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11 周『夏祭り』

小学校低学年の頃、僕の家はそれはもう仲睦まじい家庭で近所からは今とは全く違う見方をされていた。

斯く言う僕も家族の事を大切に思っていたし、仲が良いとも思っていた。

だからきっと、この幸せが常に続いて行くものだと錯覚してしまったのだ。いや、本当は気づいていたのかもしれない。

それでも幸せだって、見たくもない現実から目を背けるために自分を騙し騙ししていたのかもしれない。

この頃の僕は純真無垢、天真爛漫な小学生だった。クラスの中でもいつも中心にいたし、家でも良く家族を笑わせていた。


「ただいま!」


母と一緒に家の玄関を開けて開口一番にそう言った。当然、父は仕事で家には居なかったがその代わりに母が後ろからお帰りと言ってくれた。

僕は早速宿題をやるために小学生になって初めて出来た自分の部屋に慌ただしくドタバタと向かった。

先ず驚いたのは、ベッドが浮いていたことだ。

所謂二段ベッド。

今まではお母さんと一緒の床に着いたベッドで寝ていたから、僕は秘密基地のような二段ベッドを見てすぐに気に入った。

早速階段を登ってベッドの上に寝転がる。

自分が浮いているのだと思うと余計に楽しくなった。


「気に入った?」

「うん!」

「なら良かった。下には勉強机と本棚があるからね」

「はーい」

「お母さん買い物に行ってくるから、宿題やるのよ」

「わかった!」


僕の返事を聞いて母は微笑みながら部屋を出ていった。

僕は暫く布団で囲いを作って秘密基地感を強くしたり、下を覗いて見たりして初めての二段ベッドを堪能した。

三十分程ベッドで遊んで、下に降りてランドセルの中から筆箱と宿題プリントを取り出して、宿題に取り掛かることにした。

僕は宿題は嫌いではなかった。というか、寧ろ好きだった。解らないことを解ろうとすることが僕は好きだったから。

辞書を引いたり、調べたりすることは格好いいと思っていた。僕は勉強には熱心に取り組んだ。

その結果、僕の成績は学校や塾でいつも上位にあった。別に一位という訳ではない。さすがにそこまでの覚悟はなかった。程よく勉強ができて、程よくゲームや漫画を嗜んでいる。

僕は小学校四年生までそんなやつだった。

そのせいだったのだろうか、母は僕を中学受験させるつもりでいた。

僕もそれに賛成だったし、父も周がやりたいならやりなさいと言っていた。

確か僕が小学校六年生になった年からだった。母がおかしくなり始めたのは。


          ※


「塾行くわよー!」

「うん…」


僕は母に引っ張られるように車に乗った。

小学校六年生になった僕は相変わらず塾の成績は上位だったが、一位にはなれなかった。というかあまり進んでなろうとはしなかった。

だって、僕だってしたいことが毎日一つや二つは有ったから。僕より上の順位の皆は自分のやりたいことを押し殺してまで勉強をしていたり、はたまた勉強が人一倍好きだったりと到底僕には不可能な事をしていた。

僕はそこまで、勉強が好きなわけでもないしそれなりに勉強ができてそれなりに漫画やゲームをして毎日を過ごしていればそれで良かった。

もちろん、それなりにとは言いつつも成績は落とさないように勉強はしていた。


「また、一位じゃないの?」


塾のテストの返却日は僕にとって辛い他なかった。


「漫画もゲームも禁止ね」


母は僕にどうしてもテストで一位を取って欲しいようでこうして漫画やゲームといった娯楽を取り上げられる事も多々あった。

まあ、娯楽が取り上げられたからといって他に息抜きすることが何もない訳ではなかった。

僕は次第に絵を描くようになった。初めはとんでもなく下手で何を描いているのかすらあやふやな線だったけど、勉強に疲れて休憩している時に毎日描いていたからそれなりに上手くなった。

それが母にバレた。

僕は内心褒められるのではないかと期待していたのだけど反応は予想と違った。


「こんなもの要らないから成績を上げなさい」


きっぱりとそう言われた。母は無表情だった。僕は、そこから勉強に注力するようになった。

母に褒められたい一心で。

娯楽は全て押し入れの奥に仕舞って学校でも塾でも家でも僕は椅子と机に固定されたかのような毎日を送った。

それでも僕は一位には、なれなかった。

それもそうだろう。僕よりもずっと前から勉強をしていた人の学力を今までそれなりで済ませてきていた僕がそう簡単に抜けるはずがない。

母はそんな僕に段々怒りを募らせていった。

中学受験をしないかと母に言われた時はやる気に満ちていた僕はやる気の糸が切れかかっていた。目に見える成果は一向に出ないで、テストが返される度に母の嫌味が僕の鼓膜を突いた。


