EPISODE 07: SO WHAT’CHA WANT / TIME TO GET ILL
朝は苦手だ。
朝が来たら、また今日も1日が始まっちゃうだろ──こっちは始まって欲しくねえんだよ。
1日はムダに長くて、そしてずっと苦しい。このままずっと目が覚めなけりゃ良いのにな、って思いながら布団に入る夜の習慣は、一体いつから始まってたんだろう。
今朝のオレの頭ん中には、この曲が大音量で流れてた。
It's wack when I'm jacked in the back of my life, with my know, with my flow, when I’m out getting by, believe myself, what I see is what I get, and I see me, I'm coming off as I can bet, so what'ma, what'ma, what my want— オリジナルのLPバージョンも格好良いんだけど、それ以上にEP収録のリミックスはダルそうに力が抜けてて最高なんだよな。
英語のライムはすごく面白い。
主語やいくつかの単語を入れ替えただけで、同じリズムのままで全然違ったライムになるんだ。リスナーに語りかけるリリックであったとしても、あっという間に自分を主人公にした物語へと書き換える事が出来る。
日本語の歌だとこうはいかない、そもそも主語がないし、言葉がどこに繋がってんのかも分かりにくい。日本語の歌は、知らない誰かを主人公にした短編映画を見せられてるみたいだ。
オレは、格好良いラッパーのリリックをいじって自分の言葉へと変えて、out here every day, every night, droppin’ ‘n’ spittin’ those lines loudly ‘n’ clearly, それを大声で毎日毎晩ライミングするのが好きだった。
Especially, Ad-Rock, 彼のライミングはいつも最高だ。ポップでクール、親しみやすくて聞き取りやすいライミング、he’s got that swagger as the King Ad-Rock, ya know, 彼には王様の称号がピッタリだ。ブラックの人じゃなくたって格好良いラップが出来るんだぜ、ってホワイトの彼が、レッドの夢を良く見てるイエローのオレに教えてくれた。
だからいつかはオレも、Ad-Rock みたいに格好良くラップ出来る様になりたい。その為には、毎日地道な練習は欠かせない。リリックの中の分からない英単語の意味も調べないといけない。
あー腹減ったなぁ。
起き上がる気力はとっくに最初から失われてて、残ってるものっつったら若者特有の底なしの空腹感ぐらいしかない。例えどれだけ身体や心がしんどくても、朝を迎えればそれなりに腹は減ってる──何でだよ、今朝も朝メシないって分かってただろ。お前マジで食うの好きだよな。
It’s time to walk wolf, though, 散歩に行かなきゃ。
オレの気力のアリナシや体調の良し悪しは、愛犬ギンガには関係ない。オレの勝手な都合だけでギンガの日常を壊せない。それに、人間なんかよりもギンガや近所の犬猫と一緒に時間を過ごしてる方が、よっぽど平和で心落ち着くってもんだ。人間を信じる気にはなれないけど、動物だったら信じられる。モフモフは常に正義だ。
オレは全身にまとわりつくかったるさを背負ったままどうにか起き上がって、布団を上げてだらだらと着替えた。
世の中はもうとっくに通勤通学の時間帯になってる。
寿司詰めの乗客を乗せたバスが、オレとギンガの目の前を走り抜けてく。
ほとんどの大人達は通勤前の早朝に犬の散歩に行くから、今の時間帯では飼い主のじいちゃんばあちゃんと、飼い主と同じ様に年を重ねた老犬とが、連れ立ってゆっくり歩く姿を見かけるぐらいだ。ギンガにしてみれば全力で遊べる相手と会わないから少し退屈かもしれないけど、まぁその分オレが一緒に走って遊ぶ相手になれば良いってだけの話だ。
オレは歩きながら、took Red Marlboro ‘n’ Bic out of my pockets, ジーパンのポケットから赤いマルボロとライターを取り出す。注意するヤツは誰もいない。家でオレのタバコが見つかっても、何も言われない。クソ親父がヘビースモーカーで家中にタバコの臭いが染みついているから気づかねえのか? それとも単に子供のする事に関心がねえのか?
Bullshit, to be honest, まぁ別にどっちでも良い。
オレにとって肝心なのは、タバコを吸えばグチャグチャになってた頭ん中がちょっとスッキリして、イライラしてた心も落ち着いてくる、って事だ。色んな味、フレーバーを試してはみたけど、一番しっくり来たのはこの赤いマルボロ、通称『赤マル』だった。濃くて良い匂いがするし、赤いパッケージも渋くて格好良い。
酒はビールが好きだ。他の酒はどれもすぐ酔っ払って眠くなっちゃうし、味や香りの良さを理解するまでにはまだならないけど、ビールを飲んでると赤マルと同じで気分が落ち着いてくるし、それに楽しい気持ちにもなる。赤マルとビールなら、今のオレでも良さが分かる。
それにしても、anyways, it be straight-up dope, I feel, 昨日はすっげえヤバい夢を見た気がする。今までときどき夢で見てた『白い獣』だ──ライオンみたいでライオンじゃない、トラみたいでトラじゃない、ライオンほどじゃないけど短くても鬣 (たてがみ) だって分かる立派な毛、トラほどはっきりした濃さじゃないけど特有のシマ模様がある、どっちなんだかマジで良く分からない、けどどっちにしたってネコ科の大型肉食獣っぽい、あの例の『白い獣』だよ。
It was a dream, wake up, just a dream, wake up, get up, wake up, その『白い獣』からすっげえ迫力のある声で、「目覚めよ」って耳元で言われたんだよな──。
まぁ確かに、my name means “the Lion Fang” in Japanese Kanji, also “the Tiger” in English vibe, オレの名前の由来はライオンとトラだけどさぁ、それにまだ10代だってのにオレの髪の毛はめっちゃ白髪だらけだし? ”The White-furred Beast”, その特徴をむりやりつなぎ合わせてみれば、まぁこの『白い獣』はまるでオレ自身の象徴、メタファーとして置き換えた存在、とも言えるかもだよな?
ユング派の偉い人に聞いてみたりしたら、「それは神話的な元型の亜種に過ぎない」って笑われたりすんのかな。けどさ、人間じゃなくて獣なんだから『老賢人』とは言えないだろ? それに、これだけ体毛が白いと『シャドウ』とも言えないじゃん? そもそもが何だか良く分からない獣、って時点でまともな分析、全部意味ない気がすんだよなぁ。
最近面白かった、ユングの本を読んで覚えた単語だぜ──ちょっとそれっぽいだろ? 近代の人間にしては、ユング先生すげえ良い事を言ってるよな。フロイトにも手を出してみたけど、who’s damn this fool, 何だこいつめっちゃ考え方気持ち悪ィな、と思って途中で読むのを止めた。
けど目覚めろって言われてもなぁ、眠りから、夢から醒めろって単純な話でもなさそうだよな。
What’cha want, それなりに結構大事なメッセージをもらった気はするけど、このネコ科の獣は結局オレに一体何を求めてんだ?
