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OPENING + EPISODE 01: WHO AM I (WHAT’S MY NAME)? / ONE IN A MILLION

OPENING / 序幕


 ふと気がつくと、眼前にはその滔々 (とうとう) たる流れが、光に合わせて常に表情を変える、やや暗みがかった薄桃の色合いを見せる大いなる河があった。

 対岸を見通す事も出来ないほどのその広大さに比べて、河自身が奏 (かな) でる音はまるで山間の上流で出逢うせせらぎみたいに静かなものだ。

 一帯を吹き抜ける柔らかな一陣の風に誘われて、河縁 (かわべり) へと歩みを進める。

 風は色々なものを運んできてくれる。草木の青い匂いが鼻をくすぐる。水が流れる音も耳に優しく聴こえてくる。足裏は湿り気のある柔らかい草を踏みしめる。心地良さに任せて全身の感覚を研ぎ澄ませているうちに、河縁に辿り着く。

 首を傾け、頭を少し前に出して、薄桃色の河面を覗 (のぞ) き込む。

 そこに映る姿に、自分を見た。



 顔立ちは大型ネコ科肉食獣、ライオンやトラみたいだ。

 けど鬣 (たてがみ) はライオンと同じ頭から首周り、そして胸にかけて長く生えてるんじゃなくて、ライオンの鬣の長さよりも3分の1程度の長さの毛が頭のてっぺん、そして顔周辺から顎下にかけてだけ生えてる。頭の横の毛の長さはずいぶんと短くて、すっきりした印象だ。正面から見れば、先住民族の勇敢な戦士にだけ許された髪型みたいにも見える。

 全身は純白の毛並みに包まれて、体の横や手足、そして長い尾にはトラに似た黒いシマ模様が入ってる。けど、トラほどのはっきりと分かる様な濃さじゃない。尾だってトラみたいに全体が長い毛で覆 (おお) われてる訳じゃなくてライオンのそれに近いけど、尾の先端に広がる毛の量はライオンよりも少な目だ。

 鋭い眼光を放つ両目は光の角度によって茶色、緑、黄色、そして金色へとその色合いを次々に変えてく。鼻先はやや暗みがかった薄紅色、少し開きかけた口元から見える大きく発達した牙は、一切のムダを省いた筋肉質なその身体と共に、狩りに適してるって事が分かる。そして鼻の左右にはそれぞれ横へピンと伸びる、立派な髭 (ひげ) が蓄えられてる。



 少しの間、河面 (かわも) に映る自分自身と目を合わせ続ける。

 ──これは誰だ?

 これが今のオレの姿、なんだろうか。

 だとしたら──オレはいつからこんな姿だったんだ?

 思い出せない──否、最初からずっとこの姿だった気もする。この姿は何でかしっくりくるし、河面に映し出された自分の姿を見て驚いたりもしなかった。

 「若、そろそろ出発のお時間です、お戻り下さい」

 遠くから、聞き慣れた大きな呼び声が聞こえてくる。

 ──ああ、そうか、今のオレは『若』で、今からやんなきゃいけない事があったんだよな。

 河面を見つめてから一体どれだけの時間が経ってたんだろう。自分を見失うなんて、よっぽど疲れが溜まってんのかもしんないな。王宮に戻ったら、美味い肉を食わないとだな。

 けど──休んでいる暇なんてない、そんなものはオレに許されてないって分かってるけど、果たしていつまでこれを続ければ良いんだろう──いつか、終わりが来るんだろうか。

 「分かった、今行く」

 ──今は考えても仕方がない、行こう。

 河縁の草叢 (くさむら) からゆっくりと立ち上がって、オレは声のする方へと足を向けた。






EPISODE 01: WHO AM I (WHAT’S MY NAME)? / ONE IN A MILLION


 Yo, yo, hello, my bros, my name is Taiga, glad to see ya, let me tell ya my own story so far. May be a long-windin’ lines, but still roll wit’ me, keep checkin’ it out, ‘cause my lines as above, so below, also I am the supreme, I am the head-liner, and I am the one in a million tellin’ ya the truth that I know, so we gonna bounce right away, ‘kay? —Here we go!!



