第七話 軟弱エドは悪魔の子?
王太子アルフレッドと第二王子ユーフラテスは、シャロンの兄と共に帰城した。
王子に施した変身術を解き、任を終えた怪しげな黒い影――豊かな漆黒の髪と、漆黒の瞳の持ち主――も引き連れて。
王太子アルフレッドが最も信の置く、キャンベル辺境伯嫡男だけを残し。
いや、本物のキャンベル辺境伯嫡男の髪は暗めのブルネットとはいえ、陽に当たれば明るい栗色のように見えるから、窓から降り注ぐ、たっぷりと夕陽に照らされてさえ、黒々としているのには違和感を覚える。
また本物のキャンベル辺境伯嫡男の瞳の色は、エメラルドというほどグリーンではなく、深い碧、紺碧色だった。
なにより、本物のキャンベル辺境伯嫡男は武勇を誇る家の出自らしく、筋骨隆々と厳めしい容貌をしている。
柔和で穏やかな、紳士的な振る舞いとのギャップが素敵だと、華々しさを好まない性質の令嬢たちから、ひっそりと人気があるらしい。
令嬢友達のいないシャロンが、そんな浮ついた話を知っているのはなぜか。
情報源はシャロンの兄だからだ。
友人への称賛と「同じように凡庸な見目にも関わらず、なぜ彼は令嬢から人気があって、俺はそうではないのだ」というやっかみ。
だがキャンベル辺境伯嫡男といえば、王太子アルフレッドから最も重用され、さらに第二王子ユーフラテスの婚約者の兄でもある。
王家との繋がりが、これほどまで深い男も、そうはいない。
加えてキャンベル辺境伯騎士団は、この国最大の戦力を有する。その力は王国騎士団を軽く凌ぐ。
シャロンの兄など、とてもじゃないが並び立つことはできない。
さて一方で。
今、シャロンの前でヘラリと悪びれなく笑ってみせる男の容姿は、どう見ても美しく、剛健質実どころか質素な装いをしていてすら華美で怪しげで、軟弱そうだし、誠実さはどこにも見当たらない。
確かに王家との繋がりは深いだろう。キャンベル辺境伯嫡男よりずっと。
「シャロン、びっくりした? 魔女に魔法をかけてもらったんだ! 一度、なってみたくてね。キャンベル卿みたいに、男らしい男に」
わくわくと期待に満ち、きらめくエメラルドの瞳。
「ねぇ、シャロン。魔女はいたんだ。魔女はいたよ!」
薔薇色に紅潮した頬は白皙の肌に際立ち、息つくのに、ぺろりとくちびるを舐めた赤い舌は艶めかしい。
ああ、悪魔の子だな、とシャロンは思った。
悪魔ならば退治しなくてはならない。
シャロンは腰に手を当てたが、生憎湯浴みのあとで、剣を佩いていなかった。
ならば、と拳を握る。
高貴な血筋の第三王子ではなく、『ただのエドワード』ならば、シャロンがどれほど痛めつけようが問題はない。
体術剣術の達人であるキャンベル辺境伯嫡男の名を騙るくらいなら、へっぴり腰の軟弱エドは、鍛えなおす必要がある。
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「ユーフラテス兄上なら、とっくにキャンベル辺境伯領へ向かったと思うよ。ず~っとご令嬢の誤解を解けずにいたのを、やっと言い訳してもいいって許されたものだから」
エドワードが以前、軽々しくシャロンに打ち明けた国家機密。
それは、第二王子ユーフラテスの婚約者、キャンベル辺境伯令嬢が見た未来視。
前世の記憶によるのだとかいう、トンデモ話。
それによれば、王太子アルフレッドはいずれ、兇徒の襲撃を受け、右腕を損なうことになっていた。
兇徒その者と、また雇った者が誰なのか。日時と犯人は正確にはわからない。
だが、第一王子派、第二王子派、第三王子派、それぞれの派閥争いは激化していて、それを考えれば、第二王子派か第三王子派のどちらかの企てによるだろう。
王太子アルフレッドを襲った兇徒は捕らわれることなく、キャンベル辺境伯所有の森にて、自害した姿で見つかるのだという。
これらを聞いたとき、シャロンは仰天した。
第二王子ユーフラテスの婚約者、キャンベル辺境伯令嬢の未来視。
