EPISODE 04: SWORDSMAN / NINJA RAP
ツグミやシジュウカラの地鳴きが聞こえてくる。まぶたが白い光に包まれている。
ああ、もう朝か。起きないといけないな──。
布団の横に置いてある火鉢の中の泥炭は、その火をずいぶんと前に消していた様だった。どうりで寒い訳だ。
オレは頭をかきながら起き上がって布団を片し、部屋を出て庭先にある井戸から水を汲み顔を洗った。水の冷たさで両の手がかじかむ。襖 (ふすま) を閉めていても、炭の火が消えてしまえば室内の温度も外気温とそう変わらない。冷え切った身体にこの水の冷たさは堪 (こた) える。雪がないだけまだましではあるが、な。
最近、良く同じ夢を見るのだ。
夢の中でオレは今と同じ言葉を操り、その姿も今の自分と似通っている部分もある。特に目つきなんかは今のオレとそっくりだ。山や河──今の土地とは地続きの風景に見える部分もあった。だが夢の中でオレは、今とは違う時と場所を生きていた。
オレは夢の中で奇怪な唸り声を上げ走り回る、不思議な形をした鉄の馬を操っていた。こんなに速く走る馬は今までに見た事がなかった。しかも、激しい唸り声を上げるのだ、相当に気性が荒いのだろう。にも関わらず夢の中のオレは、その鉄の馬をとても上手に手懐 (てなづ) けていたし、同時にとても可愛がってもいた。
それ以外にも、苔生す深い森に囲まれた河の側で暮らし、弓矢で狩りをしている夢を見る事もあった。強い日差しが照り付ける乾いた大地の上をさまよい歩く夢や、奇怪な『黒獅子』に執拗に追いかけられる夢を見る事もたびたびあった。
夢の中でオレが置かれていた周囲の環境は、今のオレには到底理解出来ないもの、言葉で表現出来ないものばかりだった。夢の中ではその環境が当たり前の様に過ごしているのに、ひと度目が覚めるとそこで自分が何を体験してきたのか、言葉で説明する事が出来なかった。書物をどれだけ調べても、それを言い表す為に必要な知識はどこにも書かれていなかった。
──妖 (あやかし) の術でもかけられたか?
そんな自分のくだらない妄想をオレは一笑に付した。大昔の伝記物でもあるまいに。
オレは部屋に戻り畳を掃き、身なりを小綺麗にしてから、火打石と火打金を取り出して麻の火口 (ほくち) を火を点けた。小さく燃え出した火口の炎をすかさず移し、床の間に置かれた一対の燭台 (しょくだい) のロウソクと、香立てに添えられた沈香 (じんこう) とに火を灯す。部屋の中にはすぐに、重く甘い樹脂の香りが漂い始める。
燭台の間の後ろには自分の腰の高さほどのある、木彫りの不動明王像が坐している。不動尊は右足を上にした胡座 (あぐら) である結跏趺坐 (けっかふざ) を組み、その顔容は左の一目を閉じ、右の一目を見開く天地眼、下から生える牙歯で右上唇を食 (は) み、左下唇を外側方へ突き出しめくれている利牙上下出の相であり、その堂々たる筋骨の体躯 (たいく) と相まって、全身で憤怒の姿形を表していた。
不動尊のその更に上の鴨居 (かもい) には、白い獅子舞の面がかけられている。
獅子舞の面は通例、赤く塗られる。だがオレの持つこの獅子の面は白い。白い獅子舞の面を作ってくれ、と面打師に頼んで特別にあつらえてもらったものだ。
この『白獅子』とはオレがまだ幼い頃、オレの夢の中で出会った。オレが夢の中で奇怪な『黒獅子』に追いかけ回されている時、何度となくこの『白獅子』が助けに入り、まるで伝説の妖獣『獏 (ばく)』の如く、『黒獅子』を喰い尽くしてくれたのだ。