 タイガ、っていうオレの名前──英語の読みとしては “Tiger” で、つまり『トラ』って意味だ。

 日本語の漢字で書くと『帝牙』、『帝』は英語だと “King” で『牙』は “Fang” だから、まぁつまり百獣の王、『ライオン』って意味だ。

 大型ネコ科肉食獣のツートップ、それがオレの名前の中で一緒に暮らしてる、って事になる。

 親がつけた名前じゃない。オレのクソ両親にそんな学なんてない。もし親がつけた名前だったら1秒でも早くこの名前を捨てて、オレは別の名前を名乗る。あんなクソ両親につけられた名前を名乗るなんて、オレは死んでも嫌だ。

 実際オレの名前は、赤ん坊の命名が得意な占い師に大金を払ってつけてもらったんだそうだ。クソ両親はオレに与えられた名前の深い意味よりも、大金を払った事、それが出来る自分達のステータスにただ酔ってるってだけだった。

 その占い師は普通の人には見えないものが色々見えるって人で、生まれたばかりのオレの顔を覗き込むとライオンとトラの姿が同時に見えて、しかも生まれたばかりのオレが自分で『うっす、オレ、タイガっす』って名前を名乗った──ただしその人の頭ん中で──らしい。本当かどうか知りようもない、けど、何か分かる気もする。

 オレは自分の名前が好きだ。

 I am a lion, also a tiger, both in me, オレはタイガで、タイガがオレだ。これこそがオレ自身を良く表してる名前だって思う。他の名前はどれもピンと来ないし、どれも絶対気に入らない。

 きっとその占い師はそんなオレの強気な性格を、世界中の誰より早く真っ先に見抜いたんだろうな。命名が得意だっていうのは多分本当で、その力はもっと大切に、周囲から尊敬されるべきすげえ力なんじゃねえのか?ってオレは思う。



 幼い頃、テレビで『全身にびっしり毛が生えている人間特集』が流れてたのを覚えてる。

 彼らは人間の母親から生まれたけど、その時にはすでに手のひら、足の裏、そして口とか目とかを除く全身に長い毛が生えてた。現代医学用語で言えば『多毛症』、スラングで言えば『狼男症候群』ってヤツらしい。彼らのほとんどはその外見のせいで化け物扱いをされた。その中には実の親からも見捨てられて、サーカスに売り飛ばされた少年もいた。

 少年の名は、Stephan Bibrowski, ステファン・ビブロスキー。

 サーカスでの異名は、Lionel; the Lion-faced man, 『獅子の顔をしたライオネル』だった。

 サーカスでは曲芸をこなしながら世にも珍しい見世物の『獅子男』として、彼は観客からの好奇の視線をその一身に浴び続けた。ステファンの外見は確かに2足歩行をする勇猛な百獣の王、獅子男に見えた。

 でも獅子男である彼の目は全く攻撃的には見えなかったし、それどころかちょっと悲しそうだった。現在残されている記録では、実際周囲に対して彼はとても優しく接してたらしい。そして彼は第2次世界大戦前に、心臓の病気でこの世を去った。

 そのテレビ番組は『人と違う事への理解を深めよう、差別をなくそう』って高い志で作られたんじゃなくて、あくまでも笑いを求めるバラエティ、サーカスに押し寄せた無邪気な観客と一緒で、物珍しさの一心だけで彼を面白おかしく扱ってた。けどオレの視点は違った。オレはテレビの画面に映る彼をひと目見た時、こう思った。

