9 彼方『いつか』
私は目の前で起こった事の整理が付いていない。激しい耳鳴りと誰かの叫ぶような声に私は世界が歪んでいくのを感じた。今いる場所がどんどん暗くなっていくのを私は見ていることしかできなかった。
飛び散ったフロントガラスの破片の先にお姉ちゃんが倒れている。手を伸ばしたが視界は濁っていく。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
たった一人の家族なんだ。私にとっての家族はお姉ちゃんだけなのに。
視界が狭くなっていく。
そして私は朦朧とする意識の中目を、閉じた。
※
次に目を開けたのは、病室だった。
どうやら私はお姉ちゃんに助けられた時に頭を強く打っていたようだった。
時刻は午後十一時。
意味もなくふらつく足取りで院内を歩く。
途中、見回りをしていた看護師に見つかり病室に戻された。
病室には満月の光が差し込んでいた。
翌日の早朝に父と母が病室に来た。
久々に見た顔は元気そうで無性に苛立った。
二人はこぞって彼方が無事で良かったと涙を流していた。それが気持ち悪かった。
お昼は特にすることもしたいこともなくただ時間を浪費していた。
お昼過ぎにまた父と母が私の元を訪れた。
私の頭の怪我は全治二週間と言うことだった。
受験には間に合うから安心して欲しいと医者に言われた。
何が、一体何が安心だと言うのだろう。
この日は一日ご飯が喉を通らなかった。
無理矢理にでも口に詰め込めば吐き気がして、全てお皿の上に吐き戻した。
何もする気が起きなかった。
天井にある染みを数えているうちに私は睡魔に呑み込まれていった。
そんな、どん底にいる時にそれは突然訪れた。
キィーンと甲高い音が聞こえて私は目を覚ました。
目を開けるとそこは真っ白な天井があって、更に奇妙な球体が宙に浮いていた。
「病院じゃない」
私は横になっている体を起こそうとした時に漸く背中側が冷たい事に気が付いた。腕を動かし上半身を起こすとバシャバシャと音がなった。水だろうか。
でも、濡れている感覚はなかった。
起こした体で辺りを見回す。どこまで続いているのかわからない真っ白な世界。
もう一度甲高い音が聞こえて上を向く。そこには無数の淡い青色をした球体があって、その球体同士が衝突する度に耳を刺すような甲高い音がこの真っ白な世界に響いた。
不安を感じながら近くまで下降してきた球体に近づく。そっと触れるとひんやりとした手触りが伝う。
「…ガラス玉?」
いつかに見たガラス玉もこの球体と同じで淡い青色だった。
そう言えば、あのガラス玉どこにやったんだっけ。
そんな事をぼんやりと考えた瞬間に、私の周りの景色が一変した。
見慣れたその場所に私は立ち尽くしていた。
「え、なにこれ」
自分の部屋のベッドの前に私は立っていた。向かい側にあるベッドでは、お姉ちゃんが安らかな寝息をたてている。
夢、だったのだろうか。今までのは悪い夢でこれが現実?
私は寝ているお姉ちゃんに近付いてその肩に手を掛ける。
「…触れられる」
――だけど、
私はそっとお姉ちゃんの頬を撫でた。
「冷たい」
これは、夢だ。現実な訳がない。これは、現実から逃げたい私が造り上げた偽物。
でも、それでも、私は。
次に目を開けた時にはそこは病室だった。一体なんだったのだろうか。
そう思うと同時に、どうしようもない現実が私に重くのしかかった。
ふとした時に考える。
もし、私がお姉ちゃんの忠告を聞いていたら。もし、私がトラックに気が付いていたら。
どれだけのもしもを考えただろう。その度に死んでいたのが私だったらどれ程良かったのかを考えた。
ある時SNSで見た。
助けてもらったのに死ぬなんて助けた人が犬死にじゃないか。解ってるよ、そんなこと。解ってるけど――
光の無い現実にたった一人、次第に私の中には自分を責める声が相次いで聞こえるようになった。
次第にその声は強迫観念になっていった。
――死なないと。
私は自傷行為をするようになった。その結果、両親に精神科の病院に無理矢理入院させられた。
放って置いてほしかった。死にたかった。
でも、そんな中でも私は勉強だけはやめなかった。と言うより止められなかったと言うのが正しい。
私なりの罪滅ぼしのつもりだった。おかしいよね、死にたいはずなのに私はまだ、許されたいと思っている。
そのせいか、高校には合格した。
だけど、入学者の名簿には私の名前しかなかった。そこに、お姉ちゃんの名前はなかった。