ふと左横からの視線を感じると、オレを見つめているギンガと目が合った。Even if forgotten where I come from, ya’d still know somethin’, though, ギンガなら何か知ってたりするんかな。
「Yo, bro, ya got the lowdown on my dream, or tell me somethin’ ya’d known, aight? ってネコ科の夢の話を、イヌ科のお前に聞いてもダメかぁ?」
ギンガは尻尾を振りながら首を傾げてオレを見てる。これじゃあギンガは何かを教えてくれるってよりか、『何だ、そんなに俺と遊びたいのか?』って言ってんな、まぁそりゃそうだよな。オレは咥えタバコのままギンガの頭を軽くなでると、ギンガは嬉しそうにはしゃいで応えた。
赤マルの強い香りが煙と共に鼻を抜けて、空へと漂って消えてった。
あの英語の授業の一件以来、オレは中学校が大嫌いになった。
小学校だってもともと好きじゃなかったけど、学校って場所に行く事自体が酷く苦痛になった。
少しずつ遅刻の回数を重ねて、遅刻の常習犯リストの一番上にオレの名前が乗る様になって、そのうちに欠席をする日が増えてって、中学校生活の半ばに差しかかる頃には週の出席日よりも欠席日の方が多くなってた。
登校したとしても気分次第、I go real moody, off the wall, but on the wall, wall-to-wall, 機嫌が悪くなったら英語の授業の時みたいに机と椅子を蹴っ飛ばして途中で教室を抜け出して、勝手に早退した。少しだけ話の通じる保健体育の先生から保健室登校を勧められたりもしたけど、オレはその意味を理解出来なかったし、結局はやらなかった。他の先公達は腹の立つヤツらばっかだったけど、教室の雰囲気や級友自体が嫌いって訳じゃなかった。
ギンガの散歩ん時と寝る時以外はあんま家にいなかった。ゲームセンターや本屋、レコードショップやファストフード店で1人過ごして、金がない時は図書館で時間を潰した。ギンガ以外に人間の誰かと気安くつるむ気にはなれなかったし、そもそも気ままなオレにとって集団行動はよっぽど仲良くなければ無理だった。結果的に、中学時代のオレは単独行動が好きだった。
目や耳や鼻を通して、他人が考えてる事や、自分を取り囲んでる状況がなんとなく分かってしまうっつう不思議な力は中学生になっても変わらずあった。それが真実か否か、大丈夫かそうじゃないかを、wit’ my all senses, オレが見分けて、聞き分けて、嗅ぎ分けると、それを引き金にした頭痛や吐き気、腹痛なんかの体調不良に悩まされた。級友や先公が考えてるくだらない事が勝手に頭ん中に割り込んできて、自分の思考を乱されるなんて事もしょっちゅうだった。
特に匂いに対してオレは普段から敏感になってて、yo, walkin' air fresheners, spray bombers, they flexin' Adidas originals, but coverin' up their own originals, 洗剤や柔軟剤、たくさんの香料を使った香水とかの強い人工的な匂いを嗅ぐと、オレの鼻の粘膜は焼けつくみたいな感覚になって、どんどん体調が悪くなって、酷い時には道端の生垣に胃ん中にあるものを全部吐いたりした──音とリズムがマジで最悪、すっげえ嫌な匂いに『聴こえる』。
I’m goin’ lone-wolf for now, だからオレは大きな集団ん中にいる事がとにかく嫌いだった。
群れるヤツらの動きには主体性がなさ過ぎて、次に何をやらかすか予測も理解も出来ないし、本心じゃない上辺だけの言葉をずっと聞かされなきゃなんないし、良い匂いも嫌な匂いもごちゃ混ぜになってるしで、オレの頭が酷く混乱するからだ。その全部が混ざればマジで最悪、全部が雑音として『見える』し『匂う』し『聴こえる』。
もっとも、混雑したファストフード店や繁華街の路上でも同じ現象は起こりやすかった。好物のハンバーガーをむりやり口ん中に押し込んで、逃げるみたいにして店を出る事も結構あった。気づけばオレは人混みを避けて行動する様になってた。
学生服から私服に着替えたとしてもオレの体格や外見は中学生のそれでしかなくて、同じ場所に決まった時間や曜日で現れると通報されかねないから、like a stray cat or some like that, 行き先はその日にランダムで決めてた。
自分が住んでる片田舎だと目立つけど、都心に行けば中学生のオレが咥えタバコで街をうろついててもあんまり目立ない。体調優先で考えたら人混みは避けたいけど、身を隠すには都心の人混みの中の方が都合が良い。大昔のニンジャの本にもそう書いてあった──マジで勉強になる。
それに、都心に行けば洋楽を扱う大きなレコードショップがあるし、洋書が揃ってる本屋だってある。そこに行けばたくさんの音楽や本に触れられる。特に洋楽に力を入れてる大型のレコードショップは、what the hell rec shop, wit' some phat wreck shots, まだ聴いた事がない音と出会える場所、オレにとっては大事な居場所の1つだ。
けど、同じ様に地元の図書館も最高だ。静かで不快な音や匂いもなくて居心地が良いし、長く過ごしても常駐する中年の司書さんからはいつも何も言われない。もしかすると前にもここで、someday, my knowledge gotta make these stacks into the bucks, オレと同じ居場所のない子供がオレと同じ表情をして、オレと同じ様に屯 (たむろ) してたのかもしれないもんな。
The stacks or phat wreck shops, 図書館、本屋、レコードショップも、どれも全てが棚に整然と並んでるから、オレの視覚的には良く『聴こえる』。本のインクの匂い、輸入レコード独特の匂いも最高で、オレの鼻にも良く『聴こえる』。
図書館はそのままでも平気だけど、sounds phatty, noisy as fuck, レコードショップだと色んなコーナーの音が混ざり合うのだけは酷く耳につらい。だから、店内を移動する時は携帯音楽プレイヤーで流す音楽を密閉型のイヤフォンで聴きながら、気になったものを試聴機の店内ヘッドフォンでその都度聴く様にしてる。こうすればオレは、いつも気分良くいられる。
けど、今日は本屋に行こう。バイク雑誌の新月号が出てるはずなんだよな。免許が取れる年齢になるにはまだちょっと時間かかるけど、その時が来るまでの間、雑誌や実物を眺めてイメージトレーニングを重ねておくってのも、オレにとっては結構楽しい時間になる。
今はまだ真っ昼間だからな、いつもと同じ街の小さな本屋は避けておいた方が良いかもしれないな──となると、都心の大型の店舗に行くか! そこなら客の数もあるから人に紛れて目立ちにくいし、雑誌や本の種類と在庫が豊富だし、洋書も取り扱ってっからどれだけ立ち読みしても飽きるって事がない。
中学生のオレにとって、it’s like a hub to the whole world, as the heart of spinnin' steel wheel, 本屋、図書館、レコードショップは世界を知る為の拠点みたいな場所だった。
さっそくオレは地元の駅から電車に乗った。電車内はちらほらと空席が目立って、オレはその一角に腰を下ろす。こないだ叔父さんの家に遊びに行ったばっかで、小遣いには余裕があった。金の心配をしなくて済むと気分も良い──オレ細かい金の計算、マジで苦手だから。
それにしても、混雑する時間帯じゃなくて良かった──ちょっと前、何も考えずに満員電車に乗り込んだ事があった。前後左右から押し潰されて、中学生のオレの身体が一瞬だけでも宙に浮いたぐらいに混んでた。Whack!? 身体浮くぐらいに混んでるとか、頭おかしいだろ!?
混雑と同時に化粧品、香水、体臭と汗とが混じり合った酷い匂い、耳の奥をいらつかせる雑音が一気に押し寄せて来て、オレは速攻でギブアップ、目的地に辿り着くよりも前に途中駅で降りてトイレで盛大にゲロって以来、満員電車は何が何でも避けるべきだ、ってオレは身体で覚えた。
Damn, it’s crazy, like cattle cars, as packed hellhole, ya know, 満員電車に長時間閉じ込められたまま仕事に行っても平気な人達がいる、ってのがオレには不思議でしょうがない。
Ya cows or pigs, huh, その人達は、窓から眺める都心の風景や目の前の人間の数の多さでめまいしたり、車内に充満する匂いで気持ち悪くなったり、絶え間ない雑音で頭痛くなったりしないのか? まぁしねえから平気で仕事行けてんだろうけど──それ、要は鈍感って事だろ? それとも、それはオレ個人の資質の問題で、or damn am I a crazy dork, huh, オレが皆んなよりも身体や心が弱いからそうなるって事なのか?
自分が将来、満員電車に乗って仕事に出かける姿は想像も出来ない。もし本当にそうしなきゃいけなくなったら、オレはきっとまともに働き続けられないだろうな、って思う。あれに乗ってオレが正気でいられる訳がねえし、それに、24時間戦うとか言ってる CM あんだろ? あれマジで頭おかし過ぎんだろ──サラリーマンなんてオレには絶対に無理だぞ?
けどじゃあオレは、like my sperm donor, ain’t nothin’ but low-life, broke-ass thug, 大人になったらやっぱクソ親父みたいなチンピラになるんかな──否、こうして学校サボって、咥えタバコで街をふらついてんだから、まぁそりゃそうだよな、also I’m a thug, just a kid straight outta the streets, always smokin’, 今の自分の姿を見りゃあ、そんなん一目瞭然 (いちもくりょうぜん) か。
あんまし、I ain't tryna think deep on this, ちゃんと考えたくねえなぁ──これ以上どう考えたって、良いイメージにはなりそうもないって。ロールモデルがアレじゃあなぁ。
オレは肩に斜めがけしたウエストバッグから携帯音楽プレイヤーとイヤフォンを取り出して、両耳に着けた。Feel the beats, spit the lines, make some noise and ride the boogie, こういう時は音楽の力を借りるのが一番だ。音とリズムが奏 (かな) でる河の流れの中に飛び込めば、音楽に合わせて身体を揺らしているうちに、心にこびりついた嫌な事は綺麗さっぱり洗い流されて、いつまでも終わりが見えない不毛な時間でさえもいつの間にか運び去られてたりする。
それに、イヤフォンかヘッドフォンがあれば周りの雑音はシャットアウトされるから、自分と周りとの間にある境界線の存在をよりはっきりと認識出来る。
雑音はオレの意識をオレ自身から簡単に引きはがそうとしてくる。その結果、オレの注意は自分でも気づかないうちに他人や外の世界に向けられてて、自分自身を形作ってくれてるはずの境界線はいつの間にか曖昧 (あいまい) になってる事を知る。
雑音を作り出して、断りもなく境界線を越えて勝手にオレの中へ入り込んでこようとする他人の存在はとにかく不快、邪魔なんだよ。皆んな礼儀ってもんがねえな。オレの世界にはこのオレ、as above, so below, heaven only knows in all existence, so I got the supreme, オレ1人だけがいれば、もうそれで充分なんだよ──そうだろ?
