that's the time when I'm not depressed, but I'm still depressed, and I ask what's it worth, ya know, these lines talkin’ ‘bout drugs in the rhymes, いつもレコードの中で良く聞いてた薬物っていう『目に見えなかった存在』は、オレに認識される事でついに実体となって、こうして中学生のオレの目の前に現れた。それはレコードの中でもラッパーのいかつい兄貴達が警告を繰り返す通りに、オレの人生の何もかもを台無しにしようとする。
オレは起き上がるのを止め、再び布団に横たわった。
I don’t give a shit, ダメだ、もう今日はあきらめよう。出かけるどころか、飯を食うのもトイレに行くのすらも無理だ、これで英語の勉強なんてどうやってやれってんだよ? I‘m done wit’ that, 今のオレには何も出来ねえ。
部屋の扉の向こうからは相変わらずクソ両親がケンカしてて、さっきからずっと怒鳴り声が聞こえてくる。マジで不快な音だな、早く死んでくれよ。けどせめて、タバコの1本ぐらいなら今のオレでもどうにか吸えるか? 重く鈍った頭ん中に、ほんの少しだけ意識の灯が点る。
──そういやぁこの薬を飲む様になってから、世界の音とリズムがおかしくなったってだけじゃなくて、今までみたいな夢をあんまし見なくなったんだよなぁ。ほとんど毎日見て触れてた、別の時代、別の世界を生きる自分、ほんの少し先の未来を生きる自分は、夢ん中で全然見かけなくなっちゃったなぁ。
その代わり、何かすっげえ嫌な感じのヤツ、曇りの日の夜の闇みたいに真っ黒なヤツが、オレの夢ん中をのたうち回る様になってさ。それは四つ足の獣みたいな姿で、でもどこかはっきりとしてなくて、なのにドロッとした感触があって、鼻につく匂いをしてて、あんまし触りたくはない感じで──名前をつけるとしたら『黒い獣』、かな。今は頭動かねえから他に良い名前を思いつかない。
そもそも今自分が起きてんのか、それともまだ寝てんのか、それすらも自分じゃ分かんねえ。
今目の前の事は現実なのか、それともまだ夢ん中なのか、その境界線もイマイチ分からねえ。
Drifted awake, drifted away, オレ今起きてんのか? まだ夢の続き見てんのか?
Fuck it, あーそんな事、もうどうでも良いや。
眠ィんだ、頭ん中のノイズがずっとうっせえんだよ、もう何も考えらんねえよ。
薬を飲まされ始めたばかりの頃は、飲んだらすぐに強烈な眠気が来て、秒で寝てた気がする。けどここしばらくは薬を飲んでもクッソ強い眠気が来る癖に、なんでかすぐに寝つけない。眠くてダルくて動けない状態が、ひたすらずっと続くんだよ──1秒でも早く意識を失いたいのに。
医者はあの後、そのうちにオレの身体が薬に慣れて、次第に効かなくなって眠気が来なくなる、もし効かなくなってきたらもう1錠追加で飲め、って言ってた。
Bullshit, もしあの医者に逆らったら、オレは精神病院に強制入院させられるんだろ?
もし入院なんかしたら受験や進学どころじゃなくなって──ラップの為の英語の勉強が出来なくなるし、そもそも音楽、レコードだって気軽に聴けなくなるんだろ? 好きな漫画や小説だって自由に読めなくなっちゃうんだろ? オレそんなん絶対ヤダよ、だから今は、これを飲むしかないんだろ?
今は、飲なまきゃ。今だけでも、言う通りにしなきゃ。
オレは震える指先で銀色の包装紙をつまんで破いて、まるで海外製のグミやキャンディみたいに発色の良い水色の錠剤を1粒、口の中へと放り込んだ。
冗談みてえな色だよな、確か、生物の授業で先公が言ってたな、こういうのを『警告色』って言うんだろ? ヘビとかカエルとかハチとか、自然界の中で身体の小さな生物が強い色を主張するのは、周りに「自分は毒を持っているぞ」って知らせる意味なんだ、って言ってた気がする。This is real venom, じゃあこれはマジの毒って事だよな? けどこうしてせっかくもらったばっかの警告を、オレはいきなり無視する事になるんだけどな、ゴメンな──オレ今、誰に謝ってんだ?
Damn, lost in my trippin’, so what I want, 今オレは、一体何してんだ?
枕元に置いてあった飲みかけのペットボトルをつかんで、キャップを開ける。何かやんなきゃいけねえ事があったはずなのに、それが何だったかを思い出せない──何だっけ、マジで。生ぬるい液体が喉元を通り過ぎていく。大事な事だったはずだ、その感触だけが残ってる。メモしとけば良かったかな、でもメモ書く気力なんてねーけどな。だったら書いてもどうせ読めねえか。
タバコに再び火を点ける──それだけだ。今のオレにはたったそれだけしか出来ない。
赤マルの煙が、電気の消えた部屋の薄汚れた天井に向かって上がってく。薬漬けになった中学生の今のオレには、もう何も分からない。オレは吸いかけのタバコをガラスの灰皿に押し当てて、静かにその目を閉じた。
目を開けたその先には、見慣れない風景が広がってた。
辺りは暗くて、深い霧に包まれてて、空に月と星々の輝きは見えない。
規則的に並んだいくつかの背の高い街灯だけが、その周りとオレの足元をちょっとだけ照らしてくれてる。街灯の光は霧のせいなのかぼんやりと淡くて、にじんでる様に見える。光に照らされたオレの足元を見ると、地面は綺麗に並んだ石畳になってる。
Where I be, どこなんだ、ここは?
