薬師と猟師と秘密の話
やぁ。僕の名前はセリ。辺境の村に住む見習い薬師だよ。
え? 薬師とは何かって? そりゃあ読んで字の如く薬を作る人だよ。
例えば森に生える血止めの薬草を使って傷薬を作るだとか、ハーブを煎じて薬草茶を作るだとか、あと、経験を積むと産婆さんみたいにお産の手伝いに行ったりもする。
医者の持つ医療技術に比べると、より土着的な、昔ながらの治療法を扱っているよ。
何せ医者の薬は高価だし、こんな辺境の小さな村じゃあそもそも医者なんていないからね。病気も怪我もとりあえず村に一人はいる薬師に診せに行くのさ。
人だけじゃなくて、山羊とか牛とか家畜の診察もするから、仕事にだけは事欠かない。つまり食いっぱぐれない。それって素晴らしいと思わないか?
それで、この村の薬師に弟子入りして次代の薬師を目指しているって訳。
僕はね、思うんだよ。
働くことを考えたら、手に職系がやっぱり強いなって。
「セリ? 何をぼんやりしてるんだ」
「ん? あ、ごめん。ちょっと考え事してたんだ」
「そんなんじゃ薬草を見間違えるぞ」
はぁ、と目の前で溜め息を吐かれ、思わず肩を竦める。
僕を呆れ顔で見ている彼女の名前はエリ。猟師だ。
森で薬草を採取している時に遭遇した獣から、僕を救ってくれた命の恩人でもある。
あの大きな猪を見た瞬間、正直死を覚悟したものだよ。
結果的にその日の夕食が豪華になって終わったけれど、本当に僕は幸運だったと思う。
あの時の、首の後ろで一つに結った黒髪を靡かせて弓を引くエリはそれはもう勇ましく、竜退治の騎士も霞むくらいかっこよかった。
あと、猪を躊躇なく捌き始める女の子を僕は人生で初めて見た。
僕は横でおっかなびっくりそれを眺めていただけなんだけど、何でも、血抜きやら何やらはスピード勝負で、そこをいかに手早く確実に処理するかで肉の味や毛皮の品質がぐんと変わるらしい。
それはさておき、そんな出会いから僕とエリは友人になり、彼女は仕事の合間にこんな風に薬草採取を手伝ってくれている。
お礼に猟師が重宝する傷薬をあげているから、けして労働力の搾取ではない。
「おい、こっちは終わったぞ。あと何が必要なんだ」
「あとは……オトギリソウかな。そろそろ丘の方で採取出来ると思うんだ」
採取したい薬草リストを確認しながら答えると、そのリストをちらりと見たエリがスッと目を細めた。
その表情にピンと来て僕は唇を尖らせる。
「エリ。今、字が汚いって思っただろ」
「思ったが口にはしてないだろう」
「でも思ったのは事実じゃないか! 読み書き出来るだけで十分だろ」
「ふぅん、お前にしか読めない字に意味があるのか」
「ひどい! ほら、あれだよ、暗号とか」
そこで僕とエリは顔を見合わせて笑った。
こんなやりとりも僕らの大切な日常だ。
薬師見習いの僕は夜明け前に起きて薬草園の手入れをして、薬の調合について学び、師匠を手伝って患者さんに対応する。
エリはその時に狩りたい獣の活動時間に合わせて生活するから、僕よりもっと不規則だ。
だからこうして一緒に笑える時間は、実は割と貴重だったりする。
エリから山の薬草の場所や、獣の肉を加工する時のコツなんかを教えてもらい、僕は街で仕入れた国内外の話を教えてやる。
僕は師匠の代わりに薬草を手に入れる為、港町の市場まで買い物に行ったりするから山育ちのエリに聞かせてやる話には事欠かなかった。
冬備えの為に干し肉や干し魚を作る時期になれば、猟師の仕事がいつもの倍以上大変になるから、彼女は両親と共に山に篭りっきりになる。
そうしたら彼女とは春まで会えない。
友達に会えないのは寂しいし退屈だけど、春になるまでには僕も立派な薬師になっていたいので、冬の間たくさん勉強しようと思っている。ふふん、一人前になった僕を見て驚くが良い。
「セリ? お前、今日はぼんやりし過ぎだぞ。疲れているのか? もっと肉を食え、肉を」
「肉は高級品なんだよ! エリは猟師だから他の人より肉食べられるかもしれないけどさ」
採取した薬草を籠を背負ってそう言うと、エリは腰に付けた荷物袋から何かを取り出して僕の方へ突き出した。油紙に包まれているそれは、掌ほどの大きさの長方形で、手に取ってみるとずしりと重かった。
