4 歩『私』
あの後も何度かガラス玉を覗いてみたが何もなかった。
「やっぱり気のせいか」
ガラス玉を机の上に置いて、スマホを手に取る。
二ノ宮さんの連絡先を開いた。
『今日はありがとうございました。とても楽しかったです』
そこまで打って文字を全て消去する。
こういう時に限って勇気のない私の事を誰か罵ってくれないだろうか。
はぁとため息が漏れる。その時、スマホが鳴った。私は多分ギネスに載れるくらいのスピードでスマホの画面に視線をやったと思う。
「何だ…野球部の連絡か…」
スマホに映っていたのは野球部の練習試合の日程連絡だった。そう言えば今週の土曜日に来週の土曜は良いところと練習試合ができると監督が張り切っていたのを思い出す。
私の上がっていた肩は、はっと息を吐くと軽くなった。
念のため野球部の練習試合の日程もしっかりと見ておく。
練習試合をするところはここら辺の高校だと結構強いところで午前中に一試合、午後に二試合目がある。
私は一通り日程を見終えてベッドにスマホを放り、そのまま視線を壁に向けた。
壁にかけられたマネージャー用のユニフォームには背番号がついている。
私がこの学校の野球部のマネージャーになったのには理由があった。
それは、一年の時の先輩に一目惚れをしたことだった。その先輩はいつも明るくて、太陽のように眩しい人だった。そんな人だったから私は忘れられないのかもしれない。
冬、最後だからと勇気を出して告白した日は今でも夢に出る。
「ごめん、彼氏いるんだ」
気まずそうにそう言う彼女の顔を夢寐にも忘れない。
――もう、やっている理由なんてないのにな。
自分を嘲笑するようにでた心の声を振り払う。
野球部で部活をしている人は誰だって真剣で、毎日、日が暮れても学校に残ってバットを振っている。
そんな皆に申し訳ない。だから、私は理由何てなくてもやりきらないといけない。
なんて、私の言い訳かな。
そろそろ、寝ようとベッドの上に放ったスマホを手に取り充電しようと充電器のコードに手を伸ばす。
充電をするとスマホの画面が明るくなった。
二ノ宮さんから連絡が来ていないのを確認してから眠りについた。
※
早朝、目が覚めたのは気分の悪い夢のせいだった。
誰かと階段で話した夢。顔は靄がかかったように思い出せなくて誰かは解らなかったけどその時の焦燥感と無力感は今も残っている。
私の前から去っていく誰かが私に何か言っていたような気もするが思い出せない。
取り敢えず、全身が汗で気持ち悪いのもあって一度寝巻きから着替えることにした。
時刻は午前四時。
窓から見える外の景色は太陽が昇って来ているのが見えた。
私は制服に着替えてスマホを充電器から外す。
画面がパッと明るくなって通知が映った。
「え」
通知の欄に昨日の夜私が眠りについた後に二ノ宮さんから連絡が来ていた。
スマホのロックを解除して二ノ宮さんの連絡先を開く。
『今日はありがとうございました。また、お話できたら良いですね』
私は何か返さなければと思考を巡らす。
どんな、文言が良いだろうか。フランクに書いてみるのかそれとも、少し堅い文章で書くべきだろうか。
迷いに迷った末にどちらとも取れない変な文章ができてしまった。
私はそれを消して、結局定型文を送ることにした。
『私も楽しかったです』
短い感想文これが私の精一杯だった。
暫くスマホの画面を眺めていたが、午前四時ということもあって既読は付かなかったのでスマホを鞄の中に入れた。
月曜日の朝というだけで学校全体の雰囲気はどんよりとしていた。
皆どこか疲れているようで授業中寝てしまう人も多くいた。
私もその中の一人で午前中の授業は殆ど寝ていた。普段は授業を寝ることはないから先生や友達に心配されたが今朝早起きしてしまったからと言うとなんだそんなことかと皆胸を撫でた。
午後の授業は重たい瞼を何とか開いて、乗りきった。
放課後は部活動がある。
私は着替えるために更衣室へ向かった。
「あ、真島先輩!」
途中、美喜ちゃんが私に声をかけた。
「美喜ちゃんも今から更衣室?」
「いえ、先に職員室に用事があるので」
「じゃあ、私先に用意しとくね」
「お願いします」