 「Darn, that’s so cool ‘n’ awesome!! (なんてクールで、超格好良いんだよ!)」

 クソ母親によればオレが生まれた時、オレの全身はステファンみたいに毛だらけだったらしい。

 しかも助産師が、獣が生まれた、獣の生まれ変わりだ、っつって産院内中に大声で触れ回ったらしい。

 写真も残ってたからそれは事実だ。写真の中のオレは体毛だけじゃなくて、顎から頬にかけて長い髭も生えてた。オレは本当に毛だらけだった。

 ってなるとつまり──タイガっていうオレの名前はあながち間違ってもない訳だ──確かに、ライオンかトラの子だって言われても、まぁこれなら納得すんのかもしれない。

 クソ母親は普通の外見で生まれなかった上に、泣き叫ぶばっかで全く寝ない、ミルクも吐いて拒絶するオレを好きになれず、まだ乳児のオレをベッドに文字通り、投げ落とした。

 「そうするとね、あなたは泣き止むの。きっと身軽な動物だから宙を飛ぶのが得意なのね」

 クソ母親は笑いながら、いつもその言葉で出生時の話を終わらせた。

 当時赤ん坊だったオレも、良くそれで死ななかったもんだ。けど、生き延びて正解だったのかは結局良く分からない。

 クソ母親のその言動がどれだけヤバいか、小学校に入る前くらいの幼かった頃のオレでもそれぐらいは理解出来た。でも、理解出来るからっつっても、頭のおかしい親に抵抗する手段なんて当時のオレは持ち合わせてる訳じゃなかった。

 それに、オレは生まれた時と違ってそこまで毛深くは成長しなかった。身体中をよくよく目を凝らすと確かに色素の薄い産毛がちょろちょろと見つかるけど、ステファンみたいに格好良い毛並みにはならなかった。むしろ成長と共に、不思議と体毛が抜けてった。

 オレはテレビの画面の前で首をひねった。

 彼がサーカスに売られた年齢とそう変わんないはずなのに、どうして今のオレには獅子の毛が生えてないんだ? 本当ならあるはずの尻尾だって生えてないぞ。後ろ手で自分の腰回りをどれだけ触ってみても、本来ならここにあるはずの長い尾に触れられない。おかしいな、どうしてオレには尻尾がないんだ? これがないと、歩く時のバランスを取るのにひと苦労だ、って最初から分かってただろ?

 I really wanna be a lion, also a tiger works too, オレも『獅子男』になりたかった。

 そうすれば今頃オレもサーカスに売られて、ここじゃないどこかで暮らしてたかもしれない。幼い頃のオレの両目には、人間らしい人間の姿よりも獅子男ステファンの姿の方が、生き物として真っ当な存在に映った。



 クソ母親の金切り声が家中に響き渡る。

 She is a mad, mean, moody moaner, and acts like a drama queen, クソ母親は何の前触れもなく、会話の途中で突然キレた。その時の気分で、言動や態度がころころ変わった。ある時はその事に対してそれで良いって言ってたものが、別のある時にそれはもうダメなものになってた。

 機嫌を損ねない様にってこっちがいくら気を遣っても、その時によってオレが辿り着かなきゃいけない正解は毎回違ってて、どっちにしてもオレが選択する答えは全部不正解になった。

 例えば食事の場面では、出された食事を全て食べれば「何ていやしい子供なんだ!」って怒鳴られて、じゃあ全部を食べ切らなきゃ良いのかよと思ってちょっとだけ食事を残すと、今度は「私の出した食事がまずいとでも言いたいのか!」って怒鳴られた──つまり、どっちも選んでも最初から全部ダメだったって事だ。こんなんで何が正解だったか考えろって言われても、絶対無理に決まってるだろ?

 クソ母親の気分次第で食事を抜かれる事も良くあった。オレはいつも空腹で、やせっぽちで、食べられるものは何でも食べてみたかった。食事を抜かれたオレの目の前で、クソ母親は良くアイスやまんじゅうを食べてた──絶対分けてくれなかったけどな。

 そのうちに幼いオレは、オレの食うメシを誰かに盗られんじゃないか? オレの大切なメシの時間を誰かに邪魔されんじゃないか? って警戒しながらメシを食う様になった。オレは安心してメシを食えなかった。そうやって食うメシはほとんど味なんてしなくて、腹はいっぱいになっても気持ちが満たされるって事は絶対になかった。

 クソ母親の気分は常に不安定で、気分次第でオレを殴って、蹴って、怒鳴って、オレに酷い言葉を吐き続けた。クソ母親の口はいつも臭くて、近づくと、決まって口からは吐き気を覚える匂いがした。クソ母親の声は甲高くて、オレの耳にとって酷く不快で耳をふさぎたくなるものだった。「反抗的な目だ」、「考え方が子供らしくない」、「産まなきゃ良かった」──オレが自分じゃどうしようも出来ない事ばっかを、クソ母親は怒鳴り続けた。

 こいつのそばにいると、オレは気分が悪くなる一方だった。

 けど検診で、落ち着きがない、我慢も出来ないって看護師に言われながらもオレの知能指数が 120 を超えてるって事が分かると、「この子は天才だ、きっとたくさん稼げる様になって私達を楽させてくれるに違いない、親孝行な子だ」と周囲に言って周った。