「何これ?」
「開けてみろ」
言われるままに包み紙を開けば、茶色い塊が現れた。それを見て僕はハッとした。
「えっ、これって……!」
「鹿の燻製肉だ。美味いぞ」
猟師が作る燻製肉ってめちゃくちゃ美味しくて、しかも希少だから良いお値段がする。それをポンと渡されて僕は驚きつつもわかりやすく喜んでしまった。
「もうしばらくしたらお前にも会えなくなるから、餞別だ」
「何だよ。山に籠るにはまだ早いだろ」
いそいそと貰った燻製肉を荷物袋に納めながらもエリの言葉にはてと首を傾げる。
冬備えにしたって幾ら何でも早すぎると思ったからだ。
まだオトギリソウが採取時期を迎えたばかりで、いつもだったらもう一月先くらいに山に籠る為の支度を開始するのに。
僕の疑問をエリも察したようで、彼女は苦笑しながら肩を竦めた。
「山向こうの国の情勢がな。……おそらく、もうすぐ戦が起こる」
「嘘だろ。あの国って確か……」
「さすがにこちらの国にまで飛び火はしないだろうが、向こうから逃げてくる兵士が略奪に走らないとも限らない。山は危険だ。お前も出来る事なら、しばらくはもっと国の中央に位置する場所へ避難した方が良い」
「そんな事言われても……薬草園だってあるし……村のみんなも……」
エリは一度だけ「そうだな」と泣きそうな顔で笑って、そこからはいつも通りに振る舞った。
僕達はいつも通りに薬草を摘んで、帰りに川で釣りをして、薬草園の手前でまた明日と手を振って別れて、そしてその次の日からエリが村に降りてくる事は一度もなかった。
エリが来なくなってからあっという間に三月が過ぎた。
季節はすっかり冬になり、僕は家の中で本を読んだり調合の練習をしたりして過ごしていた。
「セリ。セリや」
「はい、師匠」
薬草の調合について書かれた本を読んでいた僕は師匠に呼ばれて顔を上げた。
師匠は長い顎髭を蓄えた柔和な顔付きのお爺ちゃんだ。そんな師匠がお茶を淹れたからおいでと僕をテーブルに呼んでいた。
「もうそろそろ約束の期間が終わる。春になったら、お前は一度家に戻って家族に元気な姿を見せておやり」
「……はい」
春。それは僕が薬師見習いとしてこの地で学ぶ事を許された期限だった。
とは言え、一度報告の為に戻るだけで、その後再びこちらに戻るかどうかは僕の判断に委ねられている。
自分の食い扶持は自分で稼ぐのがうちのルールだから、この地で薬師としてやっていきたいと言えば、心配はされるかもしれないが反対はされないだろう。
それよりも、僕の胸の中には一つの不安が頭をもたげていた。
(……春になったらエリはまた顔を見せてくれるだろうか)
またね、と言ったのに突然姿を消した友人の背中が脳裏を過ぎる。
あんな突然の別れだったから彼女の安否が心配で仕方なかった。
直前に隣国の話も聞いていたから尚更だ。エリから聞いた通り、隣国では王の政に不満を持つ一派が叛乱を起こして王を討ち取ったという。他国との戦争ではなく、内乱が起こったのだ。
隣国の王は玉座に固執し、権力をほしいままにしていた。
だが、いずれその座が子に受け継がれるのだと思うと途端に恐ろしくなり、王位継承権のある子らを全て殺してしまったという話は有名だ。
隣国の叛乱ではその王をはじめ、数多くの貴族も共に粛清されたらしい。
そんな恐ろしい話が山一つ越えただけの場所で繰り広げられていたのだ。
その境界となる山で生きるエリに何かあったらと考えたら、それだけで不安と心配で胸がジリジリと焦がされるようだった。
考え事の間に温くなってしまった薬草茶で喉を潤し、今夜は早目に寝ようかと思案したその時。
外から激しくドアが打ち鳴らされた。
「誰だろう? 急患かな」
その内、木っ端微塵に砕けてしまいそうなほど、ドンドンと激しく叩かれるドアに内側からすぐ行きますと声を張り上げる。
こんな夜更けに、しかもこんなに吹雪いているのに、一体誰だろう。
すぐに外に出られるように外套を羽織りドアを開ける。
ビュ、と吹き込んだ雪風に暖炉の炎がゆらりと大きく揺れた。
「……んん?」
