大切なものなど、なにひとつ (1)
大切なものなど、なにひとつ胸に抱いてはいけない。
アルフレッドがそう決意するのに、彼が生を受けて、さほど時間を必要としなかった。
この国の第一王子としてアルフレッドに与えられる、際限のない富や栄光。約束された地位。
だが、温かな情愛も労りも、人肌も、なにもかもあらゆるものが虚飾に塗れている。
アルフレッドと母を同じくする弟王子ユーフラテスには、最愛の婚約者がいた。
彼はあまりに不器用で、婚約者相手にいつも空回ってばかりだ。
ある日、かの婚約者の令嬢が未来視なる能力を開花させたと、アルフレッドの最も信の置く側近候補から、報告があがった。
それは令嬢の兄、ヒューバート・キャンベルからの一報。
「アル。我が妹ネモフィラが、キャンベル家の魔女の血を発現させたかもしれません。片鱗を見せましたよ」
「興味深いな。それで、それはどういった? 先の騒ぎに、もちろん関わりがあるんだよね?」
ヒューバート・キャンベルの妹、ネモフィラ。
アルフレッドの弟である第二王子ユーフラテスの婚約者。
彼女はひと月ほど前、王宮での茶会でとんでもない騒動を巻き起こしてくれた。
おかげで王家は、大貴族達の反発、その対応に大忙しだ。
アルフレッドとしては、無能で有害な令嬢など、辺境伯領で静養してくれればいいと思った。
キャンベル辺境伯家との縁は惜しいものがあるが、婚姻によって縁を結ばずとも、アルフレッドにはヒューバートがいる。
そしてまた、ネモフィラの令嬢としての資質の低さについては、騒動以前から聞き及んでいた。それはネモフィラの兄ヒューバートからも、もちろん。
あまりに怠惰で無気力で無能で、意思も意志も何もないお人形。
それだけならば操り人形として最適だ。幸いにも弟ユーフラテスは、婚約者の令嬢に好意を寄せている。
無能令嬢ネモフィラの何がよいのか、どこに惹かれるのか。アルフレッドにはさっぱり理解できなかったが。
だが、王家とキャンベル辺境伯家との間で、長らく秘匿していた極秘事項について、よりにもよって王宮の茶会で告白するなどという、他に類を見ないほどの愚行を犯す令嬢など、百害あって一利なし。
王家がネモフィラを切り捨てたとして、ネモフィラの兄、ヒューバートがアルフレッドに噛みつくとは考え難い。
彼は既に王太子アルフレッドへ生涯の忠誠を誓っている。
現キャンベル辺境伯は激怒するかもしれないが、そこはヒューバートがどうにかするだろう。
キャンベル辺境伯の実権については、もはや嫡男であるヒューバートの手中へと移っている。
――とはいえ、テスの反発は免れないかな。
いずれ来る弟王子との対立について、物憂げに頭をめぐらせていたアルフレッド。その耳に飛び込んできたこと。
それは、これまで実に物分かりのいい操り人形だった第二王子が、宰相とその子飼いの官僚達と対峙したという、驚くべきニュースだった。
第二王子ユーフラテス。
彼は周囲の期待通り、ほどほどに優秀で、どの派閥にも肩入れする様子を見せず、政治的な場面において、自らの意思を表に出さずにいた。それを示すほどの主張も能もないのだと見なされていた。
一方、ユーフラテスの婚約者であるネモフィラ。
その生家、キャンベル辺境伯家は、政略的結婚をよしとしない家で、これまでどれほど王家が婚姻による繋がりを求めようと、それは叶わなかった。
だが、ネモフィラの令嬢としての資質について懸念した現キャンベル辺境伯が、娘の将来を案じ、どこぞの男に騙されるよりは、と、第二王子ユーフラテスとの婚約を受諾する。
そういった経緯があったにも関わらず、丁重に扱うべき婚約者に、ことさら傲慢に振る舞うユーフラテスについて、『政治的意味を理解していない、尊大で傲慢な、愚かな第二王子』と見なす者も少なくない。
そしてそれは、第二王子ユーフラテスを傀儡にしようと企む宰相も同様だった。
宰相が当主を務める筆頭公爵家メロヴィング公爵家、及びその寄子として連なる家々。
第三王子エドワードの産みの母、側妃の生家である侯爵家。純血主義強硬派。
それらと対立するのが、メロヴィング公爵一派。純血主義穏健派。
純血主義穏健派の旗印が、第二王子ユーフラテスと見なされている。ユーフラテス本人の意思に関わらず。
そういった面々を前に、第二王子ユーフラテスは、キャンベル辺境伯令嬢を保護することの有用性について、熱弁をふるった。
ユーフラテスの主張について、俎上に載せられた結果、それは認められる。
第二王子ユーフラテスと辺境伯令嬢ネモフィラ。こうして二人の婚約は継続された。
そのような経緯の後の、ヒューバートからの、実に愉快な知らせ。
「ええ。ネモフィラは未来を視る能力があるようです」
「未来を?」
検証の困難な、なんとも怪しい能力ではないか。
有能な男だと考えていたが、妹可愛さに目が曇ったか。
アルフレッドは胸が冷えていくのを感じたが、いつも通り柔和に微笑み、ヒューバートに先を促した。
ヒューバートが頷き、令嬢の語る未来とやらを解説する。
アルフレッドは耳を傾けながら、その話に乗るのも悪くない、と感じた。
未来視に信用性があろうがなかろうが。そんなことは些末なことだ。
重要なのは、第三王子エドワードと、彼を旗印とする大貴族達をいかに手間をかけず、こちらに損害なく壊滅させるか。それだけ。
ならば、弟ユーフラテスだけでなく、その婚約者ネモフィラの信頼も、アルフレッドは得る必要がある。
アルフレッドはぞっとするほど美しい微笑みをヒューバートに向けた。
「ねえ、バート。せっかくだからネモフィラ嬢から、直接その話を聞きたいなぁ」
ヒューバートは心得ているとばかりに、ニヤリと笑った。常に温厚で柔和なヒューバートの、普段は見せない表情。
ああ、これは己が胸中を知られているな、とアルフレッドは内心苦笑した。
アルフレッドがネモフィラの能だけでなく、ヒューバートの能までも疑ったことを、ヒューバートは気がついているのだろう。
いや、この話を打ち明ける前から、この展開は読めていたのかもしれない。
「もちろんですよ。アル」
快諾するヒューバートに、アルフレッドは笑みを深める。
「テスも参加させようか」
不器用な弟。恋に溺れ、愚かで可愛い弟。
どうせなら、その恋心。うまく活用したい。
もともとあまり大きくないヒューバートの目が、すっと細くなる。
「愛する弟妹の兄として。アルも私も、幼い恋をぜひとも応援しなくてはいけませんからね」
「まったくだね」
これだから。
これだからヒューバートはいい。
遜り阿るでもなく、無為に反発するでもなく。
そうだ。
王子相手に一席ぶって、自らの狭い世界で見聞きしただけの、幼稚で主観的な主張を押し通すような我の強さなど、アルフレッドは求めていない。
アルフレッドに必要なのは、ヒューバートのような人間。
心はいらない。頭だけこちらに寄こしてくれれば、それでいい。
アルフレッドの側近候補の一人である子爵家嫡男。その妹。
第一王子派の令息令嬢を集めた園遊会で、幼い少女が、アルフレッドの厭う第三王子エドワードに、威勢のいい啖呵を切っていたことなど、意に介さない。
第一王子派であるべき子爵家の令嬢が、第三王子エドワードと親しくしようが構わない。
不快どころか、エドワードの弱点として利用価値がある。それだけだ。