 オレにはまるで意味が分からなかった。こいつの事を分かりたいとも思えなかった。



 「痛い、no, stop it, please, 痛いよぉ、止めろよぉ」

 クソ父親がオレの髪の毛をつかんで真上に引っ張り上げて、そのままオレを床の上に投げ飛ばす。全身が痛くて、すぐには床から立ち上がれない。そこにクソ母親がやって来て、情けない格好で倒れてるオレの両足から靴下を脱がす。

 「No, no, sorry ‘bout ── please forgive me, no, I’ll do anything you want, no!!」

 そしてクソ母親が、クソ父親がさっきまで吸ってた、まだ火が点いてて煙が上がってるタバコを片手に、それをオレの左の足裏に強く押しつける。

 「────!!!!!」

 熱くて、痛い。背中がのけぞる。けど、さっきまでみたいには声が出ない。

 「おい、俺のタバコがムダになるだろうが」

 クソ父親はオレを心配するよりも、クソ母親が勝手に自分のタバコを使ったせいで1本がムダになった事にキレてる。オレの人生の価値は1本のタバコ以下だ。クソ父親はまたオレの髪の毛をつかんで、そのまま床を上を玄関の外まで引きずって行った。オレは薄着で、靴も履かせてもらえないまま、玄関の扉の鍵がかかる小さな音を聴いた。

 そのすぐ後に、物陰から黒く大きな生き物が出てきた。

 「Ouch──ugh, but, I’m okay, 心配要らないって、いつもだろ? こんなの」

 オレは地面に伏せたまま、その生き物に声をかける。その生き物は大きく尻尾を左右に振りながら、痛みで地面から中々立ち上がれないでいるオレの顔を、優しく時間をかけて舐め続けた。

 ピンと立った三角形の耳、まるで歌舞伎役者とか般若 (はんにゃ) みたいに鋭い目つき、シュッとした鼻先、空みたいにキレイな青い目、がっしりしたイカツい体格──その生き物の姿はどこからどう見たってオオカミだった。氷点下の気温にも耐えられるモフモフの体毛は白と黒の2色で、頭のてっぺんから背中や体の横は黒くて、脚の内側や腹、そして長い尾の先端は白い毛だ。

 玄関扉の目の前には木製の大きな犬小屋がある。

 オレは地面を這いつくばるみたいに身体を動かして、少しずつ上半身を起こす。どうにか犬小屋の前に辿り着くと、オレは身体をかがませながらそいつと一緒に中へ入って、そいつのとなりに座る。今夜はここに居候 (いそうろう) 決定だ。

 このオオカミの姿をした大きな生き物は『シベリアンハスキー』っていう犬種のイヌだ。

 ハスキー犬はロシア極東から北米カナダ北極圏にかけての先住民であるエスキモー族によって、古くからそりを引っ張る犬として育てられてきた──って歴史がある。日本だと1980年代終わりのバブル期にハスキー犬を主人公にした漫画が大ヒットして、広くその存在が知れ渡った。オレのとなりにいるこのハスキー犬も、まさにそのバブル絶頂の時に父親に連れられて、オレの弟分としてやって来た。



 He is a real thug, down to low-life, クソ父親は街のチンピラだった。

 昼は解体業をしながら、暇さえありゃあギャンブル、飲み歩き、浮気、借金、ケンカを繰り返した。家に帰ってくるのは夜遅く、何日か帰ってこない日もザラだった。ギャンブルで勝てば上機嫌で、土産 (みやげ) だっつってオレに寿司を買ってきたと思ったら、財布の中を全部使い果たしたり、他の女とトラブルになった時は、クソ母親と一緒になってオレを殴って、蹴って、怒鳴った。

 ある日クソ父親が入院したってクソ母親が言うから小学校帰りに病院に見舞いに行くと、浮気相手から病気をうつされて急性肝炎になってて、生死の境をさまよってた。けどクソ母親はクソ父親の浮気を絶対認めようとはしなくて、「お父さんは飲み歩きで肝臓を壊しただけなの」って、まるで呪文みたいに繰り返してた──浮気現場、あんた何度も見てんじゃん。

