16話 負の感情
グレイが部屋を出て行ってから、しばらく、廊下でなにか話し声がしているのをリセナは心細い思いで聞いていた。
――あんなに警戒したの、気にさわったかな……。
うつむいたそばから、グレイがドアを乱暴に開けて入ってくる。
「……!?」
顔をしかめたまま、ずんずんと無言で近付いてくる大男は、どうあっても怖い。
「え、あっ――」
身を縮み上がらせた彼女を――グレイは、触れるかどうかくらいの、本当に弱い力で抱きしめた。
加減がわからないのだろうか、時おり指先に力が入ったかと思えば、すぐに指を浮かせる。肩越しにあるグレイの顔は見えなかったけれど、先程からずっと、彼は戸惑っているのかもしれない。
リセナからも、彼の大きな背中に手を回す。
「グレイさん。ありがとうございます、私のことを考えてくれて。ごめんなさい、話もせずに逃げてしまって」
彼はしばらく何事か考えていたが、リセナの肩をつかんで身を離すと大真面目な顔で言った。
「お前、実戦だったら死んでいたぞ。退避する時に余計なことを考えるな」
「……え、あ、はい……」
戦闘上の指導が入るとは思っていなくて、リセナは面食らう。
彼の話はそれだけに留まらなかった。
「そういえば、お前、闇の魔力に耐性がなさそうだったな。魔王と対峙するのなら、嫌でもくらうことになるぞ。まともに戦えるのか?」
グレイの魔力を受け取っただけでも悪寒が走ったのだ。負の感情を内包する闇の魔力には耐えがたいものがある。
しかし、あのとき流れ込んできた、苦痛や恐怖、怒りや悲しみといった感情は一体誰のものだったのか。
――あれが、グレイや、彼が見てきた人のものだとしたら。もし、次に身近で争いが起こったら……。
「……なんとかします。耐えられるように、なってみせます」
彼女の眼差しに、恐怖が混ざっていないわけではなかった。
グレイは言葉を選ぶこともなく尋ねる。
「お前は、利用されているだけだとわかった上で、そう言っているのか?」
「……考えたんです。もし、魔王が侵攻を再開して、私の家族が被害にあったら――。もし、魔王が、私の大切な人を苦しめるというのなら」
自分の両手の平を見つめた彼女は、強く強く拳をにぎりしめた。
「許せない……。そんなの、早い内に、潰しておかないと駄目じゃないですか」
優しさと呼ぶには激しく鋭い感情を見せられたグレイは、笑ったのだか、ため息をついたのだかわからない調子で言った。
「お前は暴走しそうだな。今のうちに俺で慣れておけ」
彼はリセナの右手をつかむと、自分の胸に当てた。
「わかりました……私が自分でやめるまで、魔力を流し続けてください」
グレイは意気込む彼女の背を支えてから、落ち着いた声音でささやく。
「いいか、余計なことは考えるな。なにか聞こえても、お前には全て関係のないことだ。おかしいと思った時点でやめろ、気が狂うぞ」
小さく返事をして、リセナは目を閉じ、彼の魔力の受け入れを開始した。
はじめに感じたのは、痛みだった。自分の痛覚ではない。誰かが感じた痛みの記憶が、魔力の中に混ざっている。――おそらく、その大部分は、幼き日のグレイのものだろう。
『痛い』『苦しい』『怖い』『殺さないで』
武器を向けられる者の感情を、リセナも今までに何度か考えたことはある。その度に、自分にはどうしようもないと、考えないようにしてきた。
――わかってた。武器を売り渡すのだから、奪うために使われるのも当たり前のことだった。人間は、守るためだけに、武器を使ってはくれない。
余計なことは考えるなと言われた。しかし、これは本当に、自分には関係のないことか?