二人で行こうと誓ったのに。
ぽっかりと開いた空白は余計に私を追い詰めた。
高校には殆ど行かないまま半年が過ぎようとしていた。たまに、学校に行く度に何をしているのだろうと自問自答を繰り返した。
夏も本番になり、どうやら夏休みが始まると日本の学生たちは浮き足立っているようだった。
――死のう。
突然そんなことを思った。
今まで漠然と生きている意味を探していたのが急に面倒になった。終業式の日、職員室から屋上の鍵を持ち帰った。
そして、夏休みの始まりの日私は階段を一歩一歩踏みしめるように上って最上階の扉に手を掛けた。
鍵を開けると金属の擦れる音がして扉が開いた。
空の色は段々と緋色に染まっていた。遠くで蝉の声が自らの命の短さを嘆くように必死に鳴いているのが聞こえる。
私は鉄柵に手を掛けた。試しにぐらりと体を前に出してみる。
グラウンドで部活をしていた野球部がトンボを使ってグラウンドを整備していた。
私は鉄柵に今度は足を掛けた。
その瞬間、強い風が私にぶつかりその拍子に私の足は滑るように空中に一歩を踏み出した。
唐突に逆さに落ちていく。体は上を向き、いつ地面に衝突するか分からない。
怖い。
ハッとした、今さら何を考えているのだろう。
目を開けたその瞬間目前が緑いっぱいになると、腹部に鈍痛が走った。ガサガサと音を立てながら、緑の中から抜けた。そして、重力のなすまま地面に落ちた。
息があった。息を吸う度に肋の辺りに激痛が走る。立ち上がろうと右手を付こうと思ったが、思うように腕が動かない。
私は呻き声を上げながら何とか動こうとする。
が、遅かった。音を聴いてか、偶々通りかかったのか一人の女子生徒が私を見た瞬間に叫び周りには一瞬にして人集りができた。
私は動くこともできないまま病院に搬送された。私は肋と腕を骨折していた。
私は医師と両親の意向で暫く病院から出ることを許されなくなった。
病室から外を見ると葉桜が風に靡いていた。
今もずっと頭の中を声が廻っているのに。
死んだ方が良いとさえ思うのに。
屋上から落ちた時、私は死ぬのが心底怖いと思ってしまった。
私は、私は一体どうしたら良いのだろうか。
それから、さらに半年。私は、入退院を繰り返し何とか進級した。たまに登校して授業を受けているその間もずっと、教室の窓から屋上を見上げた。
春。私は隣町にある図書館まで来ていた。
本は好きだった。読んでいる間は現実を見ないで済むから。
ジャンルは別に何でも構わなかった。強いて言うならミステリー物のシリーズが好きだった。
目当ての本を借りてその日は帰ろうと、私は中学生の時から使っている自分のローファーを図書館指定の靴箱から取り出して、放るようにして置いた。重厚感のある音が響いた。
ふと隣から視線を感じて目線を横へやる。
そこには、艶のある長い髪を揺らしながら見ている女の人がいた。じっと見つめるその人の目を見て私は不思議に思うと同時に少し苛立ちを感じた。
「何ですか」
「え」
「さっきから私の事をじっと見て、なにか付いてますか私に」
私は苛立ちのあまり初対面にも関わらずキツく当たってしまっていた。
彼女はしどろもどろになりながら目を泳がせて覚悟を決めたように私の方を向いて言った。
「あなたが、綺麗だなとおもって!」
私はその言葉を何度か頭の中で繰り返す。
そして、もう一度目の前にいる彼女を見た。
大人びた雰囲気があり、とても急にナンパをしてくるような人には見えない。
「年上、ですよね」
彼女を下から上まで眺めた。
肩に掛けている可愛らしい図書バッグには本が何冊か入っていた。
「本、好きなんですか」
「え、まあ、多少は…」
しどろもどろな彼女は何故かみるみるうちに顔が赤くなっていく。
「どんなの読むんですか」
「えっと、ミステリーが好きで」
「そう」
予想通りの返答が来て思わず素っ気なく返事をしてしまった。
「それで、何で私を見てたんですか?」
私は話題を戻した。そもそも、綺麗だと思ったなんて理由あまりにも適当すぎやしないか。
SNSで見たナンパ動画でも、もう少しましな理由だった。
「それは始めにも言った通り綺麗だと思ったからです!」
彼女は恥じらいを捨ててもう一度声を大にして私に素直な気持ちを伝える。
本当に、そんな理由で私を見つめていたのか。
「すみません、図書館ではお静かに願います」
「あっ、すみません」
司書の方が館内から出てきて彼女は注意された。
