神隠しは怪異の始まり
「あっつい……」
その言葉以外はもう思いつかない。日陰を歩くなと言われても、日なたを歩いていたら熱中症になってしまう。私はなるべく日陰の裏道、裏道へと進む。高い家の塀と木々に囲まれた裏道は、先ほどより何度温度が下がったのだろうかと分かるくらいに涼しい。
「はぁ、もう無理」
日なたへは戻らず、このまま日陰の道を行こう。いくら裏道とはいえ、表だって誰も歩いていないのだから同じだ。
ジリジリジリという耳障りなノイズが走る。私は耳に付けたイヤホンを外し眺めた。特に電源が切れたわけでも、壊れたようにも見えない。
「まだ買ったばかりなのに、もう壊れたのかな」
もう一度付けようとした時、今度はキーンという耳鳴りが聞こえてくる。暑い中歩き続けたせいだろうか。耳を抑えても、耳鳴りは消えない。
「なにもぅ……、あっ」
耳を抑えた手から、イヤホンが転げ落ちる。コロコロと線のないイヤホンは転がっていく。私はやや前かがみになり、下を向きながらイヤホンを追いかけた。そして二つとも拾い上げた時、ふとおかしなことに気付く。
「あれ?」
音がない。まるで夜中のように辺りはシーンと静まり返り、あれほどせわしなく鳴いていたセミの声も聞こえない。
嫌な汗が背中を伝う。静かな町の中と比例するように、心臓の音がうるさい。気のせいだ。そう自分に言い聞かせても、まるで張り付いたように足が動かない。ちょうど金縛りというのは、こういうことをいうのだろか。しかし金縛りとは寝ている時に起きる、脳の伝達障害だとこの前テレビでやっていたっけ。今はもちろん寝てなどいない。それならばなぜ、動けないのか。
「……」
なんなのよと言いかけて、声すら出ないことに気付く。生温かい風がただ体にまとわりつき、不快以外のなにものでもない。しかしそんな静寂を破るかのように、どこか遠くから鈴の音が聞こえてくる。微かに聞こえるその音は、よく耳を澄ませると私のちょうど後ろの道からゆっくり近づいてきている。
どう頑張っても、いい予感はしない。私がなにをしたというのだろう。こみ上げてきたのは恐怖ではなく、怒りだった。自分の思い通りにならない体、そしてそれ以上に思いに対して。
「だー、もういい加減にしてよね」
そう言い終えたところでふと体が軽くなり、前につんのめる。
「動いた」
「凄いな、怒りで金縛りを解く奴なんて初めて見たぞ」
ふいに、背の高い男の人に手をつかまれる。白い着物の様な服装のその人は、私の手を引いて走り出した。
「ちょっと、なんですか」
「いいから。捕まりたくなかったら、走るんだ。あと、振り返るなよ、絶対に」
絶対に振り返ってはいけない。そんな怖い話は聞いたことがある。聞いたことはあっても、なったことがある人間など、どれだけいるのだろうか。しかし本能的に、振り返ってはいけないということだけは分かる。
私たちが走り出すと同時に、鈴の音もスピードを上げて追いかけてくる。この路地はこんなにも長かっただろうか。いくら走っても、ただ長い塀に囲まれた薄暗い道が続いている。
「ったく、本当にしつこいなぁ」
「すみません、後ろのあれはいったいなんなのですか?」
「ほらよく、お化けとか妖怪とか聞いたことあんだろ。そんなもんだよ。だが、あれは少したちが悪い奴で、気に入った者を神隠しで攫ってしまうのさ」
「神隠し」
祖母の言っていた、迷信がこんな形で当たってしまうなんて。いやいや、そんなことより霊感だってないのにお化けとか妖怪とか言われても。
「冗談……ではないですよね」
「冗談なら、ずいぶんたちの悪い冗談だな。俺も真夏に全力疾走する趣味はないんだが? それか、試しに捕まってみたらどうだ」
「ちなみに捕まったらどうなるんですか」
「ま、一生帰っては来られないな」
「一生監禁とか遠慮しておきます」
「だろうな」
ただ今手を引いて走っているのも、ある意味おかしなことだ。だって、私はこの人のことを全く知らないのに、後ろの鈴の音よりマシだと思えてしまうのだから。
「おいおい、ちゃんと走れ」
「そう言ったって、出口すら見えないのに全力疾走しているんですよ。女子高生なめないで下さい。もう体力限界です」
「最近の奴は弱っちいな。そんなことで、どーすんだよ。出口はないわけではないんだ。あいつらの気をお前から逸らせればなんとかなるんだが」
「逸らすっていったって」
「人形とか持ってないのか?」
ひとがたとはなんのことだろうか。よく漫画とかに出てくる紙で出来た人の形をしたやつのことだろうか。
「いやいや、普通にそんなもの持っているわけないじゃないですか」
「今どきのジョシコーセーというのは持ってないのか」
「持っていません。携帯にマスコットなら付いていますけど」
カバンに付いたお土産でもらったマスコットを掲げて見せる。するとその男の人が振り返り私をみた。灰色のやや長い髪に、瞳の色も同色だ。外国人さんなのだろうか。それにしてはとても日本語が上手だけど。
「それでいい」
反対の手を差し出す彼に、マスコットを手渡す。
「痛い」
「悪いな」
マスコットを受け取るだけだと思ったその手が、器用に私の髪を一本引き抜く。彼は私の引き抜いたその髪をマスコットの首元に引っ掛けると、立ち止まり、塀の奥へ投げ捨てた。
「マスコット」
「静かに」
次の瞬間、目の前は白い世界だ。私はすぐに彼に抱きしめられていたのだと理解する。やや甘いお香のような匂いが広がる。まるで包み込むように、ふわりと抱かれているうちに、先ほどまでの鈴の音が聞こえないことに気付いた。
「はい、お疲れさん」
解放されたというのに、ややもの悲しく感じるのはきっとこの人がイケメンだからだろうか。
「そんなに見つめて、なんだ、惚れたか?」
「な、別に惚れてなんてないわ。さっき会ったばかりなのに、なに言っているの?」
「会ったばかり……な。ま、いいや」
意味ありげに微笑むその顔も、やはりカッコいい。歳は二十歳より少し上くらいだろうか。着物を着ているところを見ると、芸術家かそっち方面の方だろうかなどと、ぼんやり考えた。
「あの、助けていただきましてありがとうございます」
きちんと頭を下げてお礼を言う。何が起きたのかはイマイチ分からないけど、追いかけてくるアレに捕まっていたら、元の世界には戻っては来れなかっただろう。そんな気がした。
「って、ここどこ」
先ほどの塀で囲まれた日陰の道ではなく、私たちはなぜかうっそうと茂る竹林の中にいた。しかしここは息苦しさもなく、音もある。確かに私が元いた世界だった。ようやく腹の奥から大きく息を吐き出した。