そしてドアの外に見えた光景に、僕は目を丸くして半歩下がった。
「な、何ですか、これ」
そこに居たのは、こんな辺境の村には不釣り合いとしか言いようのない豪奢な馬車だった。
黒く艶のある馬車には金と宝石で装飾が施され、馬車を引く馬も大きくて立派な黒馬だった。あれはきっと軍馬だ。こんな立派な馬車、王都でだってそうそうお目に掛かれない。
何でこんな場所にと目を白黒させていると、護衛だろうか、立派な鎧を身に付けた騎士の手を借りながら馬車から誰かが降りてくるのが見えた。
「──セリ」
「え」
馬車から降りてきたのは、白い毛皮のマントを羽織り、頭上に冠を戴く黒髪の女性だった。
彼女は、結わずに流した黒髪を風に遊ばせながら、いつか見た泣きそうな顔で小さく笑った。
「……エリ?」
どうして、という言葉は唇を微かに動かしただけで音にはならなかった。
けれどエリは僕の言いたい事を察して小さく頷いて口を開いた。
「私の本当の名はカメリア。カメリア・ルトラーラ・スラウゼン。スラウゼン王家の血統を継ぐ最後の人間だ」
「スラウゼン、王家……」
エリ、いやカメリアの口からもたらされたのは隣国の王家の名だった。
「つまり君は……君が、あの叛乱の……」
隣国の王は叛乱によって討ち取られた。
討ち取ったのは生き残った彼の王の子だったという。まさかそれがカメリアだなんて。
「猟師じゃ、なかったんだね」
「あぁ。つい最近、女王となったよ。……兄上や姉上が皆父の手に掛かり、乳母の手によって一人逃がされた私は、僅かな護衛と共に何年も山に身を潜めていたんだ。その間、猟師として生計を立てていたのは本当だぞ」
そこで彼女は困ったように眉尻を下げて言った。
「突然押し掛けてすまない。どうしても、どうしてもセリに会って、ちゃんとお別れを言いたかった」
言いながら彼女は何かを僕に差し出した。
よくよく見てみればそれは僕が『エリ』にあげた傷薬の軟膏の容器だった。
中身は空のようだったけれど、僕があげたものを女王となった彼女が大切に持っていてくれたのが嬉しくて、でも中身が空なのはきっと傷薬を沢山使うような事があったからだろうと思うと悲しくて、僕は何も言う事が出来ずただその手元を見つめていた。
「私はもう此処へ来ることは出来ないだろう。今夜もこちらの王へ挨拶の為に移動する途中で寄ったのだ」
「そっか。女王様になったんだものな。これから大変だ」
「そうだな。きっと大変だ。でも民の為に私はやれるところまでやってみようと思う」
「エリらしいなぁ」
一緒に野山で薬草を採取していた友達が突然女王になって会いにくるだなんて、こんな事、きっと世界中でも体験した人は少ないだろうな。
エリは、カメリアはこれから国を背負って立つ身なんだ。
ならば僕も精一杯の誠意を見せよう。
「……セリ?」
エリの目の前で胸に手を当て、ゆっくりと膝を折る。
僕も元は当主となるべく教育を受けた身だ。宮廷式挨拶くらいは目を瞑っていても出来る。
「私、セレスタン・レインバードはカメリア女王陛下が輝かしい御代を治められる事を心よりお祈り申し上げます」
「セリ……。え? セレ……スタン……?」
「えぇと、僕、実は薬学について学ぶ為に留学している伯爵家の次男で……」
「お、お前、ただの字が汚い見習い薬師じゃなかったのか……」
ふるふると唇を振るわせるカメリア女王に、僕はついいつもの調子で唇を尖らせた。
「母国語はもっと流暢に書けるし言えるさ! こっちの綴り、まだちょっと慣れないんだよ」
「留学、と言っていたな。一体何処から」
「海の向こう」
母国の名を告げると、カメリア女王は更に驚いた顔をした。
そしてガシリと僕の両肩を掴むと、そのまま無言で思い切り前後に揺らし始める。
「え、うわ、何」
ガックンガックン揺らされて目を回しそうになった頃、ようやくカメリアは僕を揺らすのをやめて、その場で僕を思い切り抱きしめた。慌てたのは僕の方だ。
「ちょっと! 君、女王になったんだろう? そういうのは慎まないと、っていうかエリの頃だってそんな事しなかったのに突然何だよ!」