年齢を重ねるうちに、オレの周りからは英語話者がどんどんいなくなってった。
皆んな、自分の祖国に帰ってしまった。英語で気負わない会話を楽しめる場所と時間はなくなっちゃったけど、wit’ slang ‘n’ dirty words, そんなオレを慣れ親しんだスラングの世界に手っ取り早く引き戻してくれる手段こそが音楽なんだ。
オレは周りの同世代が聴いてるみたいな、日本のヒットチャートの音楽には興味がなかった。都心の大型レコードショップに何度も通ってたくさんの試聴機を片っ端から耳に当てて、英語で歌われてるオルタナティヴ・ロック、グランジ、シューゲイザー、パンク、メタルなんかのハードコア・サウンド、それにラップ、ヒップホップ、ソウル、ジャズなんかのブラック・ミュージック、そしてクラブ・ミュージックに次々と出会って、オレはそれらをこよなく愛する様になった。
中でもラップ、ヒップホップは、オレと特に相性が良いって感じられるものばっかだった。
スラング、スラング、そしてスラング、keep dirty words rollin’, 耳に良くなじんだフレーズ、some lines for their own liberation, 貧困層の若者達の中から生まれた、復権と反体制の為の音楽──キレイで正しいとされる英詞の曲を何度聴いても、オレにはピンと来なかった。
ヒップホップには『サンプリング』って文化がある。ヒップホップにおけるサンプリングは、過去の偉大な作品に敬意を払いながらその魂の血を受け継いで、新しい作品へと昇華させる1つの表現方法として広く受け入れられてる。音楽的な用語で言えば、他の音楽家の作った曲の一部を “motif” (モチーフ) として自分の作品の中に取り入れる、って事だ。
オレは、そのサンプリングがひとつの曲の中にいくつも重ねられて作られたヒップホップの音が好きだった。サンプリングで古い記憶が呼び覚まされて、それは新しい時代に、新しい生命を吹き込まれてよみがえる。Not talkin’ circles, wheelin’ in spiral, それは昔と同じみたいで、けど決して全部が同じじゃなくて、少しだけどこかが違う。同じ場所でただ円を描き続けるんじゃなくて、まるで螺旋を描くみたいにして、そうやって音楽は、ヒップホップは前に進む。
だから、過去に起きた出来事を否定したり、なかった事になんてしない。
全部を受け止めて、肯定して、そこから1つでも多く何かを学んで、もっと良いものを生み出そうとさえする──その姿勢は常に誠実だし、けれど貪欲 (どんよく) だし、冒険心とか探究心とかも一緒にブチ込んで全部かき混ぜたみたいな、魂の奥底で燃え続けてる炎、って感じがする。
そんでラップは──『読経』みたいだな、sounds like some sutra, don’t ya think so, とも思う。
日本人の生活の中に溶け込んでて、昔からずっと続いてる、伝統的な宗教を通じた祈りの言葉、寺の坊さんが唱えるありがたいお経や、神社の宮司 (ぐうじ) さんが読み上げる神聖な詔 (みことのり) と、ほとんど同じだろ? 違いは胡座 (あぐら) や正座で身体を動かさないってだけで、一定のリズムに乗ってずっと言葉を放ち続けるスタイルは一緒じゃん?
Spittin’ slang ‘n’ dirty words in hip-hop sounds、それはきっと現代の『祈りの言葉』で、今の行き詰まった生活、定まらない生き方を少しでも良い方へ変えてこうってする、個人の生活に根ざした飾らない、等身大の祈りの言葉だ。そして祈りの内容自体に、良し悪しなんて他人の判断は必要ない。
夢ん中で忍士 (しのびざむらい) として生きてたかつてのオレも、密教経典や古神道の偈 (げ) を高らかに、まるで歌うみたいに読んでた。忍士としてのオレが唱えてた護身法の祈りとその動きは、現代を生きてる今のオレでも何も見なくてもそらで言えるし、動きも完璧に再現出来る。
祈りながら身体を動かすって事は、きっとオレの魂にとって相性が良いんだろうな。
さて──今のオレの気分に合う曲は一体どれだ? I am tired of this devil, I am tired of this stuff, I am tired of this business, go when the going gets rough, either I be wrong or right, it don't matter if I be black or white, ‘cause it wasn't me I was foolin' when I knew what I was doin’, when he told me how to walk this way, but I missed two classes and no homework and my teacher preaches class like not to be some kind of jerk, oh he talks ‘bout me, huh, so I gotta fight for my right, ya know, the deal that I’m real, so I’m still 'round, don’t lamp wit’ a freestyle phantom, ain’t tryin’ to be handsome, shrinkin' what I’m thinkin' 'cause I’m vampin', to live and die for hip-hop? Yo, these lines for me now, this is hip-hop for today!!
右手の親指でプレイヤーを素早く操作すると、耳元からは今聴きたい気分の曲が流れ出した。
目を閉じて音楽に身を任せてたら、気づけば電車は目的の駅に運ばれてた。
たくさんの鉄道会社の路線が入り乱れるこの駅は、例え通勤通学の時間帯じゃなくても一日中たくさんの乗降客で賑わってる──人の集まるこんな騒々しい場所に長居なんてしてられねえ。
Swingin’ back wit’ my kicks, steppin’ side wit’ my beats, オレはイヤフォンのコードを揺らしながら足早に改札を抜けて、複雑に入り組んだ主要連絡通路を歩いて、駅直結の商業施設の入口に向かった。どの改札から出て、どの通路を進めば一度も外に出ないで最短で本屋に辿り着けるか、何度か通っている内にオレの足はその順路を自然と覚えてった。
噴水のある広場にかかる長いエスカレーターを進んで、うっわ何あの服くっそダッセぇ、slaves to the labels, 左右に並んだ高級ブランドのショウウインドウの間を抜ける。手前にはエレベーターがあるんだけど1機しかないから、タイミングによっちゃあ長く待たされる。オレは待つのが嫌いだ──けどこの通路を抜けた奥に、施設の正面入口から見えない死角にエスカレーターがあるんだ。Gettin’ around the given, こっちを利用した方が早いんだぜ、お前誰にも言うなよ?
都会の建物は片田舎の中学生のオレからすれば、RPG で財宝を隠す為に色んなトラップがしかけられたダンジョンみたいだよなぁ、って思う。そしたら、こんな時に携帯音楽プレイヤーから流れる音楽は、さながらゲームのサントラって事か? 何だそれ、めっちゃウケるな。
Huh, now I’m Edward Geraldine wit’ katanas ‘n’ secret arts, can ya feel me?
いつもの車・バイク雑誌の台の片隅に、その雑誌は置かれてた。
平積みじゃなくて棚から背表紙が見えてる置き方だったから──発行部数や入荷数があんまり多くない雑誌って事なんか?
Like, Mr. Bike, Moto Champ, Motorcyclist, Kawasaki Bike Magazine, 普段良く目にしてる大体の雑誌はもう名前を覚えてるけど、これはどうやら初めて見かけるものっぽいな。こういう偶然の出会いがあるから都会の本屋は楽しいんだよなぁ、自分の住む街の本屋だけに入り浸ってたら、きっとこの雑誌の存在すら知らなかったんだろうな。
オレは無意識に、その雑誌に手を伸ばしてた。
表紙には創刊号って書かれてんな──これはどうもバイク乗りの為のファッション特集をした雑誌っぽいな。そうか、格好良いバイクにはそれに見合った格好良い服が必要なんだな! 今までバイク用の服なんて考えた事なかったけど、将来 ZEPHYR に乗るのに今から外見だけでもそれっぽく整えておくってのも、良いかもしれない。揃えるのに金が結構かかりそうだし、オレが好きなラッパーの人達の雰囲気とはちょっと違う気もするけど──まぁすぐには買えないとしてもだ、こうして色々と勉強しておくのはきっと良い事だな、うん。
そう思ってページをめくっていくと、イカツいバイカーファッションを着込んで、その服の合間から色とりどりの刺青 (いれずみ) を見せてる国内外のモデル、ミュージシャンの姿が次々とオレの目に飛び込んできた。1960年代から1980年代にかけて反体制派の象徴とされた音楽についての知識や、only in Japanese, street gang styles, 日本独自のヤンキー文化や暴走族についての歴史の特集も組まれてる。
What the heck is this, 今まで読んできたバイク雑誌と全然違うなー。へーやっぱラッパーの人達とは全然雰囲気違うんだなぁ。けどこれがバイクのファッションなのかぁ、何かすげーなぁ。ここに書いてあるもの、載ってるもの、全部オレが初めて知るものばっかだ!