「…変な人」
私は、少しだけ目の前の彼女に興味が出た。
ここだと人目もあるので、私と彼女は図書館から離れて近くの喫茶店で話をすることにした。
図書館からはそんなに遠くなく、珈琲の匂いが辺りに立ち込めてきた。
その匂いの元の喫茶店は私のお気に入りで、隣町の図書館を使った時は必ずここで借りた本を読んでいる。
店内の席について、注文を済ませて互いに自己紹介がまだだなと思った時タイミング良く彼女が話題を振った。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は、真島 歩と言います」
「私は…」
私は少し考えてから顔を上げた。
「私は、二ノ宮 彼方と言います」
「二ノ宮さんって呼べば良いですか?」
「お好きなように呼んでください」
偽名を使った。
本名を知られるのが怖かった。
もしかしたら、あの時の事故の事や私が屋上から落ちた事を知っているかもしれない。
きっと、無いだろうと思っていても怖かった。
「じゃあ、二ノ宮さんはその…趣味、とかってありますか」
「読書ですね」
私は反射で答えた。
その答えに真島さんは気まずそうに顔を若干俯けている。それもそうか、いくら初対面の人に綺麗だからとナンパする人でも話題が続かないと気まずいだろう。
「真島さんの趣味は?」
私は彼女の勇気を無下にしないように会話を続けた。
「私も、読書ですね」
「ミステリーが好きって言ってましたもんね」
私達の席へ注文したミルクコーヒーと抹茶ラテが置かれた。店員は浅く礼をして他の待っているお客さんの所へ静かに行ってしまった。
店員がどこかに行ったのを確認してから、私は話を戻した。
「それで、私が綺麗ってナンパしてきた理由は何ですか?」
そう聞くと、真島さんは気恥ずかしそうに頬を赤らめてから口を開いた。
「えっと、というか、ナンパとかではなくて…」
「なくて?」
「確かにちょっと見すぎたなって今考えれば思うんですけど、あれは本音が漏れたというか間違えたというか…」
「間違えたんですか?」
「ああ! いや! 違くて!」
彼女の表情がコロコロと変わるのを見ながら何となく彼女の仕草がお姉ちゃんに重なった。
私はテーブルに置かれているチョコレート色の珈琲を一口含んだ。
「まあ、良いです。嫌ではなかったですから」
彼女に私と同じでどこかに生きづらさを感じてるような感覚を覚えた。
そう思うのは私がそうだからと言うのもあるだろうけど、彼女が解りやすいからだ。
彼女は私に期待している。その期待がなんなのかまではわからないけど。
「真島さんは、いつもあそこの図書館を利用しているんですか?」
「いえ、いつもは隣町の図書館を使ってます。今日は気分転換にここまで来て」
隣町。
背中の辺りが一気に冷え込んだ。
「どうかしました?」
「え」
彼女に話しかけられて私は我に返った。
「ちょっと考え事をしてて、それで図書館では何を借りたんですか?」
私は話題を無理にでも変えるために彼女の図書バッグを見て、話を進める。
彼女は私の目線の先を見て、すぐにバッグの中身を取り出しテーブルに並べた。
取り出した本は全部で四冊。
私は右から左へ本を眺めた。そして、一番左の見たことのある本に目を留めた。
その本は、探偵ものの小説で幾つかのシリーズがある人気作品だった。
私はこのシリーズを入院中に看護師さんに勧められて読んだことがあった。
「このシリーズ面白いですよね」
「そうですよね、私も好きです」
共通の話題があるとそこから会話を生むのはとても簡単だった。
私達は、本の話に夢中になった。
話していて気が付いたのだが、私と真島さんは話の馬が合うようだった。心地が良かった。まるで、お姉ちゃんが帰ってきたかのような感覚だった。
本の話は途切れることなく続き、いよいよ外が暗くなってきた。
真島さんは電車に乗り遅れるからと席を立ち上がった。去り際に私と真島さんは連絡先を交換した。
少し気は引けたが、彼女がお姉ちゃんに似ていたこともあって私はスマホを差し出した。
彼女は私の連絡先を見て微笑んでから、
「また、いつかこうしてお話しましょう」
と言って代金を払ってその場を後にした。
私は去っていく彼女の背中を見送り、一息付いてから窓から外を見た。
桜は風に煽られ殆どが地面に散っていた。
私はもう一杯、ミルクコーヒーを頼んで暫く喫茶店で本を読んだ。
翌日の昼下がり昨日図書館で借りた本を読みながら時間を潰していた。