「っ……」
リセナが歯を食いしばる。
――悔しい。どうすることも出来ないのが。こんなに悲しいことを、仕方ないと言うしかないのが。
固く閉じたまぶたから、涙がにじみ出る。グレイは静かに、彼女の背中をさすっていた。
――誰が彼を傷付けたの? 誰がそれを指示したの? いったい誰が悪いの? ……私たち、みんなだ。奪って、傷付けて、それを仕方ないと笑って、いつまでも手を取り合えない人間全部だ。
『許せない』
そんな感情が新たに湧き出て、グレイへ返す魔力に混ざる。
「おい」少し強めに背中を叩かれた。「お前までこっちに来るな。人の話を聞かないやつだな」
ハッとして、息を切らしながら見上げると、彼は声こそ荒らげないものの手厳しいままだった。
「お前みたいなやつが、魔王に利用されて人類を滅ぼすんだ。守りたいものがあるんだろう、しっかりしろ」
たしかに、気は立っていた。しかし、だからこそ、まるで見当違いの注意をされたような気持ちになって、彼女はあからさまに眉を寄せた。
「私は、優しい人だってたくさん知ってます。自分の気持ちと折り合いを付けて、他人の意思まで尊重しようとする人も知ってます」
誰のことだかわかっていなさそうなグレイの胸に、人差し指を突きつける。
「私は信じています。人類はまだ、これから、いくらでも変わることができる。私が許せないのは、現状です。早く進歩させたいと、怒っているだけなんです」
それでも、やはり、一度誘発された感情は収まらなかった。怒りの矛先が、あらゆる方向へむかう。
「たしかに、ろくでもない人間もたくさんいるけど!」と言いながら、真っ先に王太子の顔が頭に浮かんだ。
一瞬呆気にとられて、彼は悪くないと否定しようとした。彼は、婚約者である自分を寝室に呼んで、口づけをしただけ。悪いのはそれを受け入れられなかった自分で、怒って婚約破棄されたのも、話を聞いてもらえなかったのも、全て自分が悪い――。
けれど、もう、そうやって言い聞かせるのも限界だった。
「……私、王太子殿下も嫌いです。あの人、学園で見かけただけの私を、婚約者にするだなんて言うんですよ。言葉にしなかった私も悪いけど……あんなの、断れない」
うつむいて、ぼそぼそと恨み言を吐く。
「あの夜も、わざと拒んだわけじゃないんだから、一度くらいチャンスをくれてもよかったのに。不敬罪にされなかっただけマシなのかな……。私、閨事以外は、彼に寄り添ってたつもりだったのに……」
彼はいつだって、自分が信じている愛の形を当てはめてくるだけだった。彼女はいつだって、それを喜ぶ振りをした。いつか、本当に喜べるようになる日を願いながら。
「許してくれたら、まだ、好きになれたかもしれないのに……。私のこと、そんなに簡単に、嫌いになったのかな」
差し出されていた愛は、もう、取り返しがつかないほど粉々に砕けてしまった。彼とは、それで終わり。他に、彼女に残っているものといえば――
「――ところで、レオ、私が城に連れて行かれるのを普通に見送ってたんですけど、どう思います? 離れたくないの、私だけだったのかな……」
一体なにを聞かされているんだ。そんな顔をしていたグレイだったが、ため息をつくと、彼女の頭をわしわしと雑になでた。
「もう、今日はやめるか?」
「……いえ。あなたは、私なんかより、ずっと大きな感情を抱えているでしょう。それ、全部渡してください」
彼が強い理由が、なんとなくリセナにもわかった気がした。鍛錬や才能だけではない。負の感情は、良くも悪くも、強烈な原動力になる。魔力を回し、手足を動かし、全てをぶつける力。
魔力増幅を上手く彼に使うことができたなら、もしかすると、魔王に挑むことも蛮勇ではなくなるかもしれない。
彼はしばらく黙ってから「もう何にも耳を貸すなよ」と言う。
彼女は少し考えてから「私が泣いたら、なぐさめてください」と言う。
最後に、彼はもう一度ため息をついた。
「……はあ。考えておく」