『白獅子』の面構えは不動明王にそっくりで、夢の中で見かける時はいつでも憤怒の相をしていた。本当の『獏』は熊や牛に似た獣だそうだから、オレの夢に現れたこの『白獅子』とは様子が違うけれど、それでもオレはそれ以来、この『白獅子』をオレを守護して下さる聖なる霊獣として大切に、丁重に祀 (まつ) っている。
──妖は、いる。
それは確かに存在している。
ただ、伝記物や絵巻物で描かれる様な面妖な存在ではない、というだけだ。
オレはその存在達の躍動を目の端で見て、か細いささやきを耳で聞き分け、微かな息遣いを匂いで嗅ぎ分ける事が出来たし、夢の中で触れ合う事も出来た。
少し先の天候の変化、何が真実かを言い当てる事だって、オレにとっては全てが朝飯前だった。
だがその力のせいでオレは、生まれの村の住人から酷く忌 (い) み嫌われた。畦道 (あぜみち) をひとり歩いていると、良く石を投げられた。自分を守る為に野犬を手懐け、常に一緒に行動する様になった。そして、オレを忌み嫌うのは村の人間達だけではなく、両親も同じだった。
幼いオレは腹も、心も、常に飢えていた。やがて家計の圧迫を理由に、オレはまだ年端もいかないうちに両親の手で他所 (よそ) へ売られた。
不動尊の前にオレも坐して、目をつむる。オレの胡座は不動尊とは逆で左足を上にした降魔坐 (ごうまざ) だ。合掌し呼吸を整えた後に、右の示指と中指で作った手刀を、同じく左の示指と中指で作った手刀の掌 (たなごころ) で包み、不動明王の慈救呪 (じくじゅ) を三巻唱える。
「襄莫三曼多、縛曰羅赦戰陀、摩訶路灑拏、蘇頗吒耶示怛羅吒、唅(のうまくさんまんだ、ばざらだせんだ、まかろしゃだ、そわたやうんたらた、かんまん)」
そして次々と両の手指を動かして、九つの印契 (いんげい) を結んでいく。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
九字を切り、オレは再び合掌をして今日一日の息災を、そしてあの方の幸福を祈る。
「護持某甲、哀愍納受 (ごじむこう、あいみんのうじゅ)」
合掌を解くと燭台のロウソクの炎はひと際燃え盛ってその姿をさらに上方へと伸ばし、炎は左右に大きく揺らめいた──いつもと違う匂いがする、この襖の向こうから。
──来たか。
風の動く気配がする。床からは微かな振動も感知出来る。血の匂いはしない、だが殺気を消せてもいない。実戦経験のない若衆──数は三、四、否、五人といったところか? まぁオレも血を見る様な実戦はそこまで数をこなしている訳でもないから、あまり偉そうな事は言えないがな。それでも丸出しの殺気で気配や足音を悟られる様な失態は、さすがのオレでも犯さない。
無造作に板の間を駆けるいくつもの乱雑な音が近づいてくる。ひと際大きな音を立てて、寝室の襖が開いた。オレは坐したまま横目でその方を見やると、抜刀した五人の若衆が息を切らしてこちらをにらんでいた。だがその顔はどれも強張 (こわば) り、引きつっている。
オレはその中で番頭と目される男と目が合った。男はヒッと短い悲鳴を上げ、刀を両の手で大袈裟に上段に構えたまま後ずさった。オレはお前らと違ってまだ刀を抜いていないんだが。なぜそんなに怖がる必要がある? オレは番頭の目を見ながら降魔坐を解き、ゆっくりと畳から立ち上がった。若衆達はますます狼狽 (ろうばい) し、しまいには番頭は尻餅をついて後ろへ倒れ込んだ。
「うっ、動くな! そこを動くでない!」
番頭が上ずった声でおかしな事を言う。オレは静かに、だが低く太く通る声で応えた。
「我はこの場から動いておらん。我が心に傾動なし、塵垢 (じんく) に染まる事もなし。彼岸に至るその日まで、我が命、不動なるが故にな」
気づけばオレは不動明王と同じ、左の一目を閉じ、右の一目を見開き、左の口元を引き上げた憤怒の顔をしていた。若衆達はオレの居住まいや顔容に不動尊の御姿を見てとり、恐怖に駆られていたのだった。