 結局クソ父親は死なず、元気になってまた元のチンピラ生活へと戻ってった。何だよ、死ねば良かったのに。あーこいつら夫婦揃ってバカなんだな、ya both real idiots, ってオレは思った。

 そんな男だからまともに仕事なんて出来る訳なんてなかったはずだけど、日本中好景気で浮かれたバブル期がこいつを勘違いさせたんだろう、別に大した仕事なんてしてなくても、いい加減に仕事してても、金は勝手に入ってきた。クソ父親はその金で家買って、外車乗って、女囲って、酒飲んで、バカみたいに高いコンピュータや使うあてのない色んなものをひたすらに買いまくった。

 シベリアンハスキーはその中の1つ、ってだけだった。

 仕事で知り合った人間の仲介でブリーダーと繋がって、世にも珍しい犬種の血が手に入ったから買わないか?ってそそのかされたって事だ。今となっちゃ本当かどうか疑わしいけど、クソ父親によれば当時そのブリーダーに支払った金額は国産の新車が買える額だったらしい。クソ父親は、自分はたくさん稼いでんだぞってクソみたいなマウントをとりたい一心で、この珍しいイヌを買った。そもそも家に帰ってこないヤツに、イヌを育てる気なんて最初からある訳ないだろ?



 He’s called “Ginga”, means “Galaxy” or “Silver river flows in wide and black sky” in Japanese, こいつの名前は『ギンガ』だ。

 シベリアンハスキーは大雪原を駆けるそり犬なんだって聞いたから『白銀の冬』と、その目は青空みたいにキレイな青色だったから『宇宙』っぽいのが良いよなと思って、このオレが考えて名づけた。『タイガ』と『ギンガ』、”Taiga” and “Ginga” sound good as our bros’ names, don’t you think so, それにオレ達これで兄弟っぽいし、オレのネーミングセンスだって結構良いだろ?

 ギンガはとにかく活発で、そのイカつい見た目と違って人当たりが良くて、他のイヌともすぐに仲良くなって、誰とでも遊べちゃうようなファンキーなヤツだった。朝と晩、1日2回の散歩は毎日オレが連れてった。シモの処理も当然全部オレがやった。オレはイヌやネコだけじゃなくて生き物全部が好きだったから──人間は好きじゃなかったけど──毎日の散歩やシモの処理も、別にたいして嫌じゃなかった。

 つっても、子供の力と知識だけじゃ大型犬をきちんと世話したり上手にコントロールなんて、そもそも完璧に出来る訳ない。急なアクシデントがあっても、子供1人じゃどうにも出来ない。子供1人だけで大型犬を散歩させるなんて、子供や飼い犬自身にとって危険なのはもちろんだけど、それは同時に周りにとってもかなりの危険になる、立派な迷惑行為だ──こういうの、立派って言って良いのか?

 けどクソ両親は『イヌの世話は子供にとって大事な命の教育だ』って自論を盾にして、ギンガの世話はオレに任せっきりだった。近所の人達も見て見ぬふりで、オレとギンガの2人だけの散歩姿を見かけても、誰からも注意されたり心配されたりする事なんてなかった。たまたまギンガが賢いイヌだったから、自分達がケガをしたり誰かにケガをさせなかった、ってだけだった。

 クソ両親は、オレとギンガの持つ資質に甘えて保護監督責任を放棄してた、って事だ。

 一方のオレは自転車をこいでひとり図書館に行って、本を調べてイヌの生態やしつけの方法を積極的に学んだ。難しい漢字は読み飛ばして、出来るだけ漢字が少なくて絵の多い、子供でも読めそうな図鑑や本を選んだ。どうしても読めない部分は、図書館にいつもいる司書さんに頼んで、読んで教えてもらった。

 そしてオレは、イヌと人とが一緒に暮らすにはアイコンタクトをジェスチャー使って、ときどきおやつなんかもあげたりして、上手く出来たら思い切りほめてやって、根気よく何度も繰り返し教える必要がある、って事を知った。

 オレ自身、何かが上手く出来てもほめられた事なんてただの一度もなかったし、むしろ少しでも失敗したりクソ両親が気に食わない事をすれば殴られて、蹴られて、おまけに目を合わせれば「目つきが悪い」って怒鳴られる事が当たり前だと思って生きてきたから、例えそれがイヌ相手の本であってもその内容は、オレにとっては驚きの連続だった。