つーか、モデルさんが着てる服装もまぁ確かに格好良いんだけどさ──それよりもモデルさんの刺青やピアスの方がヤバくね? めっちゃ格好良いよな!? These be soooo fresh, fly ‘n’ tight, いやこれマジですげーよ、身体を使った芸術って感じがする。
オレは無意識のうちにその雑誌を手に持って、いつの間にかレジに行ってて、気づいた時には会計が終わってた。
あれ、買っちゃったよ、この雑誌──どうやって買ったのか全然覚えてねえや。ちゃんとレシートも持ってるから、万引きはしてねえはずだけど──自信ねえぞ。まぁ一度の立ち読みで消化出来る情報量じゃねえもんな、買って良かったんだよな、きっと。あー何か疲れたからベンチで休むかージュース飲もうぜ。否、それとももう帰るか?
帰りの電車の中で、家に帰ってから部屋の中で、オレはその雑誌を何度も何度も読み返した。読み返す内に刺青は、ドクロとか十字架とか、ワンポイントのデザインを中心とする海外の『タトゥー』と、仏様とか龍とか虎とかがドデカくド派手に描かれた日本の『和彫』に大別出来るって事が分かった。
その中でもオレは、和彫の迫力と、民族模様の躍動感に心を奪われた。
背中一面に彫られた仏様とか龍とかが、すっげえ、その人の背中──肩甲骨とか背骨の動きに合わせて、マジで生きてるみたい見えるじゃん! ──なるほどな、民族模様は筋肉が発達してる男の人の方が、陰影が強調されて立体的に見えるんだな。これは細いとこまでちゃんと見え方が計算されてるっぽいよな、these be out in the open shots, open arts, not secret arts, 思った通り、これは立派な芸術なんだな!
よーし決めた、オレも大人になったら絶対に刺青入れるぞ!
けど、どんなデザインにしようか?
一度彫ったら修正が効かないって事も知ったから、何を彫るか慎重に選ばないといけないよな。和彫を入れるなら龍、虎、唐獅子なんかが格好良いな、不動明王も似合いそうだ。和彫以外なら民族模様も良いよな。アウトラインに強弱が付いた民族模様独特のデザインをじっと眺めてると、like, I gotta be a wild one wit’ it, a tiger, a panther, known as sharp beasts, 何だかトラとかヒョウの毛皮の模様みたいにも見えるんだよなぁ。Well, I be like, じゃあいっその事、トラ柄とかヒョウ柄の刺青ってのも良いかもなぁ。デザインの中に好きなものを全部一気にまとめて入れたら、さすがにゴチャゴチャするかな? ──そんなら背中だけじゃなくて、いっそ全身に入れるって手もあるよな!
たくさんの刺青を入れた自分の姿を想像するだけで、オレの胸は高まり、心は躍った。
こんなにサボっている癖に、何でか知らんが中学は3年生に進級出来た。けど、オレにとって学校って場所はやっぱり毎日通うところじゃない。週に1、2回とか、たまーに顔を見せるぐらいで充分だ。
だって、学校、退屈じゃん?
机と椅子に座って同じ姿勢のまま、興味のない、面白くも何ともない話をひたすら聞かされ続けるのは苦痛でしかない──クソの役にも立たない。それよりもやっぱゲームセンター、本屋、図書館、レコードショップにいる方が、少なくとも今のオレにとっては有益だ。
それに、I’m a loose cannon, anyways, got lost in my noisy as fuck, busted head, 登校したらしたでオレは常に問題児として扱われた。
授業の内容が理解が出来なかったり、出された問題を1つでも間違えると、オレは舌打ちをして教科書を放り投げて、机の上の物を全部叩き落として、机や椅子を蹴り上げて、spittin’ some dirty words loud, 教室から出て行った。先公から小難しい事を言われたらポケットに手を突っ込んだまま眉間 (みけん) に皺 (しわ) を寄せて、右の眉を吊り上げながら相手の目をにらみつけた。
保健体育の先公が心配して、タイガは足が早いんだから今からでも運動系の部活に入った方が良い、その方がきっとスッキリするぞ、って何度もオレを部活動に勧誘してきたけど、オレは全部断った。そもそもまず部活の金を出せない、集団行動が苦手、っていう分かりやすい理由もあったけど、それだけじゃなくて、オレにはほとんどのスポーツのルールがちゃんと理解出来ない、っていう別の理由もあった。
何でそこで止まんだよ? 何でそれをするとやり直しになんだよ? 何でだよ、こないだまでそれで良いって言ってたじゃん、何で今はダメになってんだよ? 何で? 何で? 何で? ──オレはルールに毎回突っかかってばかりで、意味をちゃんと理解出来なかった。詳しい説明、ってのを何度受けても、マジで一向に理解出来ない。
理解出来ないとオレはすぐに機嫌が悪くなって、怒鳴り散らして、その場から無言で離れる。尊敬出来ない先輩からの命令だって受けるつもりもない、言う事なんて聞きたくない。そんなオレに運動系の部活なんて出来る訳がない。
とかいっても別に級友や先輩達と殴り合いのケンカをしたい訳じゃない。級友や先輩達の事は別に嫌いじゃない。ただあまりにも話が下らな過ぎたから、オレは相手にしたくないってだけだった。もうガキじゃねえんだ、yo, ya kids, kiddin’, お前らしゃんとしろよって思う。たまにしか学校に行かないオレに、そんな説教染みた事を言う権利なんてある訳ないって分かってるけど。
「お、タイガじゃん、やーっと来た。今日も日直、ヨ、ロ、シ、ク!」
学級委員長がオレの背後から顔を出して言った。
He’s solid, a real one, 学級委員長は剣道部所属、背も高くて成績優秀、まさに文武両道を全身で体現してるみたいなヤツだ。おまけに将来は警察官になりたいらしい。こいつ、絶対オレとは無縁の世界に生きてる。
学校をサボッてる間にオレに回ってきてた日直当番は級友達が肩代わりしてて、その回数はしっかりと数えられてて、さらにその回数はオレの『当番不在ポイント』に置き換えられてその学級委員長が勝手に管理してた。そしてオレが登校した時には、そのポイントを消化しきゃいけない決まりになってた。つまり、ここ最近じゃあ、登校する度にオレは日直当番をさせられるって訳だ。しかも今日みたいに遅刻しても、絶対に見逃してもらえない。
けどそれは別に嫌な雰囲気じゃなかった。いつまで経っても学校になじまないオレに、どんなにちょっとした事でも良いから、役割や存在理由を与えようとする委員長や級友達なりの心配りが透けて見えた。
特に委員長とは普段からつるんでる訳じゃなかったけど、学級委員長としての責任感なのか、それともこいつなりの距離感の取り方なのか、たびたびオレの事を気にしてくれているみたいだった。
「Fuck off, あーうっぜ、いつんなったらこの日直当番、全部消化すんだよ?」
オレは右眉を吊り上げながら心底面倒臭いといった態度と表情を前面に押し出して、委員長からのありがたくない指示に逆らおうとした。
「さぁ? 明日から毎日登校すれば、すぐにでも消化出来るんじゃねえの?」
委員長はあきれた様子でオレに学級日誌を握らせて、でもどこか楽しそうに手を振って去って行った。こんなとこ毎日なんて来れるか、そんな気力オレにはねーわ。心の中で委員長に悪態をついてから、オレは日誌を開いた。
昨日の日誌の次のページの空いたコマに、今日の日付と授業内容とを書き込む。その下には大きな備考欄が用意されてる。
Now, it’s my own time of sense, さーて、今日はここに何を書くかな。
不運にも日直当番に当たって、かつ授業が退屈でどうしようもない時──それはつまりオレが登校した時、いつも毎回って意味だけど──オレは学級日誌の備考欄を活用してた。その空白に好きな漫画のイラストを描いたり、新聞に連載されている小説の形式を真似てオレなりの短い物語を書いたり、好んで良く聴いていたブラック・ミュージックの影響を受けて、グラフィティ・アートや英語のリリックをとにかく描きまくった。
まぁ要するに、学級日誌を自分の自由帳みたい扱って、ここ最近じゃ登校する度にそこに何かを書き込んでた、って事だ。今日の備考欄に書くスペースが無くなった時は、わざわざ他の日のページを使ってまで続きを書いた。
何だよ、もう使わない、過ぎ去った日のページだから別に良いだろ? 何か文句あんのかよ? むしろ、もう戻らない過去に、別の新しい物語が書き加えられるんだぞ、その方が面白いじゃん、もっと楽しもうぜ?