いつかこうなる事は分かっていた。
今日がその時に選ばれたというだけに過ぎない。
だから、取り乱す事もない。
オレの背後では燭台のロウソクが、悪業と煩悩とを焼き尽くすと言われる不動明王の迦楼羅炎 (かるらえん) の如く大きくゆらめき立ち、白獅子の面を微かに赤く染めていた。
オレの目線の先に映る屋敷の上に広がる空には、燃える様に赤く輝く夕陽が見えた。吐く息も白い。そろそろ寒くなってきた──数刻もすれば、直に夜を迎えるだろう。
オレは屋敷の庭に横向きで二畳敷かれた畳の上、浅葱 (あさぎ) 色をした無紋の小袖を左前に着て、背筋を伸ばし、膝を正して坐している。膝先には、盆と台が一体化し神事や仏事の際に使われる『三方』が置かれている。道具類を載せる角盆の下には同じく角胴が続き、角胴の四方の内の三つには刳形 (くりかた) と呼ばれる穴が開けられている。四方の内、唯一刳形が開けられていない面がオレに向けられている。
──つまりこれは『逆礼』だ。
オレがこれから相対するのは非日常の出来事であるから、祝事とは全く逆の作法が用いられているという事だ。オレを屋敷の板の間から見下ろす代官からは、三方が正面を向いて見えているはずだ。そしてその三方の上にはかつてあの方から賜 (たまわ) った、一尺に満たない程度の短刀が、抜き身のままオレに刃先を向けた状態で置かれていた。
屋敷の板の間から代官が、庭先に佇むオレに向かって厳 (おごそ) かな口調で語りかける。
「貴殿の辞世の句を詠む猶予は必要か」
「否、某 (それがし) には幼少の時節より慣れ親しんだ詩があります故、それをもって辞世と致します」
「先達の詠んだ句か。分かった、申してみよ」
オレは両の目をゆっくりと閉じ、大きく息を吸った。そして静かに、だが腹の底から響き渡る低く太い、良く通る声で句を詠んだ。
世間 (よのなか) を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
「それは確か万葉の、貧窮問答歌一節だな──そうか、貴殿は確か養子であったな。苦労の多い幼少の時節であったか」
代官は何かに気付いた面持ちで捕物帳を見やり、そう言った。
捕物帳には与力や同心がまとめたであろう、オレの出自やあの方がオレを養子に迎え入れて下さった経緯が裁判記録として仔細 (しさい) に書かれているはずだ。代官の語る言葉の端々は憐憫 (れんびん) を帯び、その両の目は優しかった。だがオレには他人からの憐れみなど、何の慰めにもならなかった。ともすればそれは、侮蔑 (ぶべつ) と表裏一体となり得るものであったからだ。
「忠義を重んじ、武芸に秀で、未だ若く、そして斯様 (かよう) に学もある。出自は己自身の力では如何 (いかん) ともし難くとも、世が世なら貴殿は人の上に立つ侍になったのやもしれんな」
代官のその言葉に、オレは何も応えなかった。オレにとって出自はどうでも良かった。今のオレの生があるのは、武芸を磨き学を得る機会を与えて下さったあの方の采配 (さいはい) があってこそ。
──それにオレは、侍なんかじゃない。
「お前は真面目だな、不知火 (しらぬい)。武芸の鍛錬は怠らず、日が暮れてからも勉学に余念がない。おまけに忠義や礼節も完璧、これなら何処に奉公 (ほうこう) に行っても通用する。だがな、不知火、真面目が過ぎるのも考えものだぞ。例えどれだけ悪意に晒され、侮蔑に塗れ、苦渋を舐めようとも、生き延びてこそ真の忍というものだ。その真面目さがいつかお前を滅ぼすのではないかと、俺は心配でたまらん」
