23話 声
空中でグレイが真っ先にとった行動は、リセナを引き寄せ、かばうように腕の中に収めることだった。
落下地点にあった大木の枝を折りながら、速度と衝撃が削がれていく。地面に落ちた時には、なんとか、意識が飛ばない程度のダメージで済んでいた。
リセナを抱えて仰向けになったまま、グレイが彼女の背を軽く叩く。
「おい、無事か」
「……は、はい……」
リセナが答えると、彼は、平坦ながらも不機嫌なのだろうとわかる声で言った。
「お前……支えきれないことくらい、わかるだろう」
「……はい……。ごめんなさい、つい……」
彼女がグレイの上からどこうとすると、先に首根っこをつかまれて放り投げられた。
「うわ!?」
地面に転がった彼女の上で、大きな植物のツルが斬り裂かれる。次は、中央に鋭いキバが生えた花弁。自立歩行するために発達した根。それでようやく、リセナは、自分たちが食人花と呼ばれる魔物のすみかに落ちたことを理解した。
襲い来る食人花の群れを、グレイが次から次へと斬り捨てていく。たとえ手負いであっても、彼にとっては苦戦する相手ではなかった。
しかし――彼は、人を守りながら戦うことに、慣れていない。
食人花最後の一体は、リセナの背後に迫っていた。
花弁に開いた口から毒液が吐き出される。もう一刻の猶予もなかった。瞬時に駆けつけたグレイは彼女を自分の後ろへ引き下げ、自らの体を盾にする。
ほぼ同時に、食人花の頭部を斬り落とす。――辺りに、動くものはいなくなっていた。
毒液が傷口にかかっているのにも構わず、グレイは指笛で亜空間から黒馬を呼ぶ。
「早く森を抜けるぞ」
「でも、それ、解毒をしないといけないんじゃ……」
「解毒魔法なんて、俺は知らん」
ぶっきらぼうに言って、彼はリセナを馬上へ引き上げた。
周辺の木々は全て背が高く、馬を走らせるのに支障はなかった。しかし、それでも解毒薬が手に入るような場所までは時間がかかるだろう。
リセナは、手綱を握るグレイの手におそるおそる触れた。
「魔力増幅を使います。せめて、止血だけでも……」
彼から流れ込んでくる闇の魔力には、たしかに負の感情が紛れているけれど、冷静に向き合ってみるとそれは凪いだ海のようだった。深くて、大きくて、静か。今だって、昔馴染みを喪った怒りも悲しみも、鈍く横たわっているだけだ。
彼は、この現状を受け入れているらしかった。
しばらくすると、駆けていた馬が速度を落とし始めた。ひづめの音が小さくなって、代わりに、グレイの呼吸がわずかに乱れているのが耳につく。
魔力による止血――身体強化の流用、筋肉の膨張による血管圧迫は完全に成功していたが、大型の魔物にさえも効く猛毒が全身に回りかけていた。
グレイが再び馬を走らせようと指示を出すが、このままでは主人を振り落とすことになるとわかっているのか、黒馬は歩みを止めて彼を見つめた。
「……少し休む」
観念した様子で、彼は木の根元に腰を下ろす。鎧を解いたのは、そこに使われた魔力まで回さなければ対応できないほど毒の効力が強いのだろう。
リセナも、そのそばに膝をついた。
――もう、グレイの生命力を信じるしかないの……? あの高速回復薬も、毒に効くとは思えないし……。
沈痛な面持ちの彼女に、グレイは、温かくも冷たくもない声で言った。
「おい。夕刻までに俺が起きなかったら、捨てて行け」
「……え?」
グレイは、彼女の戸惑いなど気に留めない。
「夜は魔物が活発になる。その馬は賢い、お前でも操れる」
「そんな……! あなたはどうするんですか? 私をかばって、こんなことになってるのに……」
「……この傷を負ったのも、毒を受けたのも、俺が判断を誤ったからだ。間違えたやつから死んでいくのは、自然の道理だ」
彼の声が、次第に小さくなっていく。
「それと、夕刻前に魔物が現れても、一人で逃げ……」
「グレイさん……! じゃあ、復讐はどうするんですか。あなた、魔王を倒すって――」