「そうか! お前は貴族か! よし、覚えていろよ、セリ。いやセレスタン。次に会うまで婚約者など作らずにいるんだぞ」
「え? ええ?」
エリが実は潜伏中の王女であり父を倒して女王となった事以外、全く何も説明しないまま、カメリア女王は雪の舞う中を颯爽と毛皮のマントを翻して馬車へと戻っていった。
軍馬が引いているだけあって動き出した馬車が見えなくなるまであっという間だった。
「……一体今のは何だったんだろう」
お別れを言いにきたと言ったはずなのに、最後は次に会うまでとはこれ如何に。
カメリア女王という嵐のあとに残されたのは外に居たことですっかり身体を冷やした僕だけで、エリの正体を知っていたらしい師匠は我関せずとばかりに家の中でのんびり薬草茶を飲んでいたのだった。
──そして、季節は巡り春が来た。
『……そんな訳で、スラウゼン国の女王となったカメリアから王配にって請われているんだ。今はちょっとだけ簡単な仕事を手伝ってるところ。このまま王配になろうと思ったら国王への結婚許可申請やら貴族院への報告やらで忙しいだろう? 国内の情勢がもう少し落ち着いたら、カメリアと一緒に今後の相談の為に家に戻るよ。その頃にまた連絡します。次は勿論正式な書面でね。
セレスタン・レインバードよりレインバード伯爵家当主、ベルナール・レインバード殿へ』
「……あ、あ、あいつは一体何をやっているんだ⁉︎」
途中からぶるぶると震えながら手紙を読んでいたレインバード伯爵は、色んな感情が溢れて容量を超えたところでぐしゃりと音を立てて手の中で手紙を潰してしまった。
それをサッと妻が取り上げ、机の上で丁寧に皺を伸ばす。
「旦那様、どうか落ち着かれませ」
「留学に行ったはずの弟が他国の王家の王配候補になるだなんて、そんな、落ち着いていられるかい。うちは序列はトップだが伯爵家なのに……」
「……ではせめて深呼吸を」
淡々とした声音と表情で諌められ、伯爵は妻の進言通りその場でゆっくり深呼吸をして長椅子に座り直す。その隣に腰を下ろした妻は、皺を伸ばした手紙を眺めて言った。
「それにしても、留学先で王女殿下、いえ、今は女王陛下であらせられますか。その方に見初められるとは、流石ベルナール様の弟君ですわね」
「隠居した元王宮医師のところで勉強するというから安心していたのに……。うぅ、セレスは昔から妙なところで思いもしないような行動力を見せる奴だったが、まさかこんな……」
突然完全に外交に関わる問題に巻き込まれ、伯爵は己で対処ができるだろうかと微かな胃痛を覚えた。いざとなったら前伯爵である父を呼び戻して知恵とコネを借りる必要がある。
妻であるウルスラも事の重大さは理解しているらしく、いつも通りの無表情のまま、全て承知したとこっくり頷いた。
「ホットミルクをお作りしますわ。蜂蜜をたっぷり入れてお持ち致します」
妻としてまず出来る事は夫の胃を守ること。というか今はそれくらいしか出来ない。
こんな時にも取り乱さず涼しい表情の妻を頼もしく思いながら、レインバード伯爵はこの先訪れるであろう難題に大きな溜め息を吐いたのだった。
一方その頃。
「ふぅん、セリは飲み込みが早いな。うちの文官も驚いていたぞ」
「元々勉強とか学ぶ事が好きだし、数字読むのも得意だからね」
「素晴らしいな。私の王配にならないか」
「もうちょっと考えさせて」
「チッ」
「女王様が舌打ちなんてするもんじゃないよ」
「獲物を仕留められなかった時はつい舌打ちしてしまうんだ。許せ」
ようやく政が軌道に乗り始めたスラウゼン王国の王宮内、女王の執務室で、セレスタンとカメリアは、共に薬草を摘んでいた頃と同じように和気藹々と書類整理に取り掛かっていた。
──この後、セレスタン・レインバードは正式な許可を得て、スラウゼン女王カメリアの王配として共に国を治めていく事となる。
セレスタンは薬草の栽培と調合レシピの普及に努め、国内のみならず母国との外交でもその手腕を発揮して長く両国の友好関係に貢献した。
二人は終生仲睦まじく、王配の手により作られた薬草園を歩く姿が度々見掛けられたという。
そんな二人が元は見習い薬師と猟師として出会った事を知る者は少ない。