最近は自由時間も増えてきた。
本に熱中している時は現実から目を背けることができた。そのためか、幻聴も本を読んでいる時はまるで聞こえないどころか、段々と薄れつつあった。
「彼方ちゃん、お昼持ってきたよ」
病室の扉が開いて、私を担当している看護師がお昼ご飯を運んできた。
私は精神病院の一室でお昼過ぎにカウンセリングがあり、その時にこうして、いつも昼食を食べさせてくれる。
「いつもありがとうございます」
「良いの良いの、そんなに畏まらなくても」
私のすぐ側に白ご飯と味噌汁、焼き鮭の入ったお皿が置かれた。
「どう? まだ、幻聴は聞こえる?」
「たまに…でも、薄れてきてはいると思います」
「そう、ならよかった。自分の部屋には入れるようになりそう?」
「それは…まだ…無理そうです」
「そう、まあゆっくりで良いから」
「はい…」
自分の部屋に入りたくない訳ではない。あの場所は私とお姉ちゃんの大切な場所で一番お姉ちゃんを感じることが出来る場所だ。だからこそ、部屋に入るのはまだ怖い。
私はそっと看護師さんを見ると、目が合った。
「早い内に食べなよ。折角温かいんだから」
優しく微笑んだ看護師さんは私が白ご飯を一口食べたのを見ると、ふっともう一度微笑んで病室から出ていった。
あれから二週間、春も終わりに近づき日差しは一段と暑くなりつつある早朝。リビングにあるソファーの上に寝ていた私に真島さんから久々に連絡があった。スマホの時間は午前の四時。
『二ノ宮さん、生きてますよね』
文面だけを見ると意味の解らないものだったが、私はその言葉に心臓が大きく揺れた。
『どうかしましたか? 生きてますよ』
心臓の音を誤魔化すようにすぐさまスマホに返事を書き込んだ。
すぐに既読が付いた。
『すみません、変な夢見ちゃって気が動転してました』
『どんな夢だったんですか?』
『二ノ宮さんが学校の屋上から落ちる夢でした』
屋上から落ちる夢。
私は動揺のあまりスマホを床に落とす。動悸が激しくなり、上手く息が出来ない。
幻聴がまた、強く聞こえた。
耳を塞いでも頭に直接響いてくる。
何で生きているのか。私よりもお姉ちゃんが生きていた方が良かった。なのに、死ぬのが怖いと思った自分がいた。
私は――生きていても良いのだろうか。
その日は授業には出ないで放課後の時間まで家で過ごした。時間を見計らい誰もいない学校の廊下を歩いた。私はもう一度屋上へと繋がる階段を上っていた。
私が落ちてから屋上は立ち入り禁止になっていて、鍵の扱いも厳重になったらしかった。
詳しくは知らない。
それでも階段を上った。私は確かめたい一心で、階段を上る速度は段々と上がっていった。一段一段上る度に幻聴は大きくなる。最後の踊り場を抜けてその一段に足を掛けた時、ひとつしたの踊り場から声をかけられた。
その声には聞き覚えがあった。
「久しぶり…ですね」
私は苦虫を潰したような声で言った。
目線の先には真島さんがいた。
「一ノ瀬 彼方さんですよね」
彼女は確かめるように聞いた。
「私の事、知ってるんですね。まあ、あれだけ大事になれば知ってて当然か」
彼女の顔は前に会った時より私に期待するような表情は見受けられなかった。その事に私は焦りと何か彼女に対して置いていかれた気がした。
「ねぇ、なんで私を引き止めたの?」
「今朝の夢を思い出して、もしかしたらって…」
「ふーん。…真島先輩って意外と正夢とか信じてるんですね」
私は階段を下りて彼女の目線に合わせるように立った。
「真島先輩」
「真島先輩は私が死のうとしているのを見たらどうしますか」
「説得しますか? それとも怒りますか?」
彼女の目は前と違い、期待ではなく同情の色が見えた。
気が付いた。彼女は決してお姉ちゃんと同じではなかったのだと。
彼女はまだ、これからやり直す事が生きることが出来るのだと。
そう思った瞬間、肩がドッと重たくなった。
「ごめんなさい、変なこと聞きましたね。あなたは違うのに」
私は溢れる感情を抑えきれずに言葉にした。
――お姉ちゃんとは違うのに。
去り際に彼女の顔を見ようと思ったが止めた。
きっと、今よりもっと辛くなってしまうから。
その日から、彼女とは連絡を取っていない。
ここまで読んで下さり感謝します。
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ちょっと、彼方の人生書くの手こずったよね~。