「俺でなくても、魔王は倒せる。お前の力さえあれば」
彼は、それを最後に、目を閉じて静かになった。
「……グレイ……?」
呼びかけても反応はない。ぞっとして彼の首に手を当てると、脈はあった。
――眠ってるだけ……。でも、体温が異常に高い。このままじゃ……。
地面に両手をついて、リセナがうつむく。彼女は、しばらく押し黙ったあと――ぶつぶつと、つぶやき始めた。
「解毒薬……食人花に対応する製品……成分表……原材料……」
商会で扱いのある膨大な製品情報から、記憶を掘り起こす。
「――大丈夫、全部わかる」
◆
口がきけないわけではなかった。
言葉は理解している。しゃべる必要がないから、しゃべらなかった。ほしいものはあるか、してほしいことはあるかと聞かれても、特に思いつかない。それだけだった。大抵のことは、うなずくか首を横に振れば解決する。
それでも両親は、五歳になってもしゃべらないグレイのことを、これでもかと心配していた。ある日、王都の有名な医者に見せに行くだなんて言い始めるものだから、なんだったか適当にしゃべってやると、二人は泣いて喜んでいた。
優しい両親だった、と、彼は思う。
いつだったか、風邪をこじらせて高熱で寝込んでいた時、両親が交代で付きっきりの看病をしてくれた。不安な時は、二人して手を握って、優しく名前を呼んでくれた。
「グレイ」
いつからだろう。二人がどんな声をしていたか、上手く思い出せなくなったのは。
◆
「グレイ」
彼が目を覚ますと、夜明け直後の空を背景に、リセナが自分の顔をのぞき込んでいるのが見えた。いつの間にか彼女のローブを枕に横たえられていて、なぜか手まで握られている。
「……!」
起き上がって辺りを見回すと、魔物はおらず、特に荒れた様子もなく、無事に一晩過ごすことができたのだとわかった。
「……お前、夜は危険だと――」
彼女の手を振り払い、開口一番に出たのは、抗議の言葉だった。それから、自分の傷口に薬草が貼られていることに気付く。
リセナにも、怒られる準備はできていた。反論することもなく、グレイの体調を確認する。
「ごめんなさい……あの、具合はどうですか? 手に入らなかった材料もあるので、気休め程度ですが、解毒薬と同じものを……」
「……問題ない。おい、話をそらすな。今は、俺より、魔力増幅を――お前の安全を、優先するべきで……」
声は静かなのに、明らかに怒っている彼を直視するのはさすがに怖くて、リセナは視線を落とす。薬草の採取で傷だらけになった手を、握りしめる。
けれど、それから、彼は何も言わなくなった。やがてグレイは、リセナの手を取ってじっと見つめると――おもむろに、彼女を引き寄せる。
最初、彼女には、なにが起こっているのか理解できなかった。グレイから、それなりに強い力で、抱きしめられている。
「っ……痛い、です……」
彼は黙って、腕の力を緩める。戸惑っているような吐息だけが聞こえた。
なにも言わない彼に、彼女は尋ねてみる。
「どう、したんですか……?」
「…………」
また長らく沈黙して、答えるつもりがないのかと思うくらいの時間が経ったとき、彼はようやく口を開いた。どことなく、途方に暮れた迷子のような声だった。
「……少し、昔を思い出した。それだけだ。……それだけ、なんだ」
グレイが体勢を変える様子はない。抱きすくめられて為す術もなく、かける言葉も見つからない。
リセナは、残されたわずかな自由で、彼の大きな背中をさすった。固く引き締まった鋼のような肉体は、それでもたしかに温かい。
言葉のない長い抱擁からは、彼自身にも理解が追いつかないほど胸の奥底に残された、ひとつの感情がにじんでいた。
遠い昔に置き去りにしてきた、他の誰かと寄り添いたいと思う気持ち。
それを、戸惑いの中で分かち合いながら――しばらく、二人は、ただそうやって過ごしていた。