夏。七月の七日。七夕の日。

そんな僕を見かねた父が僕を隣町の夏祭りに誘った。

どうやら、その夏祭りは地域の人達が開催しているもので規模は小さいながらも最後には花火を打ち上げる。

当時の僕は行き詰まっていたのもあってなんとか父と二人で母を説得してその日は夏祭りに行く事になった。

僕は昼迄勉強をしてから、夏祭りの用意を始めた。

父が言うには屋台などもあるらしく、僕は心踊らせながらバッグに財布やらゲームやらを詰め込んだ。

そうこうしている内に時計の針は父と約束していた時間になった。僕は一体祭りで何をするのか解らないものを沢山詰め込んだバッグを背負った。

玄関まで他のものには目もくれないで一目散に向かった。靴を履いて玄関の扉を開いた。目の前には父が運転席に座っている黒いワゴン車が停まっていた。車は辺りが暗いので玄関から差す明かりと車のライトが無ければ殆ど見えなかった。

僕は車の助手席の扉を開いて乗った。しっかりとシートベルトをする。


「よし、行くか」

「うん!」


僕が大きく頷いたのを見て父は微笑んだ。そして、その大きな掌でワシャワシャと僕の頭を撫でた。僕の頭から父が手を離すと少しだけ寂しいような感じがした。

そうして、僕は父と一緒に夏祭りの会場である隣町までドライブをした。

そこは僕の想像していたよりもずっと大きなものだった。と、言っても地域の祭りなので屋台も人も少ない。だけど綺麗だった。この祭りはどうも中心にある湖を囲うように会場がセッティングしてあるようで、明るい提灯の光が水面に反射していた。最後には花火も上がるらしくとても楽しみだった。