自身の家に王太子を害した最有力容疑がかけられるであろうにも関わらず、予見し、またそれを王太子に伝えたというのだ。
つまりそれは、今後そのような恐るべき事態が起こったとして、キャンベル辺境伯は潔白であることを王太子に訴え、ならびにキャンベル辺境伯が庇い立て擁護する第二王子ユーフラテスもまた、後ろ暗いことはないと、王太子陣営の懐に転がり込んだということ。
したがって、第三王子エドワードこそが最も、敵視すべきだと見なされるということ。
これまで以上に、エドワードの立場が危うくなるということ。
そこまで話すとエドワードは、緊迫感を湛えていた顔から、急に力を抜いた。
困惑するシャロンに向かって、エドワードが自慢げに胸をそらして言うことには。
「ユーフラテス兄上が教えてくれたんだ。くれぐれも変な気は起こしてくれるなってね」
エドワードが嬉しそうに、ヘラヘラ笑うから。
あんまりにも能天気なその様子に、シャロンは腹立たしくてならなかった。
だが、実際にエドワードは王太子アルフレッドを襲わせた。
そういうことになったとエドワードから、罪を打ち明ける手紙を受け取った。
ボコボコに殴られ、鼻から血を垂らし、切れたくちびるをペロリと舐めあげるエドワード。
腕が上がらず、足が立たず。エドワードはソファーに横になって、嬉しそうにヘラヘラ笑っている。
シャロンはそんなエドワードを見下ろし、こめかみを揉んだ。
「つまり、あれか。はじめっから、てめぇら兄弟の、はた迷惑な茶番だったてわけか」
「う~ん。はじめからじゃないよ。アルフレッド兄上がボクをお嫌いなのは、本当だし。ユーフラテス兄上とキャンベル卿がとりなしてくれなかったら、兇徒に襲われたのはボクだったかも」
ゴロリとソファーで寝返りを打ち、体勢を変えるエドワード。
呑気な声で続ける。
「その場合は、兇徒の役者が向かうのはアルフレッド兄上で、ボクの元には本物の兇徒が寄越されたんじゃないかな。
「だってさ、毒殺って実際、難しいからね。ボクにはそれなりに毒の耐性もある。臭いのない、味のない、使用量のごく僅かで抜群の効き目の猛毒なんて、そんなおとぎ話みたいなもの、そうそう手に入らないよ。そんな便利な毒が存在するなら、アルフレッド兄上も、ユーフラテス兄上も。とっくの昔に毒殺されているだろう?」
だろう? と同意を求められて、容易に頷けるものではない。
シャロンはこの先に続くだろう、エドワードの言葉を聞きたくないと思った。
「側妃さまが、何度その手を使おうとして失敗してきたことか! 何人もの毒味係が犠牲になったけれど、皆、命までは失っていない。毒殺って本当に、確実性が低いよね!」
側妃のおぞましい企てについて、シャロンは初耳だった。
それにも関わらず、エドワードは当然の常識かのごとく、毒殺の不確実性をシャロンに語る。
たが、シャロンにとって恐ろしく感じたのは、エドワードの天真爛漫を装った、無邪気な残酷さではない。
それほどまでの事件を起こしながら、なぜこれまで側妃が失脚しなかったのか。
シャロンはぶるりと身体を震わせた。
一つの答えが頭に浮かんたからだ。
――泳がせていた。
王太子アルフレッドの、あの目。
シャロンにするのと同様に、彼は側妃を時が来るまで、泳がせていたのだ。
見えない縄を首に巻きつけたままで。時が来たれば、それをヒョイと引っ張る。
口元には優美な微笑を湛えたまま。
一方、エドワードの軽薄な弁舌は止まらない。
「もちろん、毒だとわかって、大人しく飲んでやるつもりもないしさ。どうしてボクが、冤罪で毒を煽らなきゃいけない? シャロンもそう思うだろう?」
無言を返すシャロンを気にすることなく、エドワードはペラペラと調子よく、おしゃべりを続ける。
「ボクが本物の兇徒に襲われようと、どちらにせよ。ボクが、アルフレッド兄上を害そうとして失敗した、間抜けな第三王子だって、後世に名を残すのは変わらかったのだろうな」
嬉々として『もしかしたら』の未来を語っていたエドワードは、そこでふと眉をひそめた。
