次期長となる者
ふらふらと歩き回るうちに、記憶は薄らと辺りに溶け込んでいた。
気付くとそこはもうあの恐ろしい道ではなく、自分の部屋だ。シンの姿はいつの間にか居なくなっている。しかしまだ先ほどまでシンはいたようで、背中が温かい。その温もりがどこか心地よく感じる私は、やや重症なのかもしれない。
「高校始まったら、彼氏でも作れないかな」
あんなエロ狐さまに彼氏の役割を求めるのは、さすがになにか違うだろう。しかし一緒にいればいるほど、不快ではないのは確かだ。だからこそ、ちゃんと見つけないと。
「友達もいないから……かな」
引っ越ししてしまったために、ここでの知り合いは親族以外にいない。仲の良かった子たちとは、連絡は出来ても、それだけでしかない。
「帰りたい」
あの場所にではなく、あの頃に。今例え戻ったとしても、あの頃の何もなかったような関係性には戻れないような気がするから。仕方がないとだけ繰り返す父には、きっと私の気持ちなんて分からないだろう。
ため息も、ひとり言も、誰に聞かれるわけもなく、ただ静まり返る部屋の中で消えていった。
◇ ◇ ◇
引っ越しを終えた次の日に本家への挨拶が行われる予定だったが、長の体調不良により今日まで延期となっていた。しかも祖母から言われたのは、一人で本家へ行くようにという少し頭の痛くなるような話だった。
元々、本家になど大して行ったこともない子どもが、一人で顔を出すなど嫌で仕方がない。しかし、父は相変わらずあの言葉を繰り返すだけで味方をしてくれることはなかった。
「あ、あの、皆さま来るのはもう少しかかるのでしょうか」
やや片言で、この会場を切り盛りしているお手伝いさんに私は声をかけた。
ここは本家の大広間だ。一番奥の上座は一段高くなっており、長が座る席だろう。そしてその正面に今私は座らされている。私の横に並ぶ座布団は三つ。私はここへ通されるなり、すぐこの長の対面となる場所を指定され、かれこれ10分近く座っている。そして私たちの席を囲うように、左右にはずらりと座布団が敷き詰められていた。一体、今日は何人ここへ来るというのだろうか。
「もうお一人の戒様でしたら、今お見えになりましたよ。もうお一人の長候補だったお方は、参加できなくなったとお聞きしております」
お手伝いさんは決して私に目線を合わせることなく、お辞儀した格好のまま答えてくれた。
「……戒って……」
確か従兄だったと思う。思うというのも、私は幼い頃の記憶があまりないのだ。周りの大人たちはそんなもんだと口々に言うが、友達に聞いても小学校より前の記憶が曖昧なんてことはなかった。三歳でここから引っ越したとはいえ、別に取り分け何か衝撃的なことがあったわけでもないのに。
「……」
無言でやや厳しい表情の男性が部屋へと通される。私を見るその表情は厳しいというよりは嫌悪に近い。身長はシンよりはやや低いだろうか。それでも170cm以上はあるだろう。そして一言も声を発することなく、私の隣に座った。
露骨にここまで不機嫌な顔をされると、声をかけづらい。短い黒い髪に整った顔がなんとも台無しだなと横目で観察をしていると、上座の襖が開いた。
付き人らしき男の人に支えられながら、杖を付いた長が部屋に入ってくる。確か御年75だったはず。足腰こそ弱いものの、目つきは鋭く、思わず視線を逸らしたくなるほどだ。家紋の入った着物をきっちりと身に着けており、なんだか普段着の自分が恥ずかしくなる。
「皆の者、今日はよく集まってくれた」
上座に着くなり、長が挨拶をする。しかし、この部屋には私と隣に戒しかいないというのにどうして皆の者などと……。
しかし、ざわりとした視線が纏わりつく。誰もいないはずの座布団たち。それなのにまるでカメラか何かでじっと観察されているような気分だ。そこにはないはずの視線に、値踏みされているような居心地の悪さが支配する。
「今日集まってもらったのは他でもない。次期長の継承についてだ。今回の継承についてはいろいろあったものの、最終候補としてここにいる千夏か戒に継がせようと思っている」
本家は相次ぐ不幸が重なり、直系の血筋はもう長しかいないとは聞いていた。分家から跡取りをとるという話も。しかしそれが私か戒かなど、詳しい話など父たちから何も聞いてはいない。
「知っての通り、我が一族はこの地の堰を守る役割がある特殊な一族だ。そのため、力を持つものしかその資格はない。最終的にはどちらかが認めるか、わたしが指名したものを長とする」
周りから感嘆が上がったように思える。そう、音はもちろんない。
「お言葉ですが長、もう勝負は見えているのではないですか」
やや鼻で笑うように、戒が私を一瞥する。そんな勝ち誇ったような顔をしなくたって、私はもちろん本家を継ぐ気などない。
「そうさね、千夏の方が常におまえの前を行っているからね」
「え……。いえ、私なんてなにも」
「そうです。なんの力もない者がどうして俺より先に行っているなどと言うのですか」
「生まれ持ったものの違いさね。それにすでに千夏は神獣を従わせている。あれは、一族の長に付き従うものだからね」
神獣というのは、おそらくシンのことだろう。しかし付き従うというのは少し違う。シンはただ私に付き合ってくれているだけで、私はその対価を払っているだけの存在だ。もしかするとシンは私に情が移って、よくしてくれているかもしれないが、付き従うという言葉は少し違うだろう。
「神獣を……」
「彼とは、仲良くさせてもらっていますが、それはそういう関係ではないですし」
「どちらにしろ、アレが力を貸すというのはそういうことだ」
長の言葉に、戒は苦虫をかみ潰したような顔をしながら黙り込む。もしかして、歴代もシンは女の人にだけ力を貸して、あんなエロい請求をしてきたのかもしれない。もしそうなら全て納得がいく。戒は男だし、シンは興味がなさそうだ。
いやいやいやいや。そうなると、このままでは私が長にされてしまう。こんな田舎からとっとと出ていきたいのに、長になればそれも出来ない。なんとかして穏便に、戒に長になってもらわないと。
「ともかくこれで宣言は出した。あとは二人次第さ」
「俺は引く気はありません。必ずや、長になります」
「……あ、あのう……」
譲りますと言いかけた言葉を飲み込む。明らかに怒っている戒に今そのことを告げても、おそらくは喜びはしないだろう。それよりも逆に、自分のことを見下しているのかと勘違いさせかねない。
「意見がないなら、今日はここまでとする」
長は席を立ち、部屋を出ていく。同時に、先ほどまでの視線もすっと消えた。
「とにかく俺はお前を認めない。ただ名に縛られるだけの者になど」
吐き捨てるように戒は言うと、そそくさと部屋から出ていった。
名に縛られる、そういえばシンもそんなことを会った日に言っていた気がする。縛られるというのはどういう意味だろう。戒の言うように関という名字のことを言うのならば、戒だって同じはずだ。しかし戒のあの言い方は、縛られているのは私だけだと言っているようだった。そうなると、戒と私の違いはなんだろうか。
「やーめた。考えても分からないものは、分かんないもん」
一人残された部屋で大きく伸びをした後、立ち上がった。一人で考えても分からないものを、こんなところで考えたところで答えは出ないだろう。それならばこんなところに残っている必要性はない。
歩き出した私の目には、無数のずらりと並んだ座布団たちが写る。頭のどこかで、やめなさいという自分がいるのを無視し、私はその一つに触れた。
先ほどまで確かに誰かが座っていた。そう断言できるほど、その座布団は生温かった。