職員室前で、美喜ちゃんと別れて私は更衣室の扉を開いた。
相変わらず人気のない静かな更衣室で制服を脱ぐ。鞄の中からユニフォームを取り出して着替えた。
ロッカーに荷物を入れて外に出る。
既に春も中旬だというのに肌寒い風が私を通過する。
動いていればその内温かくなるだろうと私は部室に向かった。
部室の扉を開けて、中から白球の入った籠を抱えてグランド迄運ぶ。それを往復三回。運び終える頃には既に肌寒さは消えて寧ろ暑いくらいだった。
グラウンドには部員達がぞろぞろと集まって来ていて中には投球練習をしている人やストレッチをしている人もいた。
「真島先輩、遅れました!」
「あっ、美喜ちゃん。大丈夫皆まだ集まってないから」
「よかったぁ」
息の上がっていた美喜ちゃんは胸に手を当てて息を整え一枚の紙を私に手渡した。
「これ、監督が遅れるからって、今日の練習メニューです」
「ありがとう」
「まあ、今日のって言ってもいつも同じなんですけどね」
「確かに」
他愛もない会話をしているうちにいつの間にか皆揃っていたようでキャプテンが整列を促していた。
「私達も、そろそろ行かないと」
「そうですね」
「ちょっと待って!」
私達が行こうかと足を踏み出した時声をかけられた。
振り返ると男の子が何かを持って息を切らしている。よく見るとそれはスパイクシューズのように見える。
「えっと、いきなりで悪いんですけど、これを近藤 涼真に渡してもらえませんか」
「近藤くん?」
呼ばれた時は俯いていてよく見えなかったが私達を見つめる彼は、目はパッチリで鼻筋も通っている所謂美形な男の子だった。
「周ー!」
周、そう呼ばれた男の子に近藤くんがのし掛かるように肩を組む。
「近藤、誰が時間は余裕だから、だ!ギリギリじゃねぇかよ!」
「すまんすまん、そういや周体力なかったんだった」
「俺のせいかよ!元はと言えばお前が教室にスパイク忘れたのが発端だろうが!」
この二人、仲が良いんだろうか。
一見すると、元気に満ちていて、社交的な近藤くんと冷静で内気そうな彼だと接点がないように思うが、とても親しいように見える。
不思議そうに見つめる私を見て彼はハッとしたように私に頭を下げた。
「すみません、呼んでおいて」
「いいのいいの、それより近藤くんに渡せて良かったね」
「ええ、まあこいつこんなんですから」
彼が指を差した方には近藤くんがいてキョトンとしている。
「え、なんの話?」
「気にするな、どうせ解らんから」
「なんか、腹立つなぁ」
「じゃ、僕帰るから。じゃあな」
「おう、じゃあな」
近藤くんは彼の後ろ姿を少しの間見つめて、私達に向き直る。
「あー、美喜ちゃんと真島先輩走らないと間に合いませんよ」
そう言って近藤くんは全力疾走で、整列している部員のところへ行ってしまった。
私達も後を追うように整列した。
※
「整列! 気を付け! 礼! ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
部活動も終わりグラウンド整備や片付けを始める。
「美喜ちゃんこっちお願い」
「はい」
私と美喜ちゃんは白球の入った籠を部室まで運ぶ役割だ。
その籠は見た目通りの重量の為、一年生の頃は私は結構キツかったのだが美喜ちゃんはその細い腕で軽々と籠を持ち上げた。
「美喜ちゃん意外と力あるんだね」
「そうですか?」
「私が一年の時はこの籠持てなくて先輩に手伝ってもらってたからさ」
私が苦笑をすると、美喜ちゃんは立ち止まった。
「あの、先輩」
「ん? どうかした?」
「この後空いてますか」
少し前に美喜ちゃんに遊びに誘われていた事を思い出した。
その時は、確か断ったんだっけ。
「うん、空いてるよ」
「じゃあ、部活が終わったら生徒玄関で待ってて下さい」
「わかった」
その後は特に会話もなく備品の片付けを終えた。
私は一足先に更衣室で着替えを済まして、生徒玄関前で待っていた。
ピコン
鞄の中でスマホが鳴った。
画面には美喜ちゃんの連絡先からメールが届いていた。
『少し遅れます』
『わかった』
短く連絡を返してスマホをしまう。