「うわぁ。それ、いやだなぁ。まるで悪役みたいだ。禍王子、悪魔の子そのものじゃないか」
しかしそこでまた、エドワードは機嫌をなおす。
「うん。でも、もしかしたら悲劇の主人公になれるかも! きっとそう! 城下でボクをモデルにした芝居なんか、流行るんじゃないかな。アルフレッド兄上が、極悪非道に描かれるといいなぁ」
時間がたてばきっと、エメラルド色の目のまわりは、頬骨まですっかり青く染まるだろう。殴られ浮腫んだ瞼は既に青紫色だ。
しかしシャロンはもう一撃、そこに加えてやりたい誘惑に駆られる。
震える拳を左手でおさえ、息を吐きだし、喉から唸るように声を捻りだす。
「経緯は? なんでそうなった」
「ボクも詳しいことはよくわからないけど。『キャンベル辺境伯家の旧き魔女の血を受け継ぎ、能力を開花させた』キャンベル辺境伯令嬢によるとね。強制力だとかいう世界の法則が働くかもしれないから、未来視の筋書き通り、アルフレッド兄上が兇徒に襲われたように仕立て上げたほうがいいって。そんなような話に落ち着いたらしい」
「いつからだ」
「え?」
きょとん、とエメラルド色の瞳が腫れあがった瞼から覗いている。
「いつから、エドは王太子殿下と結託していた」
エドワードは露骨に顔をしかめた。眉間にシワを寄せ、口を歪め、ソファーに当ていた頬を軽く上げて、首を後ろに引く。
「結託だなんてやめておくれよ。アルフレッド兄上と仲良しこよしだったことなんて、一度だってないよ」
シャロンは舌打ちする。
「言葉尻を捉えるんじゃねぇよ。てめぇが王太子殿下を襲ったことにして、存在を抹消される。王太子殿下は敵陣営を崩壊させられて、万々歳。ご自身の治世への礎を築くのに、最大の邪魔者だった第三王子が消えてなくなる」
「そうそう。腹黒いよね、あの人」
シャロンはニコリと令嬢らしく微笑んだ。
エドワードが瞬きをし、そっと身を後ろに引いた。すぐにソファーの背もたれに当たってしまい、それ以上は下がれない。
エドワードはキョロキョロと視線を彷徨わせたが、すでに応接室からは一切の人間が捌けている。
シャロンはエドワードへと足を踏み出した。
エドワードは嘆息して、ぼすん、とソファーに再び顔を埋めなおす。
「第三王子は死んだことになって、鬱陶しい高位貴族どもから担ぎ上げられることもなくなる。エドは望んでもいねぇ王位継承権争いから、ようやく解放される」
牛革のクッションに鼻先を埋めるエドワードの頭上に、シャロンの令嬢にしては低い声が降り注ぐ。
穏やかで柔らかく、心地のいい声。子守唄にこのまま眠ってしまいたくなるような。
だがエドワードの耳が、かさついて冷たい指で引っ張り上げられる。
「ああ……うん。そうとも言えるかな」
スベスベとして気持ちのいい革の感触が、エドワードの頬から離れていく。
「てめぇは王子でもなんでもなく、ただのエドワード。『囚われの姫君』は、晴れて自由の身。そういう筋書きだろ?」
引っ張られた耳もとで、シャロンが囁く。
エドワードはゾクリとした。
これはいい。
これだったら、何を聞かれても、ちゃんと答えてやろう。エドワードはそう思った。
「それで? 王太子殿下とエド、お互い嫌いあってる者同士が手を組んだのは、いつだって聞いてんだ」
「もちろん、ボクが最初にシャロンに打ち明けないはずがないじゃないか! ボク、言ったよね。『その逞しさで、ボクをいつか救い出してくれ』って」
ヘラリとしたエドワードの間抜けな笑顔に、シャロンは令嬢らしく、優美な様子で微笑み返す。
このときばかりは、悪魔の子はエドワードではなく、シャロンその人であるように思われた。
こっそりと応接室を覗き見ていた使用人や、城から戻ったシャロンの兄が、後にそのように語るのを、エドワードは強く同意した。
「ボクなんて、ただの『軟弱エド』なだけなのにさ。みんなボクのこと悪魔の子だなんて。買いかぶりもいいところだよ」
そう言って屈託なく笑うエドワードは確かに、悪魔の子ではなかった。