オレが書いたものは、どんなにくだらないものであっても級友達に喜ばれた。
たまに登校して顔を突き合わせる度に、早く物語の続きを書けだの、あの漫画のキャラクターを描いてくれだの、graffiti from last week goes sick, or my lines’ soooo dope, anythin’ like that, それぞれに勝手な事を言われた。学級日誌なんだから、オレが書いた内容を担任だってもちろん読んでるはずだ。けど怒られた事は一度もなかった──もしかしたら担任も、学級委員長や級友達とグルだったのかもしれない。
小学生の頃から国語と図工が得意なのは、中学生になっても変わらなかった。どれだけ授業をさぼっても、国語と美術のテストはいつもほぼ満点だった。英語は、単語は知ってるけど文法でいつも減点されてた。省略してるけど間違ってるって訳じゃないから、△だらけだった。
国語と美術はもちろん好きだ。生物とか科学もちょっとだけ好きだ。けどそれよりもオレは、大好きなラッパーの真似をして、linin’, rhymin’, ‘n’ goin’ my own slang ‘n’ dirty words, 自分なりの英語のライムを重ねてラップをするのが好きだった。オレは時間を忘れてノートにライムを書きまくり、honin' my flows, spittin' my fires so rapidly, like ill Ad-Rock, レコードに合わせて何度も何度もラップの練習を重ねた。
Hittin’ my words, killin’ it wit’ my vocab, オレは言葉を操る事に長けてた。
美術に至ってはそもそも授業のある日にあんまし欠席しなかったし、もし欠席したとしても放課後や他の科目の授業をサボって時間を割いてでも美術室の奥にある準備室にこもっては、課題制作に取り組む時間を取り返したりしてた。
何かを書いたり創ったりする事は誰かに教わんなくても、オレにとっては息をすんのと同じぐらい当たり前に出来る事だった。
「おい、学校の制服を用意しておけ。明日の朝、すぐに車で出かけるぞ」
ある日の夜、家に帰ると珍しくクソ親父がそこにいた。そうオレに言ったクソ親父は酷くうろたえた様子で、その表情はことさら珍しく硬かった。
Shit, damn, さすがにあまりにもさぼり過ぎて、ついに学校に三者面談の呼び出しでもされたか? まぁ確かに進路は何も決めてねえし? 受験するにしてもそれらしい勉強は何ひとつやってねえし? おまけに内申点とか出席日数とも多分足りねえだろうからな、無理もねえか。それとも、咥えタバコで外をフラついているオレの姿を誰かに通報でもされたか?
他にも色々と思い当たる節があり過ぎるし、そのどれもが充分にあり得る話だ。ただ、I got pissed off, こういう時だけ父親ヅラされても困んだよな──オレは胸の奥で舌打ちをした。
けど、オレの読みはどれもハズレてた。
His older bro got six feet under, クソ親父の兄、土建屋の叔父さんが死んだ、って──ついこないだも遊びに行ったばっかじゃん!? そん時めっちゃ元気だったはずだろ!? 一体どういう事だよ!?
翌日、覚束 (おぼつか) ない運転のクソ親父に車で連れられて、オレは葬式に向かった。車内でもクソ親父に叔父さんの死因を何度も聞いて確かめたけど、その度に言葉を濁 (にご) されて、その話の内容はどれも要領を得なかった──何だよそれ? クソ親父も良く分かってねえのかな。
誰かの葬式に出席するのは初めてじゃなかった。だから、叔父さんの葬式の雰囲気が今まで見知っていたそれとは明らかに違ってる、って事が会場に入ってすぐに分かった。
式は数百人を収容出来る巨大なホールを完全貸切で営まれてた。
この規模のホールを確保するってだけでも、きっと相当な額の金が動いてんだろうな。
会場には一面、死の匂いが立ち込めてる。今までオレを可愛がってくれてた、叔父さんの家に出入りをしてた男の人達が、次々と弔問 (ちょうもん) に訪れる人達に皆んなで一斉に深く頭を下げてた。弔問に訪れる人達は体格や年齢こそ様々だったけど、some eagle eyes, some snake eyes, やっぱり皆んな鋭い目つきをした男の人達ばっかだった。
そのうちに会場の隅っこで、女の人が暴れて泣き叫びだした。Ugh, he got o.p.p, その女の人は叔父さんの浮気相手で、葬式に隠し子を連れてきて財産分与を迫って暴れたのよ、って本妻である喪主の叔母さんから聞かされた。叔母さんは式の最初から最後までずっと気丈に振る舞ってて、しゃんと背筋を伸ばしたまま式の進行をてきぱきと仕切ってた。
クソ親父は叔母さんと対照的に、叔父さんの棺 (ひつぎ) にすがりついて、メソメソと泣いてた。
I’d been thinkin’ he ain’t no vicious thug, 血も涙もないただのチンピラなのかと思ってたけど、この人でも泣くんだ、ってオレは知った。けどさ、妻である叔母さんだって泣くのを必死に我慢してんだろうに、この人はこうやって自由に振る舞うんだよな──これだけ派手に泣かれたらさ、叔母さんだけじゃなくてオレや他の人だって、泣くタイミング失うだろ? 空気読めよな?
それに、ついこの前遊びに来たばっかだから、本人の亡骸は確かに今目の前にあるんだけど、その目の前の叔父さんが死んだんだ、っていう現実感も全然持てなかった。クソ親父は泣き疲れちゃって、叔父さんの家に出入りをしてる人達の肩を借りて休憩室に行ってしまった。
あの様子じゃしばらく動けねえだろうな。オレ、先に1人で帰ろっかな。あーでも今オレ制服なんだよな、この格好じゃこのまま遊びにも行けねえし、タバコだって吸えねえじゃん。Fuck off, あーマジやってらんねえ。
「おう、タイガ。お前も大変だな」
オレの横には、he’s young, but solid, a real one, 叔父さんの家に出入りをしてる男の人達の中で一番歳の若いエイジさんがいた。棺の前で取り乱すクソ親父の様子を見て、オレに気を遣ってわざわざ声をかけてくれたのかもしれない。
エイジさんは背が高くて、ひょろっとした細身の身体だ。叔父さんの家で見かける時はほとんど作業着ばっかだったから、冠婚葬祭 (かんこんそうさい) の場面ではあるけど、今日みたいにスーツ姿がやけに似合ってるって事をオレは初めて知った。そして今日も相変わらず鋭い目つきだ、まるで猛禽類 (もうきんるい) みたいなんだよなーっていつも思う。
「お前の親父さん、ウチの社長に頼りっぱなしだったからな。ああなるのは仕方がねえよ」
エイジさんはオレの肩に手を置いてそう言った。
オレには兄弟がいない、否、いるのかもしれないけど少なくとも公に存在してるってのは知らないし、まぁもしいたとしても今一緒に暮らしてるって訳じゃないから、クソ親父と叔父さんが仲良く話してる姿は、in reality I wanna let my pack grow more, ちょっとうらやましかった。
けど後から隠し子が発覚すると修羅場 (しゅらば) になるんだ、ってさっき理解したから、今はもう知らない方が良いのかもしれないよな。O.P.P., マジで怖えんだな── those lines Naughty By Nature said before were all true for real, やっぱ人のものを盗るとこうなるって事だな。
「んで? お前もうそろそろ高校生の歳なんだろ。どうするんだ、やっぱウチの組に入るのか? それとも親父さんみたく1人でやってくのか?」
What goes inside your head, え、何? エイジさん何言ってんの? オレ、叔父さんトコで働くの?
これだけ学校をさぼりまくってても中卒で土建屋に就職する進路は考えた事がなかったし、つーかその土建屋を取り仕切ってた叔父さんはもういないじゃん? それに、クソ親父はどこかの解体業の会社に属してるはずで、チンピラには間違いなけど、でも1人って訳じゃないよな?