校門から生徒玄関までの道に沿って鮮やかに咲いていた桜も今は殆ど雨風で散ってしまった。
暇だなぁ。
そう言えば、今日の課題机の中に入れっぱだっけ。後で取りに行こうと思ってたけど、時間ができたし、今取りに行こうか。
『課題、教室に忘れたから取ってくる』
念のために美喜ちゃんに連絡をしておき靴から上履きに履き替える。
木製の階段を上ってコンクリートの廊下を擦れる上履きの音が寂しく響く。
三年一組の扉を開いた。案の定中には誰もいない。
私は自分の机の中に入っていた、英語の課題を取り出して鞄に入れた。
教室から出て階段を下りる。
まだ、美喜ちゃんから連絡は来ていない。
私は誰もいない廊下に少しワクワクしていたのもあって、遠回りをしようと二階の廊下を歩くことにした。
二年の誰もいない教室の前を通り過ぎていく。
懐かしいな。私はふと去年の事を思い出した。
文化祭や体育祭。どれも楽しかった。
今年で卒業かと思うと、瞼の奥がじんとあつくなった。
「遅かったですね」
「ごめん、寄り道してた」
「まあ、私も遅れてますしおあいこですね」
生徒玄関に戻ると美喜ちゃんはわざわざ三年の靴箱の前で待ってくれていた。
私達はゆっくりと歩き出す。
何を話すでもなくただゆっくりと歩みを進める。
「先輩、好きな人とかいるんですか?」
「ふぇ?」
突然のことに思わず変な声が出てしまった。
「いない、かな」
「そうですか」
そして、また私達の間に沈黙が流れた。
暫くそのまま歩いていたのだが、美喜ちゃんが歩みを止めた。
「どうかした?」
「先輩、渡辺 冴って人知ってますよね」
私がその名前を知らないはずがなかった。
私が一年の時に告白をして、振られた相手。
どうしても、忘れられない苦い記憶が私の中に鮮明に残っている。
「知ってるよ、一年の頃はお世話になったなぁ」
「私、渡辺 冴の妹です」
気丈に振る舞っていた私の顔はおそらく歪んでいるだろう。
それでも、美喜ちゃんは言葉を続ける。
「ずっと、聞きたかったんですけど先輩って本当にお姉ちゃんのこと――」
その先にある言葉を聞く前に、私は逃げ出した。後ろから美喜ちゃんの声が聞こえたけど、聞こえない振りをして走った。
どこまで走っただろう、見知らぬ高架橋の真下まで行って一度大きく息を吸う。
一見、ため息のように見える息を吐き、私はその場にしゃがみこんだ。
明日からどんな顔して、美喜ちゃんと接すればいいのか。
今度はちゃんとため息が溢れた。
渡辺 冴。
久々に名前を聞いたな。今は何をしているんだろうか。あの時付き合っていた彼氏とは上手くやれているのだろうか。
そんな、行き場のない思考が止まったのはスマホが鳴ったからだった。
鞄の中からスマホを取り出す。
なんとなく相手は解っている。
「そうだよね……」
電話をかけてきていたのは美喜ちゃんだった。
一応、私は電話に出ることにした。
「えっと、美喜ちゃ―」
『どこにいるんですか!』
私の声を遮るように美喜ちゃんは声を荒らげた。
「ごめん、いきなり走って。私は家に帰ったから」
『嘘です。声が反響してます。どこにいるんですか』
美喜ちゃんは問い詰めるように私に迫ってくる。私は黙っていた。
別にどんな言い訳でもできた。でも、私はしなかった。
沈黙の後に美喜ちゃんが口を開いた。
『本当は、面と向かって話したかったんだけど…』
画面越しに美喜ちゃんの息が伝わるようだった。
『私、女の子が好きなんです。所謂、レズです』
美喜ちゃんは決意を固めたようにはっきりと言い切った。その声は真っ直ぐで、でもそれでもどこか不安そうな声だった。
『先輩もそうなんですよね』
「私は…」
私は喉まで来ていた声を飲み込む。
ずっと、ずっとだ。
周りの友達や家族にも相談できずに私は私を偽って生きていくのだろうとただ流されて行くのだろうと思っていた。私は周りとは違うから。
でももし、誰かに打ち明けても良いのなら。
「私も…そう、だよ」
「やっぱり」
高架橋の下、顔を上げると美喜ちゃんは私の前に立って微笑んだ。
「なんでここがわかったの?」
「ここ、来たことあるんです」
美喜ちゃんは私の隣に座った。
「それにしても、よかったぁ。心配したんですよ、いきなり走り出すから」