街灯があるって事は──夜の公園なんかな?
けど石畳のある公園なんて、今までギンガと散歩で行った事あったか?
あれ、そういやギンガいねえじゃん、あいつどこ行っちゃったんだ?
周りを確認しようと思っても、立ち込める霧で街灯と石畳以外、何も見えねえな──それに、どうやらオレは着の身着のままっぽいぞ。いつものショルダーバッグがないって事は、携帯音楽プレイヤーや漫画、文庫本だって持ってきてねえって事だもんな。ズボンのポケットに手を突っ込んでみても、やっぱ中には何も入ってない。赤マルもライターも入ってない。
So screwed, まいったな、ここマジでどこなんだ?
夜空を見上げても全然星が見えないから方角の目安にならない。特別変わった匂いもしないし、判別出来る様な音も聞こえてこない。手がかりは今、何もない。
とりあえず、先に進むしかねぇかぁ?
星座の代わりに街灯の光を目印にして歩いてけば、きっとどっかへ出られるよな──ギンガも急いで探さないといけねえしな。オレは腹を決めてその一歩を踏み出した。Swingin’ back wit’ my kicks, steppin’ side wit’ my beats, 足元からオレの足音がリズム良く聴こえてくる。
けど── hold on, somethin’ wrong, 何かおかしくね?
しばらく歩いてみたけど、ずっと霧なんだよなぁ。さっきから風景が全然変わんねえし、街灯や石畳の並びもずっと同じだからリズムが一本調子のまま変わんねえ。リズムはとれても緩急がないからめっちゃ退屈、何も変化が起きねえじゃん。ギンガも見つかんねえし、マジつまんねえ風景だな。
ん? ──そういやあの街灯、さっきと同じじゃね?
根元んトコの傷、さっきと一緒だったっぽくね?
No way, ya kiddin’, まさかなぁ、そんなんある訳──おい、冗談だろ!?
心の中に湧いた疑いの気持ちを振り払いたくて、オレは歩調を早めた。けど進んでも進んでも霧は晴れないし、やっぱりリズムだって変わらない。間隔を変える事なくどこまでも並ぶ街灯の鈍い光が、振り返ったオレの背後に長く伸びる影を作ってる。その影は夜の闇よりもさらに深くて、そしてどこまでも黒かった。
Damn, 嫌な感じだ、つーかギンガどこだよ? ギンガがとなりにいねえと、オレ不安で仕方がねえんだよ。あー落ち着かねえ!
ふいに、街灯の作る影の1つが動いた気がした。
Whack!? オレは驚いて立ち止まった。その影をよく見てみると、四つ足の姿の黒い動物だった。何だよ、ギンガここにいたのかよ、マジ驚かせんなよ、とっとと家に帰ろうぜ。あーけど今オレ散歩用のリード持ってねえんだわ、ゆっくり一緒について来れるか? お前なら出来んだろ?
黒い動物は何も答えない。それどころか、低い唸り声を上げ始める。
Yo, bro, my bad, no need to bug out, オレが悪かったって、そんなに怒んなよ。もう置いてかねえからさ、つーか置いてかれたのってオレの方なんじゃねえの? あー冗談冗談、さ、帰ろうぜ?
黒い動物はますます唸り声を大きくして、さらに身体が徐々に大きく膨れ上がり始めて、その大きさはついにオレが見上げるほどまでになった。
──おい、お前──ギンガ──じゃねえの?
『黒い獣』は大きく開いた口からダラダラとよだれを垂らして、腰を高く上げたまま前脚だけを伏せた──これって、今から獲物に飛びかかるぞってポーズだよな? って事は──?
Get the hell out, 逃げろ喰われる!
恐怖に駆られたオレは『黒い獣』を背にして、全力で走り出した。
足に上手く力が入らない、息も乱れて、思う様に両足が踏ん張ってくれない、けど止まったらダメだ、I better run, I better do what I can, so beat it, just beat it, 今すぐここから逃げんだよ!
へぇ、どこから? 一体何から逃げるってんだ?
『黒い獣』からに決まってんだろ!? 追いつかれたら最期、オレはこいつに喰われんだよ!
そうか、なるほどな、けどその目を開いてもう一度良く見てみるんだな。その『黒い獣』の足、お前自身の影から伸びてるのが見えないか?
オレは走りながら振り返って目を見開いて、オレの影が伸びるその先を見た。オレの影と、『黒い獣』の四つの足がひと続きになってる──あ"あ”? 何だよこれ、どういう事だよ!?
お前はお前である事から、決して逃げられないって事だよ。お前がお前である限り、その影と『黒い獣』は絶対に消えない。しかもお前が光輝けば輝くほど、その影はより濃く、より深くなるんだ。そしてオレは、お前を逃がさねえ。
No, no way, beat it, beat it, just beat it, 逃げろ! オレの足もっと早く動けよ!
逃げんな、大人しくしとけよ、さぁ、喰ってやるから。
背後から『黒い獣』の鋭い牙がオレの首筋に充てがわれる。恐怖の絶叫と共に、オレの意識はそこで途切れた。