 本に書かれてた通り、shakin’ hands, sit, down, wait, come, go and get it, 全部オレが教えて、その全部をギンガは難なく覚えた。言う通りにしなかったら殴る、蹴る、怒鳴る、なんてしないでちゃんと正面から向き合ったから、オレとギンガは実の兄弟みたいに仲良くなった。

 そのうちにオレは本を読まなくても、ギンガの考えてる事は全部手に取る様に分かり始めた。遊ぼうぜ! なでてくれよ!メシ食いたいぞ!──言葉を使わなくてもギンガの気持ちがそうやって直接、オレの心に伝わってくる感覚だった。ギンガも、オレから言葉で指示を受けなくても、オレの目線やほんの少しの身体の動きを見ただけで、オレの思いを理解する様になった。

 ──そう、オレ達の間に、言葉なんていらなかった。

 そしてそれはギンガとだけじゃなくて、ギンガの散歩で会う他のイヌ達が考えてる事も、オレは同じ様に理解出来た。

 散歩でときどきすれ違う、誰にでも吠えてケンカっ早い、周りからはいつも嫌われてるイヌがいた。家族にも噛みついたりなんかして、飼い主のおっちゃん自身、しつけに手を焼いてたらしい。だけどオレはそのイヌの心も良く分かった。

 まずオレは、そのイヌに対して背中を向けて、円を描くみたいにしてゆっくりと周りを何度か廻る。そうするとそのイヌはオレに興味が湧く。

 そのイヌの視線を背中に感じながら、オレは汚れなんか気にしないで、胡座 (あぐら) をかいてドカッと地面に座り込む。こうやってオレの目線の位置、高さを変える。これでそいつはオレから目線を外せなくなる。

 オレは言葉を使わないで、そいつに話しかける。

 牙を剥き出してギャンギャン吠えてたそいつは、そのうち尻尾を振りながらオレに近づいて、匂いを嗅ぎ始めて、オレの脇の下に鼻先突っ込んできて、首とか耳の穴とかの匂いを確認して、全部に納得するといきなり腹出して地面に寝っ転がって、もっとなでてよ、もっと遊ぼうよ!ってベラベラとおしゃべりをし始める──よし、これでもうオレ達は兄弟だ!

 その時、飼い主のおっちゃんはすっげえ驚いてた。今までこのイヌがおっちゃん以外になつく姿を一度も見た事がなかったらしかった。逆にオレは、どうして皆んながこのイヌの心を分かってやれないのかが不思議でしょうがなかった。こんなの教わんなくたって誰でも出来んだろ──そういうもんじゃないのか?

 ギンガや他のたくさんのイヌと仲良くなるみたいに、オレは近所の野良猫とも仲良くした。

 野良猫のあごを指でかいたり、膝の上に乗せて一緒にひなたぼっこをするのが大好きだった。ネコの考えてる事も分かったから、オレは野良猫にも良く好かれた。ただ、オレの身体にギンガの匂いが強くついてる日は近寄ってくれなかったりもするから、ネコと話がしたい気分の時はわざと着替えて会いに行ったりもした。

 なんならギンガだけじゃなくて、オレはネコとも一緒に暮らしたかった。けどクソ父親はネコには無関心で、おまけにクソ母親はいつもこう言ってた。

 「ネコは嫌いよ、気持ち悪い。ネコなんて早くこの世からいなくなれば良いのよ」




 家の中から怒鳴り声と共に何かが壊れる音がする。壁か机を何度も叩きつける音も聞こえる。

 「Is this gonna end, 早く終わらねえかな」

 オレは右の眉を吊り上げて、口を尖らせながらギンガにぼやいた。

 さっきまでクソ両親は一緒になってオレを殴ってた癖に、どうやら今度は2 人でケンカを始めたっぽい。まぁけどそれも毎度の事で、2人は顔を合わせればいつもケンカばっかりだ。クソ父親は金をせびるか借金返済の話、それか女の話、クソ母親は考えなしに買い漁る宝石とかブランド品とかの話を、いつまでも飽きずにお互い怒鳴り合ってた。仲良く過ごしてる姿なんて1回も見た事がなかった。