「…ごめん」
「事故にでもあってたらどうしようかと…」
美喜ちゃんはそっと私の手を取った。暖かい掌が脈を打つ。
「私も一人だったんです。誰にも言えなくて、一人で抱えてたんです」
だからと美喜ちゃんは続ける。
「先輩の力になりたくって。二年前、お姉ちゃんから先輩のことを聞いて少しだけ安心したんです。私だけじゃないんだって。当時、私は恋してたんです。まあ、半分諦めてましたけどね」
美喜ちゃんは自嘲するかのように目を瞑る。
「そんな時に、お姉ちゃんから先輩の話を聞いて少しだけ勇気が出たんです。だから、これは私の勝手な恩返しですかね。先輩、お姉ちゃんのことずっと引きずってるように見えたんで」
「そんな風に見えてたかな」
「たまに、ユニフォーム眺めて悲しそうな顔してましたよ」
美喜ちゃんはニヤニヤと私の頬を人差し指でつつく。
「あっ、勘違いしないでくださいね。私は一途なんです」
「…ありがとうね」
「いえいえ、こちらこそ二年前先輩に勇気づけられたので感謝しかないです」
「私の失恋で勇気づけられたのか…」
複雑な心境だけどでも、美喜ちゃんのお陰で心が軽くなったのは本当だ。
美喜ちゃんは私が冴先輩に振られたことを知っていて私を気遣ってくれたのだろう。
「先輩、そろそろ帰りましょうか」
美喜ちゃんが立ち上がった。
辺りを見渡すといつの間にか日は暮れて空の色は段々と青く染まっていた。
遠くの方には星が見えた。
「美喜ちゃん送っていくよ」
「大丈夫ですよ、家近いんで」
「うんん、心配だから」
「…そうですか」
美喜ちゃんと二人で暗くなった道を街灯を頼りに進んで行く。
「これ、聞いても良いのかな」
「なんですか?」
「美喜ちゃんの恋がどうなったか」
「全然良いですよ?」
「本当に!」
「はい、と言うかなんで駄目だと思ったんですか」
美喜ちゃんは一息吐いてから話し始めた。
「先輩、去年の夏にあった自殺未遂事件覚えてますか?」
私は一年生の間でも、もう広まっているのかと思った。
去年の夏、一人の女子生徒が屋上から飛び降りて自殺を図った。
幸い、女子生徒は肋と腕の骨折で済んだがその後は不登校で学校に来ていないらしい。
「その、生徒のお姉ちゃんなんです」
「え?」
どういう事? と聞く前に美喜ちゃんは続ける。
「私が恋をしたのはその子のお姉ちゃんなんです」
※
「ただいま」
家に帰ってすぐに自室に入りベッドに飛び込む。
全身の疲れがどっとベッドに染み込んでいくのがわかった。
私は手を伸ばして鞄の中からスマホを取り出す。
連絡先の欄には彼方と言う文字が映っている。
そう言えば、自殺未遂した子も彼方って名前だったけ。
まさかね、とスマホを置いて鞄からガラス玉を取り出す。
相変わらず綺麗なガラス玉は暗い部屋の中でも輝いて見えた。
私はガラス玉を握り目を瞑った。
「え」
瞼の裏側に見えたのは暗闇ではなかった。
目の前に高校の校舎が見えた。
ふと、校舎の上へと視線を動かす。
「誰だろ?」
屋上に人影があった。それも二つ。
屋上は鍵がかけてあって立ち入り禁止になっているのに。
嫌な予感がした。蘇る夏の日の記憶。あの時も私は見ていた。女子生徒が落ちるのを。
ふらりと誰かが身を投げ出した。
影から顔が現れる。
「二ノ宮、さん?」
直後にもう一人誰かが屋上から飛び降りた。
男の子だろうか、どこかで見たことあるような気もする。
あれ? 私なんでこんなに冷静なんだろ。
何かが破裂したような音と共に焦りが私の中に募る。
私は走り出した。額に汗が吹き出、頬に流れる。彼らが落ちたであろう場所まで無我夢中で走った。
そして、目の前にある景色に息を飲んだ。
「……夢?」
私はいつの間にか寝ていたようで、制服のままだった。
私は汗で気持ち悪いのを他所にスマホを手に取る。時刻は朝の四時。
私は連絡先から二ノ宮さんにメールを送る。
『二ノ宮さん、生きてますよね』
すぐに返信が来た。
『どうかしましたか? 生きてますよ』
安堵すると急に私が送ったメールが恥ずかしくなってきた。一人で勝手に不安になって訳の解らないことを送ってしまった。
