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*プロローグ*

『僕はずっと、何かを失ったという事実を認めたくなかったのかもしれません。なんとなく生きている感覚がしないような、誰かの人生を生きているような、すべての感覚が麻痺しているような状態でした』小説『破片』より


昭和二十年、八月ー


 焼野原にはいまだに麦やコメの焼けた異様な臭いが漂っていた。湿度が高く立ち上る煙のせいで昼間でも薄暗い。

 玄関先にはかろうじて「染物店」の文字だけが読み取れる焼杉となった看板があって、生活のあとがわかる。周りには腰掛になるほどの大きな六角焼夷弾が、幾つも地面に突き刺さっている。火薬の臭いが生暖かい風に流れてきて思わず口元を覆いたくなる。


 染物店の間口は広く、敷地のほとんどを占めている洗い張りのための広い庭には瓦が散乱していた。焦げた若松が取り囲むように幾本も植えられている。半分から先がないものもあるし、根から倒れているものもある。

 右手にある屋敷は、ウナギの寝床のように細くて長い。土間と洗い場がある玄関から、居間とその奥座敷へと続く間取りは、支柱を残してそのほとんどが見通せた。


 奥座敷から庭へ出ると立派な蔵があり、あの空襲にも倒れず外壁を残していたが、そちらにも焼夷弾が幾つも撃ち込まれていて、瓦の吹き飛んだ屋根に空いた穴からモクモクと煙が立ち上っていた。さきほどからの何とも言えない異臭は、おそらくそこからに違いなかった。


 蔵に保管していたのはコメ麦と馬鈴薯、反物や染料などの荷で、判別がつかないほどに黒く焦げて炭となっていた。それでも「なにやらいい匂いが混ざっている」と人々が集まっている。蔵の中にぺたりと座り込んでいる少女がいた。その細い手足もまるで木炭のように真っ黒になっている。

 来る人来る人に蒸し焼きになった馬鈴薯が山ほどあるのを、手渡しているのだ。


 時折、大人たちが「大丈夫か」と声をかけるが、馬鈴薯をほとんど機械的に手渡すのみで、まったく顔をそむけているものだから、みな要領を得ないでいる。

 顔見知りと思われる、赤ん坊を背負った女性が、

「トウコちゃん」

と声をかけた。

「ここは焼け残ったのねぇ。馬鈴薯がほくほくに出来てるね。配給所に持っていくんだって、みんな喜ぶわよ。体も洗わないとね。虫がわいてかゆくなるから」



 トウコと呼ばれた少女は、焼け焦げた長い結い髪を気にする様子もなく、破れたモンペも脱ぎ捨ててほとんど下着姿だった。二の腕には、手ぬぐいがきつく巻き付けられていて、体には火薬やら灰やら、そのほか付着した色々なものによって悪臭を放っていた。それでも馬鈴薯を配っているのを聞きつけた人々は、口元を手ぬぐいで押さえながらも、まるで彼女の知り合いであるかのように親しく接し、馬鈴薯を受け取った。



 馬鈴薯を引き取りに来た人々は、女性がトウコの知り合いと分かった途端、

「馬鈴薯をもらっていいのか」

「この子はどうするのか」

と一斉に尋ねた。

赤ん坊を背負った女性は、隣組の組長をしていて、集まっている大人たちにトウコの母親は空襲で死んだこと、父親はマレー半島での戦いに勝利し、帰還したあとは街道沿いの茶店などをうろついていたこと、一つ上の兄は陸軍幼年学校の寮生のため亡くなっているかもしれないということを説明し、ぜひ寺で保護してほしいと懇願した。


 そして、家族ぐるみの付き合いをして、トウコの今現在のただ一人の身内のようなものだと熱く語ると、馬鈴薯を手にした男たちからちらほら情報が集まりだした。駅前の軍人が、

「孤児は養護施設へ収容される」

と言っていた、とか、寺ならどこそこが良いとか、聞いた噂を持ち寄りはじめると、後ろめたいような人々の表情にも笑顔が見られ、会話が弾み、ひとときの団欒が生まれた。


 それなら一度寺に保護してもらって、そのあと施設への行くのが良いのではと話が収束へと向かおうとしていた。良心的な声たちはさきほどまでとは違った声色でトウコへと向けられた。


 しかし当の本人はまるで話を聞いていないのか、試行錯誤をした彼らの試みを無視して、体を後ろに逸らした。優しく語りかけたり、食べ物で誘導しようとしたり、大人たちなりの思案を行動にうつすも、トウコは女性の手を払いのけるばかりだった。


 一人、また一人と、申し訳なさそうな笑顔を残して去っていく。


「ここにいても、いつ崩れるかわからないから、とにかく一緒にお寺に行きましょう」


 トウコは首を横にふる。トウコが言った。


「千代ばあちゃんのお茶飲みたい」


「無理よ。焼けちゃったの」


「千代ばあちゃんのお茶が飲みたい」


「トウコちゃん、うちの母はね。だめだったのよ。足が悪いから逃げられなかったのよ」


「お茶が飲みたい」


 言うことを聞かないトウコに、女性はいよいよ強く低い口調になった。


「死んでしまったんだからしょうがないじゃない。あんたのお母さんも死んだのよ。わかってるの……わかるわけないか、トウコちゃんには……」


 女性が強い声を出したので、トウコは耳を塞いで落ち着きなく体を揺らし始めた。

 女性は、子供相手に感情的になってしまったことを後悔するように涙を浮かべた。


「ごめんね。でもお願いよ……。親戚の家に疎開へ行くことにしたのよ。当分帰って来られないわ。そうなるとね、学校にも行っていないあんたのことを、知ってる人なんていないでしょう。配給ももらえるから、あんたがお寺に行ってくれるなら、おばちゃんも安心して疎開出来るんだけどな……そうだ、お寺ならきっとお茶が飲めるわよ」


 無理やりにでも引っ張って連れて行こうものなら、蔵の奥に逃げ込んでしまうため拉致が明かない。そうこうしているうち、背中の赤ん坊が泣きだしたので女性は肩を落とした。


 そこへ、軍の配給所の担当者が話を聞きつけて、リアカーを持ち込み、トウコの蔵にある食べられそうなものを運び出していった。

 女性は、ひとつ大きく息を吐いて、リアカーの馬鈴薯を掴むと、持っていた私物であろう片手鍋いっぱいに入れて、蔵の入り口に置いた。そうしてもう振り返らずに、大通りの先を行く、長く伸びた影に連なるようにしてその場を後にした。

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