果(は)てのない凪(なぎ)
「私の遺骨箱は、花柄で包んでほしいな」
先生が二人きりの時、そう呟いた。以下は中学生時代の、私の回想録みたいなものだ。
私は美術部で、顧問の先生に恋をした。綺麗な女性で、同性を好きになったのは初めてで。危うい瞬間もあったけど、卒業まで互いにプラトニックな関係を続けた。
「どうして、そんなに絵が上手いんですか?」
先生の家へ遊びに行って二人きりの時、飾られていた作品を見ながら私は尋ねた。今でも私の、絵の技術は中学生時代に先生から学んだことが大半で、全てと言ってもいい。そして私は、先生のレベルで描けるとは当時も今も思えなかった。
「専念できれば、誰でも上手くなるわ。例えば無人島で、ずっと絵だけ描き続ければね」
冗談かと思ったけど、昏い表情で先生は続けた。
「変化がない生活で、ずっと絵を描き続けただけよ、私。カミングアウトもできず、結婚退職もできない。好きな人と手をつなぐことも交際もできない。凪みたいなものね。何も変わらない、見た目だけは穏やかな海。そんな生き方だっただけ」
「……芸術には孤独が必要ということですか」
「いいえ、違うわ」
真剣な顔で、先生が私の言葉を否定する。そして続けた。
「人間なんだもの、人生には変化があって当然よ。結婚に限らず、将来は親の介護だってあるわ。状況に適応して、流れを受け入れるの。その上で芸術を嗜みなさい。私みたいになっちゃダメよ。独りで、絵を描くことに寄りかかって生きては駄目なの」
もし先生が絵を描けなくなったら、どうしますか? そう尋ねた。
「その時は死ぬでしょうね、私」
そう言われた。遺骨箱の話は、この時に出てきたと思う。
私が中学を卒業した後、ややあって先生は亡くなった。死因は明かされず、タイミングが合わなくて葬儀にも私は行けなかった。きっと先生なら、『来ないで』と私に望んだ気がする。
今、彼女と手をつないでデートしながら、『私には変化があったよ、先生』と胸中で私は呟いた。