『すみません、変な夢見ちゃって気が動転してました』
『どんな夢だったんですか?』
『二ノ宮さんが学校の屋上から落ちる夢でした』
私は暫く返事を待っていたが既読になってから十分経っても返信は来なかった。
「ガラス玉どこに落ちたんだろ」
返信を待っている間私はずっとガラス玉を探していた。
「握って寝たからベッドの上か床にあると思ったんだけどな」
それから、部屋の至る所を探したがどこにもガラス玉はなかった。
不思議なことにガラス玉が消えたのだ。
私は部屋の電気を点けてもう一度、ベッドの下や布団を全て捲ったがガラス玉は見当たらなかった。
「どこに行っちゃったんだろ…」
そうこうしている内に時間は過ぎて結局、二ノ宮さんからの返信も来ず、ガラス玉も見つからないまま私は制服に着替えて、学校へ登校した。
――疲れた。
放課後私は更衣室の扉を閉めてため息を吐いた。
なぜか今週の中で最も疲れた。体育があったからだろうか。
普通、体育が授業にあると一定の喜びがあるのだが、この時期は毎年運動ではなく整列や補強運動を延々とやらされる。決して楽しくはないのにとても疲れると言う最悪の体育なのだ。
しかも、それが六限にあるのだからひとたまりもない。そのあとの部活でさらに疲れると言うのに。
それに、今朝からずっと二ノ宮さんから返信が来ない。もしかしたら、落ちるのではなくてもあの夢のようになってしまったのではと不安が募る。
私は一度頭を振って、教室に置いていた荷物を取りに戻ろうと階段に足をかけた時。
かつかつと上の階から階段を上る音が静かな階段全体に響いていた。
誰か居るのだろうか。放課後のこの時間に居るとなると見回りの先生だろうか。
妙に胸騒ぎがした。
私は階段を駆け上がった。
今朝見た夢がもし正夢だったら。そんな、不安が階段を上る私の足を速める。
「あの!」
微かに見えた黒髪と見覚えのある顔に私が声をあげるとそこで足音は止まった。
私は制服を着た彼女をみて思い出した。図書館で出会った時とはあまりにも雰囲気が違いすぎて気が付かなかった。
「久しぶり…ですね」
彼女がばつの悪そうに顔を歪めて言った。
私は彼女を去年の夏一度だけ見たことがある。
あれは、蝉の声が良く聞こえる快晴の日だった。
部活動も終わって着替えようかと更衣室へ向かっていた時、誰かが声を上げた。多くの人が叫んでいた。私はそれにつられるように人混みを掻き分ける。
人集りの中心にいたのは――
「一ノ瀬 彼方さんですよね」
一ノ瀬さんは黙ったまま私を見下ろして、冷やかに視線を向けていた。
「私の事、知ってるんですね。まあ、あれだけ大事になれば知ってて当然か」
一ノ瀬さんは平然とそう言った。
そして、もう一度私を見た。
「ねぇ、なんで私を引き止めたの?」
「今朝の夢を思い出して、もしかしたらって…」
「ふーん。…真島先輩って意外と正夢とか信じてるんですね」
一ノ瀬さんは私の方へ一段ずつ階段を下りてくる。
そしてとうとう私の前まで来た。
「真島先輩」
一ノ瀬さんは一段下りて私と同じ段に立った。
一ノ瀬さんの黒く吸い込まれそうな瞳に見つめられて私は段々と目眩がしてくるようだった。
なにも言えないで私はただ時間が過ぎるのを待っていた。
「真島先輩は私が死のうとしているのを見たらどうしますか」
突拍子もないそんな言葉に私は言い淀む。
「説得しますか? それとも怒りますか?」
ほんの数十秒の沈黙から一ノ瀬さんのため息が聞こえた。
「ごめんなさい、変なこと聞きましたね。あなたは違うのに」
私は答えを出せないで、去っていく一ノ瀬さんを引き止める力もなくただ私はその場に立っていることしかできなかった。
それからは覚えていない。家に帰ってすぐに自室に籠ったように思うけど、私はあの場所に私を置いてきたように何も考える気にはなれなかった。
それから三ヶ月経って季節は春から夏になり私の日常は段々と味気ないものになっている。あの日から、一ノ瀬さんとは連絡も取れていない。
私はあの時の一ノ瀬さんの質問の答えをまだ出せないでいる。
言葉は無数に浮かぶのにどれも彼女には違うような気がしてしまう。
いつか私は答えが出せるのだろうか。