暫くは父さんと一緒に屋台を巡った。

りんご飴にわたあめや射的に輪投げ、金魚すくいは金魚を飼えないからと父に言われてあえなく断念した。

とても、とても、楽しかった。久々に心の底から笑えた気がした。

張り詰めていた、千切れかけていた糸に他の糸が加わって僕の心を修復していく様だった。

一通り屋台を廻り終えて僕は父と一緒に花火を見るための場所を探していた。

探すと言っても、人が少ないためあっさりと決まった。屋台のある場所から少し離れた開けた場所。そこに僕と父さんは二人で腰かけた。


「勉強、どうなんだ」


暫く静かに屋台の灯りを眺めていたが父が口を開いた。


「どうって、普通だよ。どれだけやっても成績は思うように上がらないし、その度に母さんには怒られる」

「中学受験したいか」


僕はその父の問いに言葉が詰まった。


「別に良いんだぞ、したくなくなったらいつでも辞めて。誰も責めないって言うのはないかもしれないけど」

「ううん、僕やるよ」

「そうか」


心地のよい沈黙だった。祭りの音と灯りが僕達を照らしていた。


「僕喉乾いたから、何か買ってくる」

「わかった」


その場から立ち上がって、祭りの喧騒の中へ一人で歩いていく。

僕はずっと気になっていたその屋台へ迷うことなく真っ直ぐに歩いた。


「飲み物下さい」

「はいよ、百三十円ね」


僕は財布から百三十円ぴったりを取り出して屋台のおじちゃんに渡した。


「ん、丁度。こん中から好きなの一本良いよ」


僕はコーラやオレンジジュースのペットボトルには一瞥もくれずにそれに手を伸ばす。


「これにします!」

「ラムネね。まいど」


僕は大事にそれを抱えて、屋台から少し外れた所でもう一度ラムネ瓶を見た。

青い瓶の中に幾つもの気泡が付いている。

僕は早速飲もうと蓋に付いたシールを剥がして玉押しのリングを外してそれを飲み口にセットする。そして、勢いよく押し込んだ。

カシュッと音がなってガラス玉がラムネ瓶の中に落ちた。

僕はそれを見ながら一口ラムネを飲んでみた。


「美味しい」


瓶に入ったラムネを飲んだのは初めてだった。

もう一口。炭酸が弾ける感覚が口から喉へと伝わっていく。

ゆっくりと祭りの雑踏を眺めながらラムネを飲み干し僕はいよいよラムネのプラスチックの飲み口を外すことを試みる。


「んっ」


もっと勢いよく外れるかと思っていたが想像よりも緩く簡単に外れた。

僕はラムネ瓶をそのまま逆さにして中にあるガラス玉を取り出した。その際に瓶の中に少し残っていたラムネが手についた。

僕はラムネ瓶とガラス玉を持って蛇口まで走った。

蛇口を捻って水を出し先ずは手を洗う。

次にラムネ瓶を濯いで、ガラス玉も洗った。

水に濡れたガラス玉を祭りの灯りに照すと淡い青色に輝いていた。


「ねぇ」


突然声をかけられて僕は咄嗟にガラス玉を翳すのをやめ、目の前にいた少女を見た。

年は僕と同じくらいだろうか。僕より少し背丈の低い少女は僕がガラス玉を祭りの灯りに照していた時に見えなくて少しだけ焦った。


「今の綺麗だったね」


今の? ああ、ガラス玉か。

僕は少女の言葉を聞いて、さっきのが見られていたと思うとなぜか恥ずかしくなってきた。

僕は少女の言葉を聞いていない振りをして、もう一度ガラス玉を翳す。今度はガラス玉の向こうには彼女しかいなかった。


「なんで無視するのさ」


歪んだ世界にポツンと一人だけ少女がこちらを見ていた。

それが、僕には見たこともないくらいに綺麗にそして、儚く見えた。


「それ、私にも見せてよ」


少女は僕に手を伸ばした。いや、僕と言うよりガラス玉を持っている僕の右手に。


「え、嫌だよ」

「どうして?」

「どうしてって…」


少女は少しだけで良いからさと言ってもう一度手を伸ばした。

この子は多分頑固なんだろうなと勝手に決めつけて僕は諦めて、ガラス玉を少女に渡した。

ありがとうと跳ねるように喜んで少女は僕がしていたようにガラス玉を灯りに翳した。


「綺麗…」


途中まで僕と同じように祭りの灯りに照らして見ていた少女は急に僕の方を見た。


「あはは、変なの」

「なに、いきなり」

「いや、君の顔凄い歪んでるからさ」


少女の笑い声は鈴のようにこれだけの雑踏でも真っ直ぐに聞こえた。


「彼方ー! 射的やろー!」


遠くの方でそんな声が聞こえた。


「あっ、お姉ちゃんが呼んでるからじゃあね。ガラス玉見せてくれてありがとう」


そう言って少女は僕の手を取って重ねるように右手を置いた。

そうして、僕の掌の中にガラス玉が戻ってきた。

少女は小さく手を振りながら僕の前から一瞬で消えてしまった。僕は祭りの妖精でも見たのかと自分の手の中に残るガラス玉を灯りに翳して見たが、そこには淡く光るガラス玉しかなかった。