まだオレが元服を迎えていない頃、小姓 (こしょう) として御側に付き従っていた日々の中で、ある時に珍しく神妙な面持ちであの方がオレを諭す様にそう話して下さった。
「私は貴方様によって生かされた身。武芸を磨き勉学を続けるのも、ひとえに貴方様をお守り出来る様になる為です」
オレはあの方の胸元に顔を埋めてそう応えた。オレの額に、厚い胸板からの湿った体温が伝わってくる。
「そう言われてしまうと俺も返す言葉がない。だがそれも悪くはないな。どれ、今日も愛してやろう。不知火、来い」
そう言ってあの方はまるで獣の様な目を細め、裸のオレをきつく抱きしめた。布団のそばには美しい紫檀 (したん) の鞘を持つ、一尺に満たない長さの短刀が置かれていた。
この短刀は、未だ幼く脇差 (わきさし) も扱えなかったオレに護身用として、あの方が与えて下さったものだ。この短刀の刀身の根元、刃区・棟区より上方には、小さな不動尊が彫られている。不動尊は、あの方やオレが属する一族の守本尊だ。
──護身用だったはずなんだがな。
オレはぼんやりとそう思いながら、目の前に置かれた抜き身の短刀を眺めていた。代官の長い講釈の内容は、ついぞ耳に入ってこなかった。刀身の中に坐す、憤怒の様相の不動明王と目が合う。不動尊がオレに笑いかけた気がした。
オレは侍の身分を得た忍、『忍士 (しのびざむらい)』だ。
オレの生まれは農奴 (のうど) であったが縁あって小姓として迎えられ、元服の後に正式にあの方の養子となった。あの方からオレに与えられた任務は侍の形 (なり) をしたまま主に周辺領や都への密偵であり、表の顔は若侍として、だがその実は影の中を駆ける隠者として、この忍の里との内外を行き来する二重の生活を送り続けてきた。
刀を抜く機会はそう多くはなかったが、あの方の為であればどんな汚れ仕事でもやってきた。例え誰かに嫌われても、恨まれても、悪人とののしられても、それがあの方の為になるのであれば躊躇 (ちゅうちょ) も後悔もしなかった。
手を下したのはあの方ではない。敵を作ってきたのは紛れもなくこのオレであり、内通者を始末し損ねるという失態を犯したのもオレなのだから、オレの命をもって事を贖 (あがな) うのは道理だ。唯一の救いは、事はあくまでもオレの独断による蛮行とされ、あの方には謀反 (むほん) の咎 (とが) が及ばなかった事だ。
これで良い、手はず通りだ。あの方を決して死なせはしない。オレだけが真実を知ったまま、罪を被ってただひとりこの世から消えれば良い。
気づけば代官の長い講釈は終わっていた。
オレは坐したまま正面に向かって深く一礼をし、顔を上げて右袖を脱ぎ、続けて左袖も脱いで、裸の上半身を顕 (あらわ) にする。そして左の手を短刀の柄に伸ばす。刀身が沈みゆく夕陽を浴びて、にわかに赤く光る。短刀の鋒 (きっさき) の先端を左に傾け、柄を逆手にした右の手に持ち替える。柄を握った右の拳を、左の掌で包む。
いつかこうなる事は分かっていた。
今日がその時に選ばれたというだけに過ぎない。
だが、今生の別れの際に御顔を一瞥 (いちべつ) する事も出来ないのは、やはりどこか心寂しいものだ。今さらこんな時になって、あの方の肌の温もりが恋しい。だがオレは忍士だ。恋慕 (れんぼ) の情に飲み込まれてしまっては、あの方をお守りする事など到底出来ない。
オレは再び大きく息を吸い込み、左の一目を閉じ、右の一目を見開き、沈みゆく夕陽を見すえながら両の手を大きく振りかぶった。そして屋敷中に響き渡るほどの大声で、オレは力の限りに叫んだ。
「一持秘密咒、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵!