オレが右の眉を吊り上げて怪訝 (けげん) そうな表情をしているのを見て、エイジさんは驚いて声を上げた。
「──タイガ、お前、まさか親父さんから何も聞いてねえのか!?」
「聞くって何、一体どういう事だよ? エイジさんは何か知ってるの?」
「マジかよ、あのタヌキめ──お前もお前だ、あの親父さんの息子にしちゃあ意外と鈍い所もあんだな? つーかじゃあ今までずっと隠してたのかよ、これマジで笑えねえヤツだぞ」
エイジさんは頭を抱えながら小さくため息をついて、オレの肩を押しながらホールの外にある自動販売機に行った。さっきの空間は死の匂いでいっぱいだったから、外の風が心地良い。
エイジさんは自分のポケットから取り出したセブンスターに火を点けて、オレは自動販売機でエイジさんにジンジャーエールを買ってもらった。ここでオレが学校の制服のまま赤マルを吸ってもエイジさんなら怒ったりしないだろうけど、ugh, whatevs, とりあえず今は止めとくか。
そのまま外の人気のない場所で、鋭い目つき、真剣な表情のエイジさんが話を始めた。
「いいか、タイガ、良く聞け。俺らの組はな、表向きは土建屋だが中身はヤクザだ。お前の叔父さんは会社の社長で、ヤクザの組長だったんだよ。ウチの組長は別の組との争いに巻き込まれて死んだんだ」
Real gangsta, down to the family wit’ blood set, 叔父さんはカタギの人間じゃなかった──って、オレはこの時に初めて知った。
叔父さんが社長として経営してた土建屋は大きな組の下の組織で、叔父さんの家に出入りしてて、いつもオレに小遣いを握らせてくれてたコワモテの男の人達は──だったらつまり、皆んな組織の人達だった──って事だよな? 今日見かけた人達も、ほぼ全員そうだったって事だよな?
じゃあ、he ain’t no deadbeat slacker, ya know, クソ親父はギャンブル、金、女にだらしなくてすぐ問題を起こすって叔父さんは実の兄として良く知ってたから、クソ親父を組織には入れないでずっと1人のまま、自由にさせてた、って事? クソ親父はギャンブルとかトラブルとかでスッた金の工面をいつも叔父さんにしてもらってて、だから叔父さんの家に来る時には必ず機嫌が良かった、って事?
クソ親父は誰かの世話を焼いたり、人の言う事を素直に聞いたりする様な人間じゃない、ってのを叔父さんや組の人達は皆んな良く知ってたから──じゃあ、あの小遣いの意味って、オレがクソ親父から殴られてたのもちゃんと知ってて、オレの成長を今まで心配してくれてた優しさと、クソ親父を上手くコントロール出来なかった事への、叔父さん達なりの罪の意識だったって事?
Ah, shit, 何だよ、何でこんな時に眠くなんだよ、オレ昨日ちゃんと寝ただろ!?
──ああ、そうか、咥えタバコや刺青やバイクに触れて、それを格好良いものだって中学生のオレでも認識出来んのは、物心つく前からその空気にずっと触れてたからなんだ──叔父さん家のテーブルの上の大理石のでっかい灰皿も、叔父さん家に出入りしてた男の人達の服からほんの少しだけチラッと見えてた和彫も、その人達の舎弟が乗ってた改造バイクの排気音も、オレにとってはその風景が全部当たり前だったから、オレはただの一度も疑問に思った事がなかった、ってだけだったんだ──。
散り散りになってたパズルのかけらが集まって、オレの中で1つの絵になったみたいな気がした。これがオレの生まれ育った環境だったんだ──ならオレがこんな風になるのも、今さらしょうがねえよな? だってオレ、I’ve been an outcast, ‘cause born in this clan, そういう人達の集まる所に生まれたんだもんな?
オレはカタギじゃない叔父さんと同じ血が流れてんだよ、世間の人達から嫌われる血が流れてんだよ。だからオレの中には、今はまだ眠ってんのか大人しくしてくれてんだろうけど、絶対外に出しちゃいけない、危なっかしい『獣』みたいなのが住んでるって事だよ。もしかしたらさ──小学生の頃は、その『獣』のかすかな匂いを周りに嗅ぎつけられたから、学校で酷い目に遭ったのかもしれないもんな?
Damn, got ‘bout to pass out, lost in my noisy as fuck, busted head again, ダメだ、眠い、頭ん中のノイズが酷くてこれ以上まともに考えらんねえ。
ジンジャーエールを片手にずっと地面を見つめながら押し黙ってしまったオレを見かねたのか、エイジさんが優しい口調で言った。
「お前は親父さんと性格や雰囲気がまるで違う。お前がすぐ組に入りたいってんなら、皆んな気持ちよく受け入れてくれるだろうよ。組長はお子さんいなかったから、お前の事を本当の息子みたいに思ってたんだ。だから俺らにも、タイガを大事にしろってずーっと言ってたんだぜ」
え、じゃあ皆んながオレに次々と小遣いをくれてたのって叔父さんの、組長命令だったって事かよ? しかもそれって、叔父さんにとってオレが息子だったって事は、もしオレが叔父さんの組にこのまま入ったら──? やばい、眠い、吐きそうだ。
オレの心の動きには気づかずに、エイジさんはそのまま話を続ける。
「けどもし高校に行くってんならそれで良い。進学の時にもし金に困りそうだったら、組長がお前の為に積み立ててた秘密の学費がある──お前の親父さんが使い物になんなくなった時の為の保険だ、って組長は言ってたよ。高校ぐらいは出とけ、って組長は思ってたみたいだな。
もちろん高校を卒業してから組に入るんでも良いさ。ま、答えはお前の腹が決まってからで構わねえよ」
オレは地面を見つめたまま、一度大きく深呼吸をした。少しだけ身体から力が抜けて、少しだけ頭の中の眠気とノイズが引っ込む。
叔父さん達からずっと良くしてきてもらった恩義はある。叔父さんがオレに向けてた意図も、何となく分かってきた。けど組織に入れなかった父親を差し置いて息子がその組織に入ったら、結構やばかったりするんじゃねーのかな? こういうのって、普通は一親等とか二親等とが先なんだよな? いきなりそれを飛び越えたら──そもそも叔父さんがいなくなった今、そうなったら叔母さんはどう思うだろう? 否、もうそういうレベルの話じゃねーのか?
エイジさんはオレが話し出すのを辛抱 (しんぼう) 強く待っててくれた。
少し間を開けてから、オレは思ってる事を素直に伝えた。
「正直、まだ良く分かんないんだ。オレ、大勢とつるむの苦手だから、上手くやってける自信ないよ。中卒で土建屋に就職するとか、組に入るとか、今まで一度も考えた事なかったんだよ。これから先の将来の事なんて、まだ全然思い浮かばないんだ」
エイジさんは笑って、オレの肩を強く叩きながら言った。
「お前は親父さんと違う、お前はそれで良いんだ。だったらとりあえず、高校ぐらいは行っとけ。その方が、お前の将来の選択肢が広がる。組長も生きてたら、きっとそう言うさ」
I know, I know that I ain’t nothin’ like him, it’s my own self, and I know that blood ain't nothin’ but water, though ── 憔悴し切ったクソ親父は今とても動ける状態じゃなかったから、オレ1人だけ先にエイジさんのバイク、SUZUKI の GSX400S KATANA で家まで送ってもらった。KATANA はシルバーカラーのボディで、まるで日本刀みたいなデザインが最高にクールだ。
KATANA の後部座席、オレは風を斬りながら、次々と移り変わってく景色をじっと見てた。こうしてバイクに乗ってるとやっぱり気分が良い、さっきまでの頭ん中の眠気やノイズはかなり引っ込んだ。オレも早くバイクの免許が取りたい、風を斬るこの感触、マジでたまらない。
やっと落ち着いてきた頭で、今日さっきまでの出来事、エイジさんの言葉を何度も思い返す。
叔父さんも、エイジさん達も、カタギじゃなかったんだよな、so I got that gangsta blood society hates flowin' out of me, huh, オレの身体に流れてるのは世間の人達からは嫌われる血だ。オレのこの鋭い目つきと同じでこの生まれも変えらんないし、自分じゃあどうにも出来ない。ぼやいた所で今さらしょうがない。かといってこれからのオレの人生、これだと楽観的って訳にもいかないよな──。
他人の心が分かったり、予知夢を見たり、夢の中で別の時代、別の身体で別の人生を歩んだり、世界の全部が音とリズムとして聴こえたり──こうして並べただけでも、あんま普通とは言えない感覚をオレは持ってる訳だろ? これだけでも人としてもう充分ヤバい、アウトな訳じゃん?
なのにそれだけじゃなくて、I got dirty blood, the bloodstained clan wit’ iron-blooded, オレはカタギじゃない人達に囲まれて育ってて、そんでオレにも同じ血が流れてた、ってのが今日さらに追加されちゃった訳だ。え、これもう人生詰みじゃん、詰みゲーじゃん。Buggin’ my life, caught up in a softlock, or got stuck in a deadlock, ya know, このセーブデータ、もうダメじゃね?