父のいる場所に戻ると辺りには人が集まってきていた。始めは穴場のスポットなのかもしれないと思っていたがそうではなかったらしい。

僕は父の隣に座って花火を待った。

暫くしてアナウンスが流れていよいよ花火の打ち上げをやるようだった。


『間もなく花火の打ち上げを始めます。是非皆さんもカウントダウンのご協力お願いします』


そんなアナウンスが流れてカウントダウンが始まった。


『それでは皆様いきますよー! 一! ニ! 三!』


小さな祭りの会場が一つになっていくような感じがした。

僕は黙って湖の水面を見ていた。


『八! 九! 十!』


アナウンスをしていた女の人の声が最後まで流れきった瞬間、轟音と共に水面に花が咲いた。

僕は顔を上げて夜空を見た。

そこには、堂々と夜空に輝く星々の上に大輪の花が咲いていた。

次から次へと花は移り変わっていく。

赤、青、黄。様々な色が夜空の上に広がっては消える。

最後の一輪が咲き終わる頃僕はあの少女の事が頭に浮かんだ。


「どこ行くんだ?」

「ちょっと、トイレ」


僕は駆け出した。もう一度あの場所に行けば少女に会えるような気がした。


「はぁはぁ…っはぁ」

「あれ? 君は、さっきの」

「これ!」


息を整えながら、僕は握りしめていたそれを少女に向けた。


「手、出して」

「え? うん」


差し出された僕より一回り小さい掌にガラス玉を置いた。


「あげる」

「え、良いの?」

「うん」


少しの間、少女は不思議そうに僕とガラス玉を交互に見ていたが掌に乗せられたガラス玉を握ると


「ありがとう」


と、言って微笑んだ。


「私も何かあげたいんだけど…今は何も持ってないから名前教えてあげる! 私は一ノ瀬 彼方」

「僕は―」

「駄目! また何かもらっちゃったらもう私、返せないから。そろそろ帰らなきゃだから。また今度君の名前も教えてよ」


本当に不思議な少女だった。そして、僕も不思議な少年だった。きっと、僕も祭りの妖精だったのだ。

帰りの車の中で父がまた来ようなと言った。

僕はそれに大きく頷いた。


          ※


それから僕は必死に勉強をした。

あの日の夏祭りを何度も辛い時に思い返しながら来年の祭りに行くために必死で。

けど、結果は付いてこなかった。

僕は受験当日まで一度も一番を取ることは出来なかった。

そして、受験も合格することが出来なかった。

母はそんな僕に失望したのか段々と興味をなくしていった。何をするにも母は生返事でまるで僕がいることを認識したくないように見えた。

解らなかった。一体、僕はどこで間違えたのだろうか。あの夏祭り、僕が受験をしたくないと本音を言ってしまえばこの結末は変わったのだろうか。

いや、きっと最後は予め決まっていたんだ。運命なんてものは一つや二つの選択肢では変わらない。だから、最後はきっと変わらなかった。

父と母は次第に喧嘩をするようになった。

僕が地元の中学に進学した後もそれが続いた。

ついに、父は母と口を聞かなくなった。

夏祭りの事などもう覚えてなんていなかった。

その間も僕は、何も何一つ変えられなかった。

中学では目立たないように徹した。

僕が中学受験をすることは小学生の時のクラスメイトは知っていたから、僕が同じ所に通っていたことを知った時落ちたんだと笑われた。

僕はそんな奴らを見返したくて勉強にはいままで以上に取り組んだ。

そうすれば母も、もしかしたらと淡い期待があった。

僕は志望していた進学校に合格した。

周りの奴らは態度を変えて僕を持て囃した。

母にその事を報告したが、母は短く


「あっそう」


と言って僕には一瞥もくれなかった。

冷めきっていた。過去に、戻れるなら戻りたかった。

高校でも僕は友達を作る気にはなれなかった。

入学してから一週間僕は中学の時のように教室の隅で縮こまるように過ごしていた。


「なあ、周って何が好きなの?」


昼休み、何の突拍子もなく僕の名前が呼ばれた。

僕が顔を上げるとそこには坊主頭があった。

そいつは見るからに僕とは真反対の存在だった。周りから、人当たりの良さそうなオーラが漂っている。

僕はため息を吐きながら。


「特に何も」


と愛想悪く返した。

どうせ、罰ゲームか何かで僕に話し掛けろとでも言われたのだろう。そんなものに付き合う必要はない。

でも、そいつは僕が嫌そうな顔をしてもどこにも行かなかった。寧ろ、更に押してきた。


「一緒に飯食おうぜ!」

「はぁ…」

「良い?」

「別に良いけど…」

「おっしゃ!」


そいつが近くから椅子を持ってきた時僕はそいつの名前を思い出した。

近藤 涼真。初日の自己紹介の時からテンションが高く、こいつ絶対周りから煙たがられるなと思っていた奴だ。

僕の予想通り近藤はとても、面倒なやつだった。

事あるごとに僕のところに来てどうでも良い話をする。昼休みは毎日僕の隣に座って飯を食う。そんな日々が続くにつれ僕は何故か心を許していった。

近藤と話している時だけ嫌な事を忘れられた。

少しだけ、毎日が楽しく思えた。

現実は何も解決していない。それでも楽しかった。

だから、君と出会うまでは忘れていた。


「運命は変わらない」


そう言う君はあの時の、中学の時の僕と同じ目をしていた。

本当は叫びたい、自分はここにいると。見つけてくれと、叫びたい。

気が付けば僕の体も宙を舞っていた。

お人好し。

僕は馬鹿だ。大馬鹿者だ。何の取り柄もないくせに。自分の運命を呪って変えることすら諦めてしまったと言うのに。

今さら――

地面が近くなっていく。

落ちる君を包むように手を回したその瞬間。

僕は地面に、落ちた。

ここまで読んで下さり感謝します。

感想やブックマーク、評価してくれると飛んで喜びます。

残り2話で『ガラス玉の向こうに君がいて』は完結します!

是非最後まで見届けてください!

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