29話 交渉のテーブル
左手の薬指から外した指輪を、メィシーは、手のひらに乗せてしばらく見つめていた。
――なにを今さら、ためらっているんだ。もう、彼女に向ける顔なんてない。はじめから、こうするつもりだったろう。
彼は思う。いっそのこと、自分の甘い言葉も微笑みも彼女に全く効かなくて、この地に連れてくる時点で洗脳魔法を使わざるを得ない状況だったらよかったのに。そうすれば、当初の予定通り、試練が終わった後の彼女なんてどうでもよかったはずだ。
「ああ……くだらない感傷だな」
指輪を川のせせらぎの中に落とすと、彼は森の奥へ足を向けた。
◆
浅い洞穴の中で膝を抱えて、メィシーは空の色が移り変わるのを眺めていた。
――あれから三日か……。里長の仕事は、誰でも肩代わりできるようにしているけれど……雲行きも怪しくなってきたし、そろそろ戻るか。リセナもさすがに、諦めただろうし。
だなんて考えていた矢先、降り出した雨粒はみるみるうちに勢いを増し、豪雨となった。
冷たい雨だ。体の芯から冷えて、震えそうなほど。
「……もう少し、隠れておくか――」
「わぁっ!?」
洞穴の上から、足を滑らせたリセナが降ってきた。
「――!?」
突っ伏しそうな勢いで、とっさに彼女を受け止める。すぐに「リセナ!?」と叫んだレオンと、無言のグレイも飛び降りて来た。
「きみ、たち――」
メィシーが、リセナを雨の当たらない所に降ろしながら、三人の顔を見回す。
「もしかして、しらみ潰しに捜し回ったのかい……?」
そして、洞穴の壁際まで後退する。いつもの笑顔は、貼り付けていなかった。
「でも、僕を連れて行くことはできないよ。約束通り、彼女には、かすり傷ひとつ残さずに帰したはずだ」
睨んでくるレオンとグレイを見据えて、メィシーは腰を下ろす。すると、視界にリセナが割り込んできた。
「メィシーさん。私は、まだ、あなたに用があるんです」
彼女はもう、泣いてはいなかった。まっすぐな、意志の強い瞳だ。
「クリスタルの採掘について、聞いてくれるんですよね? 交易や、知識、技術の交換もしてくれるんですよね? あなたが、里長として、責任を持って、みんなに話をつけてくれるんですよね?」
呆気に取られていたメィシーは、自嘲的な笑みを浮かべる。
「驚いたな……あなたは、まだ、僕を信頼できるんですか? あんなに酷いことをしたのに。あなたの力や、理想だけじゃない……。僕を慕う心さえも、そうなるように仕向けて、利用したんですよ」
今度は、意地の悪い笑み。表情を作るのは得意だった。色んな感情を、微笑みで隠してきたように。
「あなたは、本当に、思い通りに動いてくれました。最後に、この手を取ってくれなかったことを除いては。――まあ、それも想定していたから、洗脳魔法なんてものを仕込んでおいたのだけれど」
完璧に突き離したつもりなのに、彼女は、一歩も引かなかった。
「言いたいことは、それで全部ですか? それがどんな意図でも、どれだけ気まずくても、私と話をしてもらいます」
彼女は、メィシーの前に片膝をつくと、彼の左手を取った。
「はじめの質問に答えましょう。一度失った信頼は、二度と戻らないと思ってください。大事な約束をする時は、契約書を書かせます。私たちは、エルフの里長と、商人の娘として、話をするんです」
彼女の手には、メィシーが捨てた指輪が握られていた。リセナは、それをつまむと、迷わず彼の薬指に通す。
「あなたの笑顔が偽りでも、その理想が本物である限り、私はあなたと手を取り合いたい。――受け取ってくれますか?」
「っ……」
彼女の紺碧の瞳と、自分の銀の指輪を見つめるメィシー。彼が口をつぐんでいるわずかな時間が、リセナにはひどく長く感じられた。
自分から彼に言えるのは、これだけだ。利用した相手の顔なんて見たくないと言われたら、それで終わってしまう。彼から申し出れば、協力する人間なんて他にいくらでもいるだろう。
彼は、リセナが魔力増幅を持っていたから接触しただけ。二人の関係は、はじめから、その程度のものだった。
「…………」
雨風の音ばかりが響いて、痛いほどの沈黙が流れたあと。メィシーはまだ、なにか言おうとしたけれど、ついに観念した様子で右の手を指輪に重ねた。
「そんなの、どうやって断ればいいんですか……?」
困り果てて、自分の両手を胸に抱く。彼女から離れて忘れてもらうことが、せめてもの贖罪だったのに、それすらも許されない。
いや――自ら離れた交渉のテーブルへ再び引きずり出されたこの結末に、彼は自分でも意外なほど安堵していた。簡単に拒否することができるはずなのに、彼女と手を取り合いたいという感情に抗えない。
――ああ、ずっと引き留める側だったから知らなかった。父様が百年待ってくれたのも、こんな気持ちになったからなのかな。
自分にとって大切な存在が、必死に繋ぎ止めようとしてくれているだけで、こんなにも簡単に決意が揺らいでしまう。
そう考えると、彼は認めざるを得なかった。どんな理由であろうとも、ここまでして追いすがってくれる彼女のことを、自分は好ましく思っている――。
リセナはその違いに気付かなかったけれど。はじめは作りものだった彼の優しい微笑みが、今はもう、紛れもない真実のものとなって彼女に向けられていた。




