前編(1/3)
「よし! 更新完了! 近況ブログも書いてっと‥‥」
琴葉は趣味で小説投稿サイトに自作の小説をアップしている、社会人12年目の女性である。今日も目標の2000字台で一つのエピソードを書き終えた。
小説投稿サイトの存在を知ったのは5年程前。仕事も慣れてきたが、特にこれといった趣味のない琴葉にとって、マイペースに活動できる「物書き」といった趣味は彼女にはぴったりであった。
もちろん、家族や会社の人には言っていない。自分が異世界ファンタジーや異世界ダンジョン、BLや百合を書いているだなんて。家と職場以外に自分の好きなものが詰まった居場所が欲しかったから続けていられるのだ。
『琴葉さん、今日はこの店の前に。11時40分』
ある日の仕事中にメールが届いた。上司の律からだ。そうだ、今日は月一回の律さんとのランチの日だった。
『ありがとうございます。承知しました』と一文を送って午前の仕事を片付けていく。
11時40分なんて早すぎる‥‥と思うが仕方ない。社内で他の人に見つかるとすぐ噂になってしまうからだ。
律は琴葉の上司で一回り以上年が離れている。人事異動で少し前から一緒に仕事をするようになり、難しい課題を共にやり遂げたことがきっかけで意気投合した。恋愛関係はないが、言いたいことが言い合える仲の良い上司といったところ。頭が固くて、仕事にも厳しいおじさんであるが、琴葉は上司としても人間としても彼のことを尊敬している。
まず、半端ない知識量。次に、自らの意見をはっきりと伝えて周りを巻き込みながら仕事をこなしていくところ。(巻き込まれても律なら許せると琴葉は思っている)
そして、一番は‥‥なんといってもその読書量である。
おすすめの本をよく教えてくれるが、現代文学で難しそうな話が多く、琴葉には到底読み切れないボリュームと内容。
琴葉は小説投稿サイトを利用しているものの自分自身は読書家ではなかったため、ホンモノの読書家にはただただ憧れてしまう。実際、サイトには生まれた時から読書してたのですか? と思うぐらいの人気小説家であるユーザーも多い。
そんな中、本よりも漫画、活字よりもテレビが好きだった琴葉の書く文章はまだまだ甘い所が多いが、内容は徐々に評価してもらえるようになった。スマホで気軽に小説が読める‥‥良い時代になったものである。
そうこうしているうちに律との約束の時間となり、琴葉と律はしれっと別々にオフィスを出る。
※※※
「琴葉さん、最近俺のメールを無視しているだろう? 迷惑メールフォルダにも入れてるのか?」
「そんなわけないでしょう。すぐ返信すると速攻で律さんから電話がかかってきて、自席に呼び出された上に膨大な仕事を投げられるのを防いでいるんです!」
「ほら、それを無視というんだよ‥‥ひどい‥‥琴ちゃんったらひどい‥‥」
「デリカシーのない言葉で相手を傷つける律さんに言われたくないです」
「え? 俺いつそんなこと言った?」
「前、私に年齢聞いてきたこと!」
「だって‥‥そっちから聞いてきたじゃん」
「それでも! 女性にはあえて聞かないのが紳士ですよ?」
「それはフェアじゃないな。お互いを知ってこそ、仕事の効率が上がるものだ」
「お互いを知った上で、私にここぞとばかり嫌な仕事振ってますよね?」
社内では厳しくて融通の効かないおじさんである律。彼の鶴の一声で場の雰囲気は変わる。そのため誰も反抗できない、ただし琴葉を除いては。
こんな感じで何でも話せる2人。琴葉がいつも通り質問をする。
「今、どんな本を読んでいるのですか?」
「今? ああ、最近いいアプリを見つけてね。ほら、朗読してくれるんだよ」
「朗読? そっか、律さんは小さい字が見えないですもんね」
「ほら、また年寄り扱いする‥‥」
「PC画面の文字、超拡大してますもんね」
「そればっかり言うなよ‥‥ひどい‥‥琴ちゃん」
「へぇ‥‥通勤時間に聞くんですか?」
「そうだな。家にいる時も何かしながら聞けるから、便利だぞ」
琴葉が朗読アプリを覗き込む。思った通り、自分の知らない難しそうな小説ばかり。「日本経済論〜」やら「海岸絶壁〜」やら、いずれも頭が痛くなりそうだ。
「琴ちゃんはこの本知ってるか?」
「‥‥知らないです。私には律さんのように本を沢山読むことなんて到底できないのです。短編で電子書籍で内容も簡単なものでないと‥‥」
「まぁ、忙しければ無理しなくてもいいけどな」
「忙しいというか‥‥」
小説の投稿をしているというか‥‥
琴葉は思いつく。
「私はその‥‥友人に教えてもらったのですがこの小説投稿サイトの小説を読んでいます。色々な方が自作のライトノベルなんかをアップされていて‥‥」
「そんなのがあるのか」
「律さんみたいな読書家の人が書く小説なら、私は読んでみたいです‥‥書いてもらえないでしょうか?」
いきなり上司に向かって「小説を書いてほしい」と言う部下。
「面白そうだな、琴ちゃんが読む気になるなら書いてやろうか。いつもおすすめの本を聞く割に読もうとしないもんな」
「うっ‥‥すみません」
「どれどれ‥‥ユーザ登録はと‥‥」
そして「旋律 弦」というニックネームで登録した律。
「あ、律さん‥‥この専用SNS使って宣伝もできるんですよ」
「ふーん、じゃあアカウント追加しておくか」
こうして、律の小説投稿サイトでの活動が始まった。