 チンピラのクソ父親の交流関係で、オレは幼い頃から日本語と英語が行き交う、ちょっと特殊な環境の中で育った。だから幼いオレがものを考える時、話す時には、2つの言語が混ざり合うのは当然の流れだった。

 時にはクソ父親の浮気相手と引き合わされた時、その相手が英語話者だった事もあった。そんな環境じゃあ綺麗な言葉、正しい言葉を扱うヤツなんて1人もいなかったから、based on slang ‘n’ dirty words, 結果的にオレはどっちの言語においてもスラングや汚い言葉を基礎として覚えてった──けど、その英語話者の人達からは同時にとても大切な事も教わった。

 それは、親しい仲間や恋人と挨拶をする時には、when I say hello or see ya, give ya my fist bump, when tender lovin’ care needed, I got gentle hugs or kiss, 互いの握り拳を軽く合わせたり、ハグやキスをしたりして、自分の気持ちを相手に伝えるって事だった。その挨拶に年齢や性別は関係なくて、英語話者の大人達は幼いオレに対しても、大人同士と同じ様に挨拶してくれた。

 クソ両親からハグされるどころか、身体に触れられる事すらもなかったから、ちょっと怖そうだったり下品な感じの人達からであっても、そうやって拳で挨拶したりハグやキスをしてもらえる事が、幼いオレには最高に嬉しい事だったし、その人達の身体からはいつも良い匂いがしてた。

 左足の裏の火傷がチリチリと痛む。

 クソ両親は、なーんでオレの足の裏ばっか狙うんだ? 右よりも左が多い気がするけど、何か意味あんのかな? 靴か靴下がないと、歩く時にちょっと痛いんだよな、tipy-tipy-tipy toes, またつま先立ちで移動するしかないな。

 オレは気をまぎらわそうとして、夜空の星を見上げた。

 ギンガの犬小屋には大きな格子窓があって、その窓からは外の様子が見られる。西の空には、ひと際明るく輝く3つの星が大きな細長い三角形を形作ってるのが見える。愛犬にギンガって名前をつけるぐらいに、幼い頃からオレは宇宙、星座や流星群を見上げるのが大好きだった。詳しい星の名前や星座の形とかはちょっとまだ良く分かんないのばっかだけど、さえぎるものがない深い闇夜にキラキラと輝く星空は、どれだけ見てても全然飽きない。

 それに、星を見上げる度に、まだ幼くて使える言葉が少ないオレには到底表現出来ない、不思議な感情を覚える。それは温かくて、同時にどっか悲しくて、そしてどうしてか、なつかしいなって感じるもので、その時オレの心の中にはいつも必ず同じ言葉が浮かび上がった。

 「Gotta get back home. (早く家に帰ろう)」

 今、オレは庭の犬小屋の中──これでも一応は家の敷地内にいる。

 けど、ここじゃない。

 オレが帰りたいんだって願う家は、絶対にここじゃないんだって事だけが分かってる。

 それは、親に殴られて、蹴られて、怒鳴られ続ける幼い子供が、夢の中に創り出した、ホタルの光みたいにはかない幻だったんだとしても、誰がそれを笑えるんだ? 誰がバカに出来るんだ? もし笑うヤツがいんなら出てこいよ、今からオレとギンガとでケンカしようぜ?

 夜に星を見上げながらギンガの犬小屋に居候させてもらっても、今は初夏だから身体が冷える心配もない。飛び交う羽虫や蚊はすげえうざったいけど、あのまま家の中で殴られ続けたり、2人のケンカに巻き込まれるよりは全然マシだ──何より、オレのとなりにはギンガがいてくれる。

 オレはギンガの首元に自分の鼻を擦りつけて、鼻から深く息を吸ってギンガの匂いを嗅いだ。

 Good boy, 良い匂いだ。

 ギンガだけじゃない、散歩で出会うイヌも、good boys, 近所の野良猫も、good girls, 動物達は皆んな良い匂いがする。どれだけ嫌な事があっても、動物達の匂いを嗅げばオレの心は落ち着いたし、動物達のモフモフの毛並みと体温は、幼いオレに唯一の安心感と仲間意識を与えてくれた。

 星の輝きを見上げながらギンガに身体を預けて、オレはいつの間にか深い眠りに落ちた。

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