普通の感覚、普通の暮らし、普通の人──うらやましい限りだよ。オレ、普通にしようと思って死ぬ気でやってみても、全然出来ねえもん、やってもやっても何か圧倒的な力の前に、全部はね返される感じだもん。
高校に行くか就職か、将来やりたい事だってちゃんと思い描けてないのに、その先の未来の事まで想像するなんて、今のオレにはもっと難しい。もちろんエイジさんの助言は正論だし、叔父さんが生きてたら高校ぐらい出ておけって言うのかもしれないけど、やりたい事分かんねえのに行ってどうすんだろう、行く意味あんのかな、とも思える。オレは自分が納得してない事は、嘘でも絶対に出来ない。
ただ──言葉を操る事や音楽、芸術に関する事だったら、将来やってみたいなって気もする。Mappin’ out if I’m gonna get on the floor, spittin’ my fire or droppin’ my vinyl, makin’ my baby dreams higher, その場面を想像しただけで、オレの顔は自然とニヤつく。その為には、やっぱ高校行っておいた方が良いのかな──今の中学ですら全然行けてねえのに、オレ行けんのか?
高校に行っても行かなくても、どっちにしたって今の自分のままじゃあ Ad-Rock みたいな格好良いラッパーになれるとは到底思えない。毎日練習してんのに──何でか分かんないけど、それが自分の自信につながってない。どうすればオレは自信が持てる様になるんだ? 足りないのはやっぱ英語力か? ちゃんとした『正しい英語』が必要か? そしたらやっぱ、高校か?
いくら考えてみても堂々巡りの思考の渦に流されて、良い案なんてまるで浮かんでこない。KATANA の振動を感じながら、オレはエイジさんの背中に自分の頭を押しつけた。
「おっ、タイガくん、ちょうど良かった。ちょっと職員室まで来てくれないか?」
トイレで用を足し終わってから教室までの廊下を歩いてると、クラスの担任、ウマちゃんとバッタリ会った。
叔父さんの葬式の喪 (も) が明けると、オレはすぐに登校した。あんま家にいたくなかったってのと、何かやって身体を動かしてないと、どうにも落ち着かなかったからだ。美術の課題でやんなきゃいけない作品制作があったから、それこそちょうど良かった。
オレのクラスの担任、ウマちゃんは中年、中肉、中背、他の先公と比べて面白い事、嫌な事言ったりする様な目立つ言動があるんでもないし、授業だって面白くもなければつまらなくもない、特に良い匂いでも嫌な匂いってんでもない、he’s so ordinary, dull ‘n’ humdrum, 本当にどこにも特徴のない国語の先生──あ、マブチ、だからウマちゃん、オレが勝手にそう呼んでる。
元より国語が得意なオレは、相変わらず特に勉強しなくてもこのウマちゃんの国語のテストだっていつもほぼ満点だった。国語以外の赤点の教科や生活態度の事で他の先公からは何度も呼び出しを食らってるけど、担任でもあるこのウマちゃんからだけは呼び出された事がなかった。でも今、こうして呼び止められたって事は、他の先公から苦情でも来たのかもしれないな。Damn, めんどくせぇ。
授業中の態度が悪い、勝手に授業を抜け出す、目つきが悪い、言葉遣いも悪い、反抗的、服装が乱れてる、遅刻が多い、そもそも登校してこない──まぁ、言われる事は大体いつも一緒だ。上から下までオレを見て、社会的に良くないって部分を指摘し始めたらキリがない。要はオレの存在そのものがダメって事だ、それは叔父さんの葬式でもうとっくに理解した。
オレは制服のポケットに両手を突っ込んだまま、右眉だけを吊り上げて応えた。
「え、何、ウマちゃん、what’cha want, どうせ他の先公からオレの苦情か何か言われたんしょ、オレ聞かないよ?」
「ははは、そんなに警戒しないで。そういうのじゃなくて、タイガくんに渡そうと思ってた本があるんだ。僕が若い頃に良く読んでた本でね、君が普段何を読んでるのかまでは知らないけど、タイガくんもきっと本を読むのが好きなんじゃないかと思ってね」
身構えたオレの緊張をほぐそうとして、ウマちゃんは努めて笑顔で雰囲気を作ってくれてるのがすぐに分かった。オレが教師っていう偉そうな大人の存在をハナから信用してないのを、担任であるこのウマちゃんは良く理解してるみたいだった。
まぁそれに、facts, ya got it right, 確かにオレは本好きだし?
大型書店に通い続けて、ジャンルを横断して色んな本を読んでっから、自分でもどんなものが好きなのかはイマイチ良く分かってないけど。けどきっとウマちゃんは学級日誌を見て、オレが本を好きな人間なんじゃないかって思ったんだろうな。
オレはウマちゃんに連れられて職員室の中に入って、ウマちゃんの机の前まで通された。
他の先公の好奇と無言の視線が突き刺さって、全身に鋭く激しい痛みを感じる。そんな目で人を見んじゃねえよ、だから職員室って嫌いなんだよ、この部屋の匂いだって好きになれない──ああ、マジでイラつく、とにかく気分が悪い。Need some smoke or one real shot, to get it together now, ポケットに入ってる赤マルを吸いに、一秒でも早く外へ出たい。ビールでも良い。
「これ」
ウマちゃんが指差した机の上には、数冊の本が重ねて置かれてた。
背表紙を覗き込むと、上からゲーテの『若きウェルテルの悩み』、『ファウスト』、『ゲーテ詩集』、リルケの『リルケ詩集』、そして一番下は『オルペウスに捧げるソネット』って書かれてる。どの本も紙の色が変色してるから、きっと何年も読み込んできたんだろうな。
「少し古くて申し訳ない。僕は若い頃にこういったドイツ文学を好んで読んでたんだけど、今引越しの準備で本棚の整理をしている所なんだ。だからもし興味があれば、タイガくんに何冊かもらってくれないかなーと思ってね」
ゲーテやリルケの名前だけは知ってたけど、今までちゃんと読んだ事はなかった。そもそもゲーテが小説だけじゃなくて詩集まで出してたって事も知らなかったし、ゲーテとリルケがドイツ文学っつうカテゴリーなんだって事すらも、今ここで初めて知ったぐらいだった。
オレって洋楽はたくさん聴いてても、海外文学はほとんど読んでないんだよな、詩集だったらラップの勉強にもなったりすんのかな──まぁせっかくだし、aight, 読んでみるか。それに、処分する予定の本をタダで分けてもらえんならオレが何か損をするって訳でもないし? むしろウマちゃんだって喜ぶんなら、今オレが受け取るのを断る理由もないよな?
「ふーん、そうなんだ、good, じゃあ全部もらう──けどウマちゃん、どっか引っ越すん?」
「ああ、すぐにじゃなくて来年の春にね。君と一緒にこの学校を卒業だよ」
何の気なしの無遠慮なオレの質問に、ウマちゃんは少し寂しそうな笑顔で応えた。
ウマちゃんが来年に別の学校へ異動する予定になってるって事も、オレは今ここで初めて知った──しまった、I know my dirty words, オレ今、余計な事を言っちゃったのかもしれない。今すぐにじゃなくてまだ時間があるにしたって、何の理由もなくそんな話にはならないはずだろ? きっと何か、大変な事情があるって事なんだろ? ごめんウマちゃんオレ、デリカシーなかった。
オレの至った考えを察してか、ウマちゃんは笑いながら手を振った。
「大丈夫、君達生徒の問題じゃなくて、僕自身の家庭の都合なんだ。高齢の両親の介護でね、実家に近い学校に異動願いを出していて、それが教育委員会に許可されたってだけだよ」
へー親の介護かぁ、そっか、ウマちゃんも大変なんだなぁ、もしオレがウマちゃんぐらいの年になってクソ両親の介護をしなきゃいけなくなったら──オレは一体どうすんだ?