(いちじひみつしゅ、しょうしょうにかご、ぶじしゅぎょうじゃ、ゆうにょばがぼん)」
正当な作法の流れにはない突然の読誦 (どくじゅ) に、代官や役人、同席する介錯人達は驚きの眼差しで、ただ呆然 (ぼうぜん) とオレを見た。オレが唱えた儀軌 (ぎき) が一体何を意味するのか、理解出来た者はこの場にはいなかった。
「貴殿等に恨みはありませぬ。だが某は何度も生まれ変わるであろう。例え世が移ろい、この国が滅び去っても、某は再び某に生まれようぞ、何度も! 何度でも! 某の誇り高き今生の生き様、しかとその両の目を見開き、心眼をもって刮目 (かつもく) されるが良い!」
叫び終わると同時に、腹の中心からやや左を刀身が貫く。
オレは歯を食いしばり、激痛で震える両の手に力を込めて短刀の刃先を右方向へ動かす。腹からは深紅の血潮が吹き出し、音もなく畳へと染み込んでいく。錆 (さ) びた鉄の様な匂いが、オレの鼻の奥にまとわりついて離れない。
その時、屋敷の壇上、板の間の奥の襖が静かに開いた。
光の届かないその襖の影には、役人の装束をまとった男が坐している。
ふいにその男と目が合った。役人の男はオレに向けて、静かな微笑を浮かべていた。
だがその男の口元が、やがて大きく裂け始める。
裂けた口元からは長く鋭く伸びた牙が見え、喉奥には蛇の如く赤く細長い舌がチロチロと蠢 (うごめ) いている。まるで飢え乾き、息を切らした獣の様に、牙と牙の間からは数滴の唾液が畳の上へと滴り落ちていく。
オレは両の目を見開いた。自分の腹を貫く刃の痛みすら掻き消えた。オレは何としても今この場で、この男を殺さねばならなかった。例え神聖な死地の儀式が穢 (けが) され、自らの今際の際 (いまわのきわ) が辱められる事になったとしても。
オレは両手に再び力を込め、自分の腹部から短刀を一気に引き抜いた。二畳の畳の上には、オレの身体から次々を溢れ出る大量の血が降り注ぐ。だが先刻までは確かに紅かったはずの血の色は、深紅どころか最早暗赤色ですらなく、雨に濡れた烏 (からす) の羽の様に黒かった。腰から下にはだけ降ろされているかつて浅葱色だった小袖が、今度は赤ではなく黒に塗り替えられていく。
オレは逆手のままに短刀を右手に持ち替えると、一瞬にして畳から立ち上がり正面の屋敷の板の間に向けて駆け出した。
「──介錯人、何をしている!」
代官の怒号で我に帰った介錯人が、背後からオレを追う。だが遅い。この身に代えてでもオレは必ずやこいつを仕留める。誰にも邪魔はさせない。
短刀の扱いに関しては誇れるほどに得意という訳ではない。こんな事になるのならもっと短刀の稽古 (けいこ) をしておけば良かったな。オレよりも短刀の扱いに長けている仲間がすぐそばにいたのだから、面倒臭がらずにきちんと教わっておけば良かったのだ。
だがその仲間の顔と名前がどうしても思い出せない──その仲間は確かに存在していたはずなのに、どうして思い出せないのだ?
突然、左の足元から力が抜けた。オレは前のめりに屋敷の庭へと倒れ込む。足を地面に着いたまま、急ぎ両の腕で地面から上半身を押し上げてみると、自分の左足の甲に一本の矢が突き刺さり、その矢尻は地面へと貫通しているのが見えた。
矢が皮膚と肉を突き抜けた事による痛みを感じたその直後、まるで不動明王がその背後に背負う迦楼羅炎か、それとも決して消える事なく燃え盛り続ける地獄の業火にでも焼かれるかの様な痛みが全身に広がる。四肢が強張り、やけに重い。心臓は半鐘番 (はんしょうばん) が打ち鳴らす早鐘の調子と同じ、喉は真綿で締め付けられている様だ。討ち取るべき役人の姿が幾重にも重なって見える。
──なるほど、やってくれたな、矢尻に蛇毒とは──オレひとりを殺すのにずいぶんと万全を期したものだな。ならばやはりこれは侍の仕業ではなく、同業の仕込みだろうな。
オレは表情ひとつ変えず、すぐさま矢をへし折って甲と足底からそれぞれの破片を引き抜き、庭へと投げ捨てた。もう後には引けぬ。毒だろうが何だろうが関係ない、オレはオレの仕事をするだけだ。だから、必ず仕留める。
──オレを守護する『白い獣』よ、聞こえているか? もしこれが悪い夢なのであれば、お前のその鋭い牙で、今すぐ全てを喰らい尽くしてくれないか? そうすれば、次に目が覚めた時にはきっと──。
今一度短刀を手に立ち上がろうと身体をわずかにかがめた、その刹那 (せつな) だった。
「御免」
オレに追いついた介錯人の低く短い声が背後から聞こえたと同時に、オレの首元に鈍い衝撃が走った。オレの両の目は不敵な笑みを浮かべた役人の姿を捉えたまま、視界は音もなく闇に閉ざされていった。
どれくらいの時を彷徨っていたのだろう、遠くから誰かの呼び声がする。
「──不知火」
低く、まるで獣の唸り声の様な、遠いにも関わらず腹の奥底にまで響き渡る様な声だ。気配からして、あの『白い獣』の声だろうか。
今はもう、痛みも何も感じない。ただ、濃密な気配だけを自分に周囲に感じ取っているだけだ。
「──不知火よ」
だが思い返してみれば、夢の中の『白い獣』は常に黙して語る事はなく、これまで行動でその存在の全てを表していた。オレは『白い獣』の声を聞いた事が一度もなかったのだ。
「目覚めよ、不知火、太陽神の息子よ」
その声と共に凄まじい轟音と衝撃がオレの身体の骨の髄までをも揺さぶり、オレはようやく両の目を開けた。オレの周囲一体は漆黒からやや赤味がかった黒一色──玄色、または黒鳶色とでも言おうか──の世界がどこまでも果てなく広がっていて、そしてオレのすぐ目の前には『白い獣』ではなく、憤怒の相の不動明王が触れ得るほどの間合いでひとり立っていた。
ここは黄泉の国、か? だがそれならオレの目の前には不動尊ではなく閻魔様がいらっしゃるだろうに。オレは死んでも尚、己が行くべき場所を間違える程にうつけ者だった、という事なのだろうか。
目の前の不動明王は肘を軽く曲げ、拳を軽く握り込み、だが両の肩からは程良く力みが抜けている。両の足の間は頭一つ分ほど開かれていて、膝もごくわずかに曲がり、重心を下げている事が分かる。だが背筋は凛 (りん) として天高く伸び、憤怒の表情からはどことなく余裕の笑みすら見てとれる──不動明王のその姿には、一分の隙もなかった。瞬きをするその一瞬で、オレは不動明王に殺されてしまうかもしれなかった。
オレは不動明王の握り込んだ右の拳の中に、鈍く光る玉の様なものがある事に気づき、一瞬だけそこに気をとられてしまった。その刹那、不動明王は右肘を軽く後方に引き、握り込んだ右の拳を、光の玉ごとオレの下腹へと一気に撃ち込んできた。凄まじい衝撃がオレの身体を突き抜ける──だが不思議と痛みは感じない。しかも良く目を凝らして見れば、不動明王の右の拳は光の玉ごと、オレの体内奥深くへとめり込んでいたのだった。
やがて、不動明王はオレの体内から右腕を引き抜いた。不動明王の右の拳の中には何もなかった──さっきの光の玉は、オレの腹の奥底に置き去りにされたのだ。
「これでお前は護られた」
『白い獣』と全く同じ気配を漂わせたまま、不動明王は低く威厳のある声でそう言った。
その言葉を聞いた途端、オレの全身からは熱が失せ始め、あっという間にオレの意識は静寂の中へと掻き消えていった。
(※作中の不動明王真言の中に環境依存文字が含まれる場合があるため、ここでは原本とは異なる略字で記載している)