── Ah, bullshit, no way, never get down, 否、絶対介護なんてしねえ。今はまだ義務教育期間の年齢だから我慢してるってだけで、自分が大人になってまであんなクソみたいなヤツらと関わんなきゃなんないなんて無理、無理、無理、I ain’t down for nothin’, rather bounce for real, そんなん死んでも嫌だっつーの。あー何かまたすっげえイラついてきた、マジでタバコ吸いてえ。
目の前ですごい速さでコロコロと表情を変えるオレをウマちゃんは不思議そうに見てたけど、親に関する言葉がオレを心を刺激してんだってようやく理解したのか、慌てて机の上の本をまとめてオレの両手に持たせた。
「まぁ一度読んでみてくれ。もし気に入らなかったのなら、君の手で処分してくれて構わない。けどどれか1冊でも気に入って、それを何度も読み返してくれたのなら、僕は嬉しいよ」
ああこれは 存在していない獣なのだ
みなはそれを知ってはいなかったが ともかく
──その歩く様子を 身のこなしを 頸すじを
静かなまなざしの光までをも── 愛したのだった
もとよりそれは存在してはいなかった
だが みながそれを愛したので 純粋なひとつの獣が生まれでたのだ
みなはいつも余地を残しておいた
すると その透明な あけておかれた空間の中で 獣はかろやかに頭をあげ
そしてもう 実在しているということは ほとんど いらなくなったのだ
みなはそれを穀物でではなく
ただいつも それがいることだってあるだろうということで 養っていたのだ
そしてそのことが 獣に力を与え
額から角が生えるまでになったのだ
原語であるドイツ語での音の響きはどんなもんなのか、日本語と英語以外の他の言語には一度も触れた事がないから、オレの頭じゃちょっと想像も出来ない。それでも、単純で分かりやすい日本語に訳されたリルケのこの詩は、不思議とオレの心を捉えて離さなかった。
ゲーテは表現がいちいち大袈裟で──翻訳の問題かもしれないし、まぁそれはそれで割と面白かったけど──リルケのこの『オルペウスに捧げるソネット』はそのゲーテとは対照的に、全体的にシンプルな印象だった。だからなのか、何度も、何度でも読み返しちゃうんだよな。悔しいけどオレ、ウマちゃんの言った通りに読み返しちゃってんだよな。ラップの参考になるかどうかまでは、まだちょっと分かんないけど。
オレが特に気に入ったのは、世界の神話で語り継がれる幻獣、一角獣 (ユニコーン) についてのフレーズだ。
そのユニコーンっていう架空の獣の存在について、リルケ自身が「証明できないもの、捉えることのできないものに対するすべての愛着である」と叙述 (じょじゅつ) している、って日本語訳者による解説が書いてあった──なるほど、リルケ良い事言うじゃん、すげえまともじゃん。
リルケが言う『証明出来ないもの、捉える事の出来ないもの』に愛を注ぐって事は、その対象となるものがこの世界に存在している事を全力で肯定する、って事なんだけどさ── can ya get me? 今オレが言ってる事、分かるか? いいか、オレのライン、ちゃんと良く聴いとけよ? Yo, listen up, bros, check my lines now, ‘kay?
この世界で認識の対象となるものってのは全部、誰かに肯定される事で初めてこの世界に顔を出す事が出来るんだよ。
例えばオレが毎日の様に不思議な夢を見たり、自分の目や耳や鼻を通して何度も不思議な感覚を覚えたりすんのは、オレが日々認識してるもんが、この世界にはすでに存在してる事を最初からオレが知ってて、同時にこの世界は音とリズムから出来てるって事も最初から知ってて、そしてその事をオレ自身が受け入れて肯定してるから今それを認識出来てる、って事なんだよ。
それらは確かにこの世界のどこかにすでに存在してて、鳴り響いてて、あらかじめ流れてるもんだからこそ、今のオレでも認識出来てる、ってだけなんだよ。
ギンガを飼い始めた時に読んだイヌのしつけの本に書いてあったんだ、離れた場所にいるイヌを飼い主が呼び戻す為に使う『犬笛』って道具があって、その笛の音は人間には全く聴こえないんだけど、イヌにはちゃんと聴こえる音が鳴る、って。
例え人間には聴こえてなくても、その音は初めからこの世界にちゃーんと存在してる。だからイヌにも認識出来る。犬笛を使うと、人間には聴こえないその音が、この世界に顔を出すんだ。
本当に、たったそれだけの事なんだよ、マジで簡単な話だろ?
けど皆んなは、そんな事知らない、分からないって言う。
そんな世界は存在しない、そんな音なんか鳴ってない、お前の頭がおかしいんだって言う。
Nah, what the hell ya sayin’ for real, それ本気で言ってんのかよ?
Still ain’t get me or what? ここまで説明しても、まっだ分かんねえの?
Ya tryna say that it’s my own business, huh? じゃあやっぱ、これってオレだけの感覚なんか?
Fucked up, man, insane the brain, out of my mind, though, 頭おかしいの、オレの方なんか?
No, I’m in control, ya damn buggin’, 否、そうじゃねえよ、だってリルケはちゃんと知ってたし、それを言葉にしてくれたんだから、分かってくれる人は絶対にいるはずだ、って──あれ、でも、リルケって周りに友達とか理解者とかいたんかな? もしかして、誰にも分かってもらえねえからこの詩を書いちゃった感じ? あーだとしたらオレも今、そんな感じ?
じゃあやっぱ、オレも死ぬ気でリリック書くしかねえのか──。
リリックは英語で書きたいから英語もっと勉強しねえと、そしたらやっぱ高校行くか──。
ふと部屋の時計を見ると、深夜2時を過ぎてた。読書や音楽、言葉遊びに熱中してると、オレにとって時間ってものはこの世界から消えてしまう。
時間こそ、『捉えどころのないもの』の代表みたいなもんだ。
好きな事に熱中して、意識をそこだけに集中して、音とリズムに乗り続ければ、オレの世界には好きな事だけがあふれる。そしてオレから意識を向けられる事のなかった時間は、オレの世界からは消えてなくなって、もはやオレの世界には存在出来なくなる。音とリズムこそ時間の経過がなきゃ存在出来ないはずなのに、不思議なパラドックスだよなぁ、といつも思う。
屁理屈だって言われるのには慣れてる、だからもう、it’s on the low, real talk, オレだけのこの感覚をリリックに出来るその日が来るまで、誰にも言わないでおこう。
オレは部屋の窓を開けてから、赤マルを1本取り出してライターに火を点けた。開け放たれた窓から注ぎ込む夜風がカーテンを揺らす。熱中するあまりに自然と汗ばんでいた肌から夜風が体温を奪って、心地よく感じられる。読後に吸う、今夜のタバコはまた格別に美味い。夜空を見上げると、今夜も夏の星が綺麗に見えてた。
Aight, callin’ from the Star Wheel, not the Steel Wheel, オレは机の上に置いてある星座早見盤を手に取った。
まず夜空に向かって母盤を左手に持って、開いてる窓の方角と、母盤に表記されてる方角とを合わせる。そして母盤の上からハトメで留められてる回転盤を右手で廻して、現在時刻と回転盤の時刻表示とを合わせる。今は深夜2時だから、回転盤を2時の表示部分まで廻すだけでオッケーだ。そうすれば今オレが窓から見てる星の位置と、星座早見盤に表されてる星の座標とがぴたりと合う──これで星座の形と名前が分かる。この仕組み、マジで最高だろ!?
この星座早見盤はずいぶん前に都心の本屋に出かけた時に科学本のコーナーで偶然見つけて、記憶のないままにやっぱりいつの間にか買ってたもんだ──レシートちゃんと持ってたから万引きじゃねえはずだ──けど、買って正解だった。この早見盤、何度見ても飽きないんだよなぁ。季節によっても時間によっても見える星の位置が毎回違うから、見るたんびに新しい発見があるんだ。それに、ターンテーブルとその上で廻るレコードにもそっくりだから、親近感も湧くしな。
今、オレの頭上には『夏の大三角』が見えてる。
はくちょう座の1等星デネブ、わし座の1等星アルタイル、そしてこと座の1等星ベガを結んで、夏の夜空に浮かび上がる細長い三角形だ──こういう特徴的な形になるものは『星座』って呼ばないで『アステリズム』って言うらしくて、区別すんのがちょっとだけややこしい。
星座早見盤によると、本来ならこの『夏の大三角』のど真ん中をでっかい天の河が横断してるはずなんだけど、空気質の悪さや街の明るさに邪魔されて、オレの住んでる地域だと天の河をはっきりと確認するのはどうやら難しいみたいだ。空気がもっと綺麗で、明かりの少ない場所に行けば、きっと良く見えるんだろうな。
Word, that’s the line, そうだよ、来年バイクの免許を取ったらさ、ZEPHYR に乗って星空を見に行けば良いじゃんか、星が綺麗に見える場所、outta here to somewhere, ここじゃないどっかへ行けば良いんだよ、オレ天才か!?
叶えたい夢が1つ出来た事に満足感を覚えて、オレはタバコを灰皿に押しつけてから窓を閉めた。電気を消して布団を被ると、睡魔はすぐにやって来た。今